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2022年1月15日 (土)

アフリカ/エイミー

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ケープタウンに到着するとだれでも、街の背後にそびえるテーブルマウンテンの異様な光景に目を見張るだろう。
そ、ここは地の果て、アフリカの果て、日がな1日強風が吹き荒れて、景色がディストピアなのも当然な土地。
それでも街はこじんまりとして、海は輝いており、空気は新鮮で、いろんな顔が勢ぞろいしたケープタウンは、南アフリカでもっとも住みやすい場所だった。
と書いたすぐあとに、セローは犯罪の多さは、この旅で通過してきた場所でダントツだったとも書く。
ようするにうわべだけで判断はできないということである。

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セローは海辺のホテルに荷物を下ろしたあと、ぶらぶらと街に散策に出た。
カンパニーガーデンというものがあったので覗いてみた。
わたしも覗いてみた。
オランダ人が植物を植えたのが始まりだという植物園で、地図を見てみると小さな公園である。
いちいち彼のあとにくっついて歩くのは、わたしのほうはとりたてて目標がないからで、この項ではセローが見たものを重点的に見ていく。

タンザニアで乗った列車でセローの「わが秘めたる人生」を読んでいた娘と、その彼氏が先にケープタウンに滞在していたので会ってみた。
彼らの体験はドタバタでおもしろいけど、ここで触れるほど重要ではない。

ある日セローは、列車に乗ろうとしてそれに乗り遅れ、たまたま発車直前だったべつの町行きの列車に乗ろうとした。
やめたほうがいいです、そこはものすごく危険な場所ですと車掌はいう。
それでも翌日、セローが危険といわれるスラムに乗り込んだのは、止められるとよけい行きたくなる性分なのか、たんなるジャーナリスト精神だったのかわからない。

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わたしのテレビ番組録画コレクションのなかに「ケープタウン・銃弾のスラム」というものがある。
暴力や犯罪の多発する南アフリカのケープタウンで、ギャングの卵である若者たちのあいだに飛び込んで、なんとか彼らを更生させようと奮闘する白人牧師をとらえたドキュメンタリーだ。
あるスラムでは映画「ウエストサイド物語」のように、若者たちのふたつの勢力が対立して、しょっちゅうだれかが殺されていた。
牧師は命の危険をかえりみず、両者のあいだに割って入って、両者を和解させようと試みる。
ポール・セローの旅ではこれまでもあっちこっちで、アフリカ人を救済しようとする白人を見てきたけど、いったい彼らの情熱はどこからくるのかと、これは奴隷制度を持ったこともなく、歴史的にもアフリカに深く関わったことのない日本人にはわからないことかもしれない。

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ケープタウンのスラムはどのへんにあるのだろう。
テレビ番組のなかに、牧師さんの活動域としてGoogleの地図が出てくる。
それによると空港から海に向かう高速道路の左下で、セローの本でも同じあたりが危険なところだと書いてあった。
わたしのブログはなんでも見てやろう精神が充溢したものだから、ストリートビューやネットの画像で具体的にスラムを見てみよう。
ここに載せた衛星写真と高速道路のわきの写真は、あとでセローが見物することになるニューレストというスラムで、写真で見ると赤い屋根の並んだふつうの住宅街に見える。

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まだアパルトヘイトがかろうじて存在していた1993年、ひとりのアメリカ人女性がスラムに出かけていって、住人に惨殺されるという事件があった。
彼女の名前はエイミー・ビールで、日本人でその名を知っている人はあまりいないと思われる(わたしが知っていたと思われちゃ迷惑だ)。
どうして彼女はそんな危険なところへ乗り込んだのだろう。
じつは彼女は反アパルトヘイトの活動家で、つまりアフリカ人の味方のはずだから、という自負のようなものがあったようである。
しかもアフリカ人の友人たちも一緒にいたのに、だれも彼女が殺されるのを止められなかった。
この世界には白人を見ただけでいきりたつ人々がいて、とくに中東やアフリカにはアメリカ人はキライという人も多いのだから、見た目が金髪なんて人は注意をしたほうがいい。
日本でも知り合いを救おうと、イスラム国の巣窟に飛び込んで首を切断された後藤健二さんの前例がある。
崇高な精神が、無知蒙昧の徒のまえではまったく役に立たないこともあるのだ。

