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2022年2月22日 (火)

沖縄/首里の墓と城

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笹森儀助は那覇に着いた。
明治26年にはまだ那覇港には大型船が横付けできる桟橋はなく、陸奥丸は沖合に錨泊し、儀助ははしけで陸に向かった。
すると桟橋には若い娘からおばあさんまで、数百人の女性がひしめいていて、それがみんな彼のところへ押し寄せてきてきゃあきゃあいう。
現地の方言らしく、なにをいってるかさっぱりわからないけど、どうやら手間賃をとって荷物を運ぶ、つまり駅の赤帽のような仕事をする女性たちらしかった。
スタイルはたぶんこの写真みたい。

この日の泊まりは内地出身の夫婦がやっている旅館である。
そこでおかみに、手間賃20銭で荷物を運ばせたよと話すと、それは法外ですよ、手間は4銭もやれば十分です、あんたらはと、おかみは赤帽女性たちをどやしつけた。
4銭でも赤帽は喜んで帰っていったから、やれやれ、未開の土人といえどもたくましいこと、地理不案内だとつけこまれるわいと儀助はため息をつく。
ここで儀助は“土人”という言葉を使っているけど、これは明治時代には差別用語ではなかった。
沖縄のヘリパッド建設問題で、機動隊員が「この土人が」と叫んで問題になったことがあるけど、いまどき軽蔑の意味で土人という言葉を使う土地があるとは思えないし、最近ではあまり聞かない言葉だから、この機動隊員はたまたま「南嶋探検」を読んだことがあったのかもしれない。
だとすればなかなか学のある男じゃんか。

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那覇に着いた儀助は、まず沖縄の王族だった尚家の墓を見学に行くことにした。
尚家というのは琉球王朝の直系で、明治維新の琉球処分で国王から格下げになったものの、熊本の細川さんのように、まだ名門として当地では名が知れわたっていたのである。
こういう地元の名士に挨拶し、敬意をあらわしておくことは、新参の政治家なんかもよくやっていることだ。

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お墓は首里城の近くだと聞いて歩くことにした。
現在なら首里城までモノレールがあるけど、当時はもちろんそんものはないから、徒歩で行くとなると距離は4~5キロある。
健脚だった明治時代の日本人には楽勝だと思われた。
こんなところに取り巻きを引き連れて行ったら、えらそうな顔をしてと思われてマイナスだろうと考え、儀助はひとりで出かけた。
いまでこそ道中に住宅が密集しているものの、当時はサトウキビ畑のなかに赤瓦、もしくはワラ葺きの民家があるだけで、ところどころにヤシやパパイヤのまじった、樹木の豊富な土地だったのではないか。
けっきょく墓は見つからず、だれかに尋ねても言葉はわからず、腹はへる、わらじは擦り切れるで、彼は夜中にほうほうの体でもどってきた。

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翌日、儀助は県庁の役人や警護の巡査などの案内で、もういちど琉球王の墓に出かけ、沖縄の上流階級の墓がどんなものか詳しく観察している。
この墓は玉陵(たまうどん)といって、首里城に隣接した敷地内に現在でもあって、2018年に沖縄初の国宝に指定された。
いまでは入場料を払えばだれでも見学できるけど、明治時代には皇室や王族の墓は管理がきびしかったから、よそ者が気楽に入れる場所ではなかった。
儀助は内務大臣の秘書待遇だから、お願いして参詣することができたのである。
巡察官である彼の報告はものさしで計ったように詳しいから、玉陵のサイズやかたちは、わざわざ沖縄まで行かなくても「南嶋探検」という本のおかげで知ることができる。

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「墓地はおよそ20間四方で・・・・」
広さをあらわすのに、古い尺貫法の度量が出てきて、若者(のつもり)のわたしは困惑してしまうけど、1間は1.8メートルだから、20間四方は36メートル平方メートルということになる。
国王の専用だけあって、さすがにでっかいお墓だ。
文章はさらに、墓室は「高さ1丈(3メートルくらい)、厚さ6尺(2メートル弱)の石垣をもって二重に囲み、二重の唐門がある」と続く。
墓室の構造は、上に代々の王さまの墓、中間に洗骨場があり、下が王妃たちの墓だったそうである。
洗骨場とはおだやかじゃないけど、沖縄では人が死ぬとお棺に入れて墓のなかに安置し、3年たったら親族が集まって骨を洗い、骨壺に入れてべつの場所に納めるという風習があった。
わたしの知り合いに、わたしとほぼ同じ歳で、おれも子供のころ洗骨をやったことがあるよという人がいるから、この風習は昭和のなかごろまで続いていたらしい。

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王室にかぎらず、沖縄ではお墓は石組みで、破風屋根つきの立派なものが多く、持ち主が金に困ると高値で売り出されることもあった。
なんか不動産みたいだなと、これは儀助も書いている。
お墓の規模についても、士族はこのくらいの広さ、庶民はこのくらいと、細かい規則があったそうで、そんなしきたりを持ち込んだのは、むかしこの島に流れ着いたどこかの坊さんだったという。
墓や戒名は坊主のメシの種だから、そうであっても不思議ではないし、仏教に出会って感動した尚円王という王さまの寄進で、那覇市内に極楽寺という寺が、琉球征伐で薩摩藩に焼き払われるまではあったそうである。

