沖縄/旅立ち
笹森儀助の「南嶋探検」は紀行記ではなく、本来は中央の役人による公務の巡察日誌だった。
そういうわけで役人らしく人口の内訳や土地台帳、土地の特産物や地方自治体の予算、住民の生活様式、医療事情、教育事情など、内容は細かいところまで徹底しているから、いまのわたしたちが見るとへえっと驚くような記録もある。
それだけにこの本から、明治時代の沖縄がどんなところだったのか、得られるものは大きい。
柳田国男や折口信夫らつぎの世代の民族学者たちが、この本をバイブルとしてあがめたてまつったのも無理はないのである。
前項で旅立ちの辞を紹介したけど、そのあとに緒言というものもあった。
これは本の前置きみたいなものだけど、当時の儀助がどうして沖縄に行くことになったのか、彼の心境を知ることができて、いちおう読んでおいたほうがいいものだ。
長いから引用はしないけど、儀助は南方の沖縄へ行くまえに、軍艦に同乗させてもらって北方の千島列島を探検していた。
現在のように冒険に金を出すスポンサーがいたわけではないし、彼はなぜそんな無償の探検をする気になったのだろう。
彼にいわせると、アジアの全域にわたり、西洋列強の艦船が出没していて、まだ国家が領有宣言をしてない島を探し求めていた。
沖縄にも国家の目の届かない島がたくさんあるはずで、そういうものをきちんと調査しておくことは、国防の観点からも重要だ。
自分はもうすぐ知命の歳(50にして天命を知るという言葉から“50歳”のこと)になる。
探検をするならいまよりほかにはないというのが儀助の言い分だった。
そんな言い分を聞きつけたのが、ときの内務大臣井上馨で、彼は儀助にじきじきに南島探検を依頼する。
なにしろ大臣のじきじきの依頼だから、探検する当人は大臣の秘書待遇である。
大臣の秘書といったら、いまでも威張っているのが多いらしいけど、明治時代のそれの権限は絶大で、ほとんどの行程で彼には警察官の護衛兼案内がついた。
そんな特別待遇にあまえることもなく、儀助は出発まえに沖縄について詳しい人間から、辞を低くしていろいろと教えを請うている。
そんな臨時講師のなかには、仕事で八重山をめぐっているうち風土病にかかり、いまでも後遺症が残るという植物学者の田代安定や、農林省の技師、沖縄県知事、参事官などがいた。
ここに載せたのは儀介の旅をサポートした、内務大臣と植物学者と当時の沖縄県知事。
儀助は東北出身なので、沖縄に行くのに、当時重要生産物になりつつあった砂糖が、草から取れるのか木から取れるのかも知らなかったそうである。
岸三郎という農林省の技師が砂糖の現状についていろいろ教えてくれた。
わが国の年間の砂糖消費量はどのくらいですか。
だいたい2億3、4千万斤ぐらいですね、そのうち7、8千万斤は国産で、1億6千万斤は外国より輸入しています。
“斤”なんて度量単位が出てくるといまの人にはさっぱりわからないけど、1斤は600グラムということが、儀助の旅の2年まえ(明治24年)に制定されたばかりだった。
つまり1億斤は600億グラムということで、これをトンに直すのは・・・・メンドくさくない人は計算してみればよい。
輸入はやめられないんですかと儀助が聞くと、日本全国のサトウキビ畑を、もっと効率的に開拓・運営すれば、やめても充分足りるはずですと技師は答えた。
みんなえらぶったところがなく、気持ちよく教えてくれたと儀助は感謝している。
この岸三郎という人は長野県の出身で、日本の製糖業の発展に功績のあった人らしいけど、写真は見つからなかった。
これはネットで見つけた彼についての文章の断片。
明治9年内務省勧農局に甜菜糖製造者として雇用されたのち、明治11年2月に糖業取調のために政治家・松方正義に随伴してフランスに渡航した。
帰国後、農商務省に所属して、沖縄をはじめとして各地の製糖技術の指導に当たり、近代製糖業の発展に尽くした。
しかし気持ちいい人間ばかりではなく、鹿児島県庁で質問した書記官にはこんな人もいた。
新聞によると八重山島民の負債は60万円に上り、島全体を売り払っても足りないそうですが。
そんなことはない、製糖事業を改良し、発展させれば負債はなくすことができる。
それでは会計の明細を見せてください。
島庁に置いてあるので見せられない。
ものごしは丁寧だけど、不親切な役人もいたらしく、国民に奉仕すべき牧民の官(地方長官)がこれかと、儀助は怒って帰ってきた。
島をめぐっているあいだに、儀助は島民の膏血をむさぼるような役人・商人をつぶさに見ることになる。
大臣の秘書待遇ということで、海運会社のCEOである林善左衛門という実業家も面会にやってきた。
この人は鹿児島県人で、本名を林徳太郎といって、明治15年に政府から払い下げてもらった大有丸という船で、鹿児島~沖縄航路の海運会社を設立した人だそうだ。
