沖縄/薩南航路
鹿児島湾を出ると、儀助のもとに陸奥丸の1等航海士がやってきて、航路についてあれこれと説明をしてくれた。
この先にある島は、黒島、硫黄島、竹島の口ノ三島と、さらに口ノ島、中ノ島、臥蛇島、平島、諏訪瀬島、悪石島、宝島などですと。
このうち硫黄島というのは、クリント・イーストウッドの映画「硫黄島からの手紙」に出てくる日米の激戦地ではなく、平家物語の俊寛僧都が島流しになった鬼界ケ島のことだろうとされている。
平安時代に九州の果ての島とは、またえらく遠くまで流したものだけど、そのころから薩南諸島は流刑地として都でも知られていたのかと感心してしまう。
冒頭の2枚の写真は硫黄島だ。
この島には活火山があって、島のまわりの海はつねに硫黄で黄色く濁っているというものすごい島だ。
身から出たサビとはいえ、気のドクな俊寛さんは、この島で足摺りをしたあげくに孤独死したわけで、島内にその住居跡が残っているというから、上陸して写真でも撮ってこようかと思ったけど、それではたんなるガイドブックになってしまう。
わたしのブログは儀助の見たむかしの沖縄と、わたしの見た現代の沖縄を比較しながら歩こうというものなので、儀助もわたしも寄りもしなかった島で道草を喰うわけにはいかない。
船の航路について興味があったので地図を見てみた。
陸奥丸は鹿児島を出たあと、奄美大島を経由して沖縄の那覇港に向かうことになっており、この航路でまず目立つのは種子島と屋久島だ。
しかし文章のなかに種子島はぜんぜん出てこないから、儀助の船は寄港しなかったようだ。
屋久島と口永良部(くちのえらぶ)島のあいだの海峡は通ったらしい。
この海峡はフェリーに乗ったわたしも通ったはずだけど、時間が早朝の5時ごろで、まだまっ暗だったからなにも見えなかった。
屋久島には九州の最高峰・宮之浦岳がそびえているだけではなく、縄文杉や大王杉、猿、鹿など自然が豊富で、「もののけ姫」の舞台といわれるくらいうっそうとした森に覆われているところだから、ひと目でいいから見たかったけどねえ。
くやしいから海の上から屋久島と口永良部島はどんなふうに見えるのか紹介しておく。
船が海峡を通過中、儀助は1等航海士に、このへんの潮は速いのかねかと訊いてみた。
速いなんてもんじゃありませんよ。
鳴門のうず潮を何倍にもしたようなところなんで、へたに舵をあやまると、あっという間に3、40海里は持っていかれます。
コワイねえと儀助。
だから灯台が必要なんですと、航海士の説明はまた陳情めいてくる。
これはちょっと意外だけど、儀助が旅をしたころは、佐多岬を過ぎると、あとは沖縄・先島まで灯台がひとつもなかったそうである。
船舶の安全のために、あの島のあそこと、この島のかしこに灯台を置くべきですと航海士は訴える。
帰ったらお上にそういっときましょうと儀助。
じっさいに儀助の口利きが効いたのかどうか知らないけど、その後海峡に面した岬に「屋久島灯台」ができた。
この灯台は儀助の旅より4年あとの明治30年(1897)に設立されたもので、日本の灯台のなかでも歴史は古く、いまでは登録有形文化財だそうだ。
ストリートビューと、ネットで見つけた古い写真でこの灯台も見ていこう。
海峡の対岸の口永良部側にはメガ崎灯台というものがあるけど、これはそんなに古いものではないらしく、ローカルな灯台なので写真を見つけるのにてこずった。
これは衛星写真と、「フリーター旅に出る」というサイトで見つけたメガ崎灯台。
話が横道にそれるけど、日本人の先祖は、大陸から朝鮮を経由した主要グループをのぞけば、フィリピンや台湾あたりの南方から、島伝いにやってきたグループもいたという説がある。
島伝いの場合、コロンブスのように運を天にまかせて、まったく見ず知らずの大洋に乗り出したのか、あるいはなにかしら確証があって舟を漕ぎ