アフリカ/ケープタウンへ
ヨハネスブルグにもどってきたポールセローは、列車でアフリカ最南端、つまりこの旅の最終目的地であるケープタウンに向かった。
南アフリカは白人の国、もしくはかっては白人の国だったといえるところなので、交通のインフラは充実していて、たまたまセローが旅をしたころ、プレミアクラスという豪華な列車が走っていた。
豪華列車はセローらしくないけど、もはやアフリカらしいポンコツ列車など、探しても見つからない国に来ていたのだろう。
この列車はトランスカルー号といって、ヨハネスブルグからケープタウンまで1300キロを27時間かけて走っており、個室で食事がついて140ドル(13,000円ぐらい)。
セローはボストンからシカゴまでと同じ距離というんだけど、これでは日本人にはピンと来ないから、日本の鉄道で比較すると、東京から熊本あたりまでの距離だ。
出発の駅は「ヨハネスブルグ・パーク・ステーション」といって、セローがこの街へ深夜に到着したとき、危険なので朝までひきこもっていたところである。
列車が発車すると、セローはまた紀行作家らしい丹念さで、窓外につぎつぎと現れる景色を描写するけど、これは移動しながら目に映る景色をかたっぱしから詩に詠んだ宮沢賢治の「小岩井農場」のようだ。
ヨハネスブルグを出てまもなく、アヴァロン墓地という南アフリカ最大の墓地がある。
そういえばロシアのサンクトペテルブルクも、駅を出るとすぐに線路のわきに大きな墓地があったな。
わたしは墓地を見物するのが好きだから、ここでは葬られている有名人で、セローがわざわざ名前をあげているジョー・スロヴォとヘレン・ジョセフの墓を見ていこう。
作家のナディン・ゴーディマと同じように、彼らも非人道的なアパルトヘイトに抗議し続けた白人である。
列車の進行とともに、ローデポールト、クルーガーズドーブ、ポチェフトルームなどの駅がつぎつぎと現れ、さらに目をこらせば、学校、教会、ラグビー場、鉱山労働者の住まい、みすぼらしい男、頭に大きな荷物を乗せた女、ブリキの屋外トイレ、トウモロコシ畑、柱にとまっためずらしい鳥、軍のキャンプ、金網、有刺鉄線、番犬など、セローの描写する風物はきりがない。
わたしも異国で列車に乗れば外の景色に首ったけだ。
そういうものをかたっぱしから記録したくて、そのくせ文字を書くのがニガ手で、右から左へと忘れることも早いわたしの旅では、カメラ以外にメモ機能のついた電子機器が欠かせない。
メモに加えて、旅先でも調べもののできる iPadは、広辞苑をかついで旅しているみたいで、ホント便利。
美しい風景だけではなく、ここは南アフリカだから、あっちこっちで容赦ない現実も見えてしまう。
ローデポールト駅では、食堂車で食事しているとき、ホームにいる大勢のアフリカ人がのぞきこんできたそうだ。
自分は特権階級で、ガラス窓1枚へだてた向こうは貧乏人の国だというような状況のとき、人はどんなことを考えるだろう。
わたしにも経験がある。
わたしが中国ではじめて西域行きの列車に乗ったとき、当時もわたしは日本の代表的な貧乏人だったのに、いちおう特権階級が乗るような個室寝台車に乗っていた。
窓外の景色はちょうど、ポール・セローがアフリカで見たような貧しいものだった。
そんな国が20数年後には世界の大国になったことについて、わたしは驚きとともにすなおに称賛する。
アパルトヘイトは廃止されたけど、その影はまだ南アフリカの至るところに残っていた。
わたしの部屋には各国から集まった若者たちが、エジプトから南アフリカまで貸切バスで旅をするという、「アフリカ縦断114日の旅」というテレビ番組が録画してある(このブログでも画面をキャプチャーして使ったことがある)。
南アフリカにさしかかると、この番組の旅行者たちはバンジージャンプをしたり、サンドスキーをしたり、もう目いっぱい遊ぶぞという輩ばかりで、これではとてもアフリカの影の部分には気がつきそうもない。