彼のいうのには、いやあ、うちの大有丸は年間に4回航海すればOKということで請け負ったんだけど、今年はもう18回も航海しているのに、お金は最初の契約金のままですよとぶつぶつ。
個人の要望はなかなかお上まで届かないものだから、これは陳情の意味もあったのかもしれない。
いまもむかしも大臣秘書の仕事は陳情を上手にさばくことだから、儀助もまあ、上に伝えておきましょうぐらいのことはいったんじゃないか。
儀助は鹿児島から、徳太郎さんのものとは別会社の、陸奥丸という船に乗って沖縄に向かった。
このブログのポール・セローの紀行記を読んだ人は知ってると思うけど、わたしは船の写真を見つけるのは得意なほうなので、ネットでこの古い船を探してみた。
総トン数800トンの貨物船だそうだけど、残念なことに陸奥丸という船名はポピュラーらしく、第1陸奥丸、第2陸奥丸などと番号違いの同名船が多く、なかには北海道で211名の死亡という海難事故を起こした陸奥丸もいて、肝心の沖縄航路の船はとうとう見つけられなかった。
ここに載せたのは林徳太郎さんの大有丸の写真で、「名船発掘」と「津々浦々 漂泊の旅」というホームページに載っていたもの。
陸奥丸は同時期に運航していたやはり石炭燃料の船だから、大きさもかたちもこれと似たようなものではないか。
わたしは去年の暮れの沖縄旅行で、最後は沖縄から鹿児島までフェリーに乗って帰ってきた。
そういうことで向きが逆になり、順番も逆になるけど、わたしがそのとき乗ったフェリーについて紹介する。
連載2回目にして、早くも明治の旅と令和の旅のコラボの始まりだ。
フェリーに乗るのはいいけど、ちと不安もあった。
わたしはむかし海上自衛隊にいたので、船に強いと思われているけれど、それはもう半世紀以上まえで、いまは足がへなへなのもうろくじいさんである。
鹿児島航路は24時間ちかい船旅だから、船酔いするかもしれない。
しかし沖縄の本部港で、やってきた船を見て安心した。
これはでかい!
現在、沖縄~鹿児島航路は、フェリー会社が2隻の船でピストン運航をしており、使われている船は8000トンクラスで、わたしが乗り組んでいた自衛艦の4倍もある。
上甲板から見下ろすと、海面までは3、4階建てのビルぐらいありそうで、文字どおり大船に乗った気持ち。
クィーン・エリザベスにはほど遠いものの、レストランや展望デッキ、シャワー室などがあって、お手軽に船旅の気分を味わってみたいという人に好適な船だった。
船内の写真は時計まわりに左上から、食堂、自販機、売店(自衛艦ならPXということになるけど、おにぎりが100円、カップヌードルが200円で売られていた)、シャワー室の入り口。
つぎの写真はラウンジにあったスマホ用の充電装置(無料)。
船の料金は1万5千円ぐらいした(2等)。
この季節には沖縄から奄美まで割引があるとかいわれて、こっちも変則的な買い方をしたから、正確な料金はよくわからないけど、これが安いかといわれるとそうでもない。
沖縄から鹿児島までなら、LCCを使えば、飛行機だってもっと安いのである。
それでもシーズンオフで、コロナ騒動のさなかにしては、船を利用する人はけっこういたから、飛行機は落ちるからイヤという人が多いのかなと思ったけど、考えてみたらこれはフェリーではないか。
ほとんどの乗客は車といっしょに旅をする運転手なのだろう。
これは鹿児島湾(錦江湾)から見た桜島の景色。
わたしは半世紀以上まえに同じ景色を見たことがある。
わたしの乗り組んでいた艦(ふね)が、訓練で日本一周をして、錦江湾にも寄ったときのことだ。
まだ青二才だったわたしは自衛艦の艦橋で、消灯までの小一時間ほど、備え付けのでっかい双眼鏡であかずに桜島を眺めていた。
現在の桜島は噴火の鎮静期にあたっていておとなしいけど、その当時はちょうど火山の活発な活動期で、まっ赤に焼けた大岩がたえずごろんごろんと斜面を転がっていたものだ。
思えば遠く来たもんだというのは、現在のわたしの心境。
船が出航すると、まもなく左手に佐田岬、右手には、特徴的な山容を持った開聞岳が見えてくる。
富士山型の優美なかたちをしたこの山は、深田久弥の日本百名山にも選ばれているから、わたしは見逃さないようずっと注意していた。
桜島を見たことのあるわたしは、当然この山も見たことがあった。
払暁の薄明かりのなかに浮かびあがった開聞岳のシルエットは、印象的な映像としていまでも鮮明に記憶に残っている。
まだ日本国内も満足に旅行したことのなかったわたしにとって、自衛隊時代というのは、旅に憑かれた人生の、ほんとうに出発点といっていいものだったのだ。
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