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この事件が人々の記憶に残ったのは、犯人の少年4人が検挙され、その後の裁判が特殊だったせいである。
裁判にエイミーの両親も出席して、ふたりとも犯人を許す、懺悔して罪をつぐなってほしいといったのである。
殺された娘は危険なスラムにわざわざ出かけていったくらいだから、両親も慈悲深いカトリック教徒だったのかもしれない。
おかげで犯人らは無罪放免ということになり、犯人のなかには両親がエイミーを記念して設立した財団から給料をもらっていた者もいたそうで、いろいろ物議をかもした。

怒り狂ったのがポール・セローだ。
ひとりの人間を惨殺しておいて無罪ってことはないだろうと、本のこの部分でセローのトサカに来具合はそうとうに過激である。
そんなやつらは厳罰が当然だと、セローは旅好きで、無神論者で、ペシミストであるところはわたしによく似ているけど、死刑廃止論を容赦しないところまでわたしに似ていた。
しかしエイミーの家族でさえ丸く収めようという問題に、他人がいつまでもいちゃもんをいっても仕方がない。
彼女の死は忘れられたわけではなく、ネルソン・マンデラは演説のなかで彼女を讃え、アメリカには彼女を記念してその名前を冠した高校もあるという。

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セローがケープタウンにやってきたのは、エイミー・ビールが虐殺されてから8年も後のことだった。
彼はエイミーが殺された場所も見て、そこに立てられた記念碑の彼女の名前のスペルが間違っていると、そのぞんざいぶりに怒りを表明している。
しかしエイミーの死もアパルトヘイトも、セローの怒りも、いまはすべて歴史の彼方だ。
ヨハネスブルグやケープタウンのツアーには、いまでもスラム見学というオプションがあるらしい(戦車にでも乗って行くんだろうか)。
ネットの記事のなかには南アフリカは素敵なところだと書いたものもあるけど、ほんとうに素敵なところなのか、書いた人が素敵なところしか見てこなかったのではないか。
んならばオレも行って、YouTubeに探訪の映像を上げて儲けようという人がいるかもしれないけど、くれぐれも自己責任で。

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セローはあいかわらずケープタウンに滞在している。
ワイン工場へ行ってブドウ園を見学したり、できたてのワインの試飲をしたりする。
グランド・ロシェという豪華ホテルのレストランで、なんとかかんとかという贅沢な料理を食う。
もう旅の終わりだというわけでタガがはずれちゃったのか、セローは矢でも鉄砲でも持ってこいと大判ぶるまいだ。

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テーブルマウンテンのふもとにあるカーステン国立植物園の見学もした。
南方の植物には変わったかたちのものが多くておもしろいので、わたしもまえのアパートにいるときは、よく深大寺植物園の大温室まで見学に行ったものだ。
セローの本にフィンボスという灌木の名前が出ていたから紹介しておこう。

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セローは列車でケープ半島の先にあるサイモンズタウンまで行ってみた。
終点で下りると駅からせいぜい2キロのところに、ペンギン見物で知られたボールダーズ・ビーチがある。
ペンギンはアフリカにもいるのだ。
彼はペンギンを見たあと、さらにバスに乗り、ケープタウン国立公園まで行き、終点から歩いて岬のとっつきまで行ってみた。
長く危険な旅をようやく終えたということで、このあたりのセローの文章にはいささか感傷的なところがある。

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岬の先端は絶壁になっており、「この先行き止まり」「石を投げるな」「終点」という看板があったという。
これはわたしが見つけた看板で、Good Hope Capeは希望峰、つまりポール・セローの旅の終着点ということである。

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