アフリカ/首都と大統領
米国の本というと、たまには疑ってかからないといけない場合もある。
マリリン・モンローの出演した映画「七年目の浮気」に、自分が書いた精神医学の本を出版するという大学教授が登場する。
彼が編集者との打ち合わせに行ってみたら、出版予定の彼の本の表紙が、まじめなものから裸体の美女をあしらったどぎついものに変えられていた。
おどろく教授に編集者は、こうしないと売れないからという。
売るためには作家の意見をねじまげるのが米国の出版社なのだ。
ポール・セローはジンバブエの首都ハラレまでやってきた。
この国には立派な美術館もあるし、美術館の中には六本木の国立美術館にまけないようなきれいなカフェもある。
だいぶ雑だけど鉄道もあるし、線路のわきには火力発電所もある。
行政はうまく機能しているようだけど、いつもいつも平穏無事でいるわけではなく、警察はやはり荒っぽい。
人々がバケツを手に並んでいる写真は、2019年の干ばつのときだそうだ。
きれいなところだけではなく、汚いところも見せるのがわたしの悪いクセ。
街を写真で紹介しながら、セローの本についても書いてみよう。
セローは国際的に知られた作家で、このブログでなぞっている「ダーク・スター・サファリ」もおおいに楽しめる紀行記であることはまちがいがない。
わたしがマリリン・モンローをひきあいに出したのは、アフリカ紀行のなかで、セローが思い切りジンバブエの大統領をこきおろしているからである。
抵抗運動をしていたころ、警察の拷問を受けてキンタマに焼きを入れられたとか、梅毒が脳にまわったとか、呪い師と相談しないとなにも決められないなどなど。
ここまでけちょんけちょんに書かれると、やっぱり売らんがための誇張があるのではないかと疑問を感じてしまう。
だいたい、そんな人物がどうして37年間も最高権力者の地位にいられたのか。
アフリカだからもちろん文句をいわせない独裁と、反対派への徹底的な弾圧があったんだろうとは誰でも思う。
しかしムガベ大統領は、アメリカのように乱発されるいいかげんな学位ではなく、本物の価値ある学位をたくさん持っていて、最初のうちはアフリカでいちばん教養のある指導者なんていわれていたそうだ。
セローがマラウイで“アチムウェネ(同志)”のルバディリに会ったとき、彼の奥さんであるガートルードは、大学時代のムガベは本の虫だったわといっていた。
その政策も、当初は教育や医療の向上につとめ、「ジンバブエの奇跡」と呼ばれる国の発展を招いたまともな大統領だったそうである。
それが大統領時代の後半になると、政策の失敗から社会不安を招き、それをごまかすためか、白人に対して農場の接収などのむちゃな政策をとるようになり、反対派や気にいらないマスコミを弾圧するというアフリカ型の独裁者になってしまった。
ポール・セローがジンバブエにやってきたころはまだ現役で、わたしは暴力の学位を持っているなんてイバっていたそうである。
白人のセローから見れば同じ白人農場主を迫害する暴君ということで、彼はことさらムガベの欠点ばかりを強調したのかもしれない。
それでもこの大統領は西欧諸国に太刀打ちできるほど頭がいいというので、国内の人気は高く、死んだときは国葬だったという。
ウィキに載っているムガベ語録はおもしろい。
「アメリカと西欧諸国は能なしの馬鹿」「コレラは旧宗主国のイギリスによってもたらされた生物兵器」「経済問題や人権問題なども米英の責任」などと言いたい放題だ。
在任期間が長かったせいで、彼は日本にも何度かやってきていて、いちばん最近は安倍首相のときにも来日していた。
このとき彼は95歳で、世界の権力者のなかで最高齢と讃えられていたそうだ。
セローの文章にはほかにも疑問をもつ理由がある。
国家をあげて白人排斥に取り組んだというけど、セローの本を吟味してみると、まず彼は首都ハラレを歩きまわり、裏通りの骨董品店で、店主をしていた英国生まれのおばあさんと知り合う。
彼女がふつうに商店を経営していられたということは、ジンバブエの首都が白人にとって危険すぎる国ではないことを教えてくれる。
このおばあさんの紹介で白人の農場主と知り合っていろいろ話を聞くんだけど、この農場主もアフリカ人の退役軍人たちに農場を襲われたことがあった。
そのとき彼は雇用人たちとともに銃で反撃して追い払ったという。
この雇用人というのはアフリカ人である。
白人といっしょになって職場(農場)を守ったというくらいだから、どうも一方的にアフリカ人が悪くいわれるばかりではなさそうだ。
ハラレの写真だけではこの国の実情はわからない。
ジンバブエの市場の写真も見ていこう。
セローが旅をしたころ、ジンバブエはなんとか自給自足経済をしていて、この国には援助団体は入ってきてなかったという。
アフリカの国としては感心なことではないか。
セローの本のなかに、政府内部が統一できていないという記述もある。
ちょうど現在のアフガニスタンのように、独立闘争で功績のあったいろんな勢力がいて、大統領はこれを完全にコントロールできていなかったというのが本当のところじゃないか。
闘った兵士たちは成功報酬を求め、それぞれが勝手に白人の農場に居座っていたのかもしれないし、大統領にも政策の不満をそらすために彼らを積極的に利用した可能性がある。
セローはジンバブエ側の言い分を聞こうと、この国の環境大臣エドワード・チンドリ=チニンガと面会した。
大臣の話はマラウイの米国大使P・T・S・カンディエロのようにそつがなく、第三者のわたしからみると、かえってせっかちなセローのほうが目立ってしまう。
この写真はチニンガ大臣で、セローは30歳ぐらいと書いているけど、じっさいにはこのとき46歳で、彼についてはセローはとくに悪くは書いていない。
この大臣はやがてムガベ大統領と対立し、納得のいかない交通事故で死んで、暗殺されたんだろうといわれた。
骨董品店のおばあさんに紹介してもらった白人農場主はドラモンドといって、首都ハラレの西80キロのところに農場を持っていた。
マニャメという湖の近くだというから この地図の赤〇で囲ったあたりだろう。
ドラモンドは退役軍人らの襲撃におびえながらもなんとか農場を維持していた。
このへんはアメリカ開拓初期の、インディアンと闘争を繰り返しながら、すこしづつ彼らの土地を蚕食していった欧米の開拓者と重なる。
まわり中が敵という環境のなかで開拓したのはエライ、というのはこちら側の言い分である。
インディアンにはあちら側の言い分があったはず(野生動物たちにも言い分があったかもしれない)。
ドラモンド農場でセローは勝手に居座っているアフリカ人と話をしてみた。
彼の言い分は、オレは貧乏人だ、政府がここに住んでいいといった、国が面倒をみてくれるのは当然だ。
これじゃ白人からすれば居直り強盗と変わらないけど、全部政府におまかせの、極東アジアのどこかの国に似ているな。
そうやって政府黙認のうえで勝手に土地を手に入れたアフリカ人たちのほとんどが、農業に失敗していた。
それ見ろというのは簡単だけど、しかしつい先ごろまで小作専門だった人間に、いきなり農業をうまくやれというほうが乱暴なのだ。
もともと怠惰なところはあるにせよ、時間さえかければアフリカ人にも学習や進歩の可能性がないわけじゃない。
最後の3枚の写真は、いちばん上が白人の農場主、つぎの2枚は農場で働くアフリカ人たちだけど、女性の明るい笑顔を見ると、彼らはすでに自作農民にしか見えない。
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