でもそんな旅もアフリカの一面だ。
ペシミストのセローはアフリカの暗い部分を語り、ノーテンキな若者たちは能天気な部分を見せつけるから、わたしみたいに両方を見てバランスをとるのがヨロシイ。
クラークスドープという大きな街の駅に着いた。
セローは駅の北側に貧民街があると書いていたから、ストリートビューで探してみたけど見つからなかった。
街のなかにブルドーザーで更地にしたような空き地が目立ち、郊外にプレハブの仮設住宅のような建物が多かったから、セローの旅のあとで一変したのかも。
同じ列車に乗っていた英国人が、ここはテレブランシュの街ですよという。
聞いたことのない言葉だけど、これは極右の政治家ユージン・テレブランシュに語源をもつ、超保守主義という意味で、南アフリカではアパルトヘイトを死守しようとする差別主義者のことになる。
ついでだからテレブランシュさんがどんな顔をしてるのか見てみよう。
ヘミングウェイみたいな顔をしたヒゲだらけのおじさんで、セローが旅をしたころは刑務所に入っており、釈放されたあと、給料支払いのトラブルから、自分の農場で働くふたりの黒人に殺害されたという。
南アフリカの複雑な歴史を物語るように、同じ白人でも、アヴァロン墓地に眠るジョーとヘレンのように、人種差別に反対した人間もいれば、彼のように支持した者もいる。
ここに見つけたのは、ある人が骨董市場で見つけたアパルトヘイト時代の看板だそうだけど、「立ち入り禁止・アジア人」の表記のなかに日本人は含まれなかった(まちがえて追い出されることはあっても)。
クラークスドープの街から、セローは100キロほど離れたマクワシーの町までやってきた。
そのへんの景色をながめて、彼は1930年代のミシシッピーみたいだなと思う。
わたしはそのころのミシシッピーを知らないから、似てるといわれればハアというしかない。
高層ビルなんかひとつもなく、そこそこ樹木の多い平野が続いていて、もはや乾燥したサバンナとはいえない景色ばかり続くから、大きな川が流れていてショウボートでも浮かんでいれば、映画好きなわたしも納得したかもしれない。
ライオンもゾウもいそうにないけど、セローはこのすこし先でカモシカの1種であるエランドを見たと書いているから、やはりここはアフリカだ。
トウスリフィールの駅では、セローが窓から見ると近くにダチョウがいた。
ダチョウやグアナコやカピバラやマヌルネコなどがうろうろしている駅があるなら、わたしも見たい。
食堂車で夕食をとるとき、セローはクリスというスキンヘッドの男性や、英国人夫婦と同席した。
スキンヘッドはバイク愛好家だというから、なんとなく全身タトゥーの粗暴な暴走族を連想してしまうけど、禅坊主のような意外と確かな世界観を持っていた。
事故で死んだら臓器提供者になるよ、ただしタバコを吸うから肺はもらい手がいないだろうな。
英国人の話には「ジョバーグ」という地名が出てきた。
どこかでよく聞く地名で、セローはふつうに使っていたけど、わたしは知らなかったから調べてみたら、これはヨハネスブルグの愛称だそうだ。
英国人夫婦はケープタウンの手前のウェリントンで降りた。
このあたりは南アフリカ・ワインの有名な生産地である。
フランスにはワイン作りの上手なユグノー教徒という人々がいて、彼らが南アフリカにワインを持ち込んだおかげで、ボーア人の呑ん兵衛たちはおおいに安堵したそうである。
わたしもフランスやチリばかりでなく、機会があったらアフリカ・ワインを飲んでみようと思い、ちっとばかりネットで勉強してみた。
販売店の宣伝サイトだからすべて信用するわけにいかないけど、フェアトレードの割合がいちばん多いワインなんて書いてあった。
これを飲んで公平な世界観を持っていることを見せつけられれば、一石二鳥ではないか。
| 固定リンク | 0
コメント