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首里城には何度も行ってるわたしなのに、玉陵は見た記憶がない。
首里城の近くというと、太平洋戦争の末期に米軍の砲撃によって徹底的に破壊されたところだから、玉陵も戦後になって修復されたものだろうと、調べてみたらその通りだった。
ただ儀助の本では、正面にシックイを塗って陽光にはえる壮観なものだったとあるから、復元されたそれは手抜きがあったようだ。
これはガイドブックではないから、玉陵についてこの程度の紹介しかしないけど、歴史などを詳しく知りたい人にはネットに情報があふれている(那覇市のホームページにも載っている)。
ありし日の、本当の玉陵の姿は、儀助の文章のなかにしか残ってないのかもしれない。

儀助は玉陵だけではなく、琉球王朝の開祖である舜天王という人物の墓にお参りしたかった。
舜天王というのは戦乱の琉球を統一した、秦の始皇帝みたいな王さまで、言い伝えによれば父親は強弓で知られた源為朝(みなもとのためとも)だったそうである。
しかし、あとでこれが為朝の矢ですと宝物を見せられた儀助も、インチキくさいなと疑いの目で見ているくらいだから、その部分はどうせでっち上げだろう。
だいたい為朝って沖縄まで来たことがあんのか。
鎮西八郎の異名でわかるとおり、彼は九州に赴任していたことがあるから、沖縄の女性が出張して種を宿したと言い張るには都合がよい。
明治政府は琉球にしても韓国にしても、みんな日本の皇室と親戚だといいたがったから、同じ種類の捏造と思われる。
笹森儀助は愛国者であると同時に、国粋主義者でもあったらしく、やたらに日本の皇室にゆかりのある人物や、御嶽(ウタキ=神社)などを尊重する人であった。

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舜天王の墓のあり場所を尋ねても、みんなあいまいな返事をするばかりで、さっぱりわからない。
あきらめて彼は首里城の見学に行くことにした。
このとき首里城には熊本の軍隊が駐屯していたので、儀助は隊長に面会を申し込む。
軍隊の隊長と内務大臣の秘書待遇(儀助)ではどっちがえらいかというと、これはむずかしい問題だ。
北朝鮮やミャンマーのような先軍主義の国では軍人のほうがいばっているけど、明治の日本ではまだ軍部の独走は始まっていないから、どっこいどっこいだったのではないか。
この場合、べつに文句もいわれず、中隊長が案内をしてくれたそうである。

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ここでも儀助は、トロイの遺跡を発見した考古学者のシュリーマンのようで、想像力のたくましい人なら、戦災や火災に遭うまえの首里城は、彼の本のなかにありありと姿をあらわすだろう。
城郭の敷地面積は2万坪ちかくあったと、また尺貫法だけど、1坪は3.3平方メートルだから、これは66万平方メートルぐらいで、現代的な表現をするなら後楽園球場の6個分ということになる。
城そのものの周囲は9町で、1町はおおざっぱにいうと百メートルだから、ひとまわりすると900メートルあったそうだ。
ほかにも石垣の厚さが2間(3.6メートル)、高さが2丈(6メートルほど)で、頑丈な石の唐門があったとか、正殿は中央のひときわ高いところにあり、その建物は2階建てで西に向かっていること、南北に八つの柱があり、柱には竜の絵が描かれ、これは中国の明の様式だけど、書院や休憩室は日本式だということなど、儀助の報告は税務署の監査なみに詳しい。

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わたしも首里城にはなんども行っている。
城には門が11個あって、そのひとつには「守禮之邦」の額がかかっていた。
この写真がそれで、礼儀を守る国という意味だ。
額の下に沖縄の華麗な民族衣装を着たモデルさんがいて、観光客とならんで写真を撮らせていたけれど、コロナ禍のもとで、あの商売はいまでもやってるんだろうか。
べつの場所に看板があって、「按司(あんじ)も下衆もここで馬から下りるべし」と書かれており、身分に関係なくそれはちゃんと守られていたから、さすがは礼節を知る国だなと儀助は感心する。
ここで「按司」という言葉が出てくることに注意。
これは沖縄の貴族階級のことで、日本の宮家に相当し、儀助の本のあちこちに出てくる言葉である。

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ご存じのとおり、2018年に首里城は火災で焼け落ちた。
去年の暮れに沖縄に行ったとき、わたしは首里城を見物に行ってみたけど、本殿まえの最後の門である奉神門からのぞき込んだだけで帰ってきてしまった。
何度滅びても不死鳥のようによみがえるこの沖縄県民のこころの拠りどころは、わたしが生きているうちにはたしてまた復興されるだろうか。
もうあまり時間はないんだけどね、わたしのほうは。

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沖縄に不慣れな人が、モノレールの首里駅から首里城まで歩く場合は、沖縄県立芸術大学が近道の目印だ。
このへんの路地を入っていくと、首里城のわきに出る。
それを忘れていたわたしは、去年の暮れの沖縄訪問で、行きは龍潭という堀のそばを通る大まわりをし、汗をたっぷりかいたけど、帰りは芸術大学のわきを通って楽をした。
現在の首里城の堀をバードウォッチャーが見ると、野生化したバリケンというめずらしいカモがいて楽しい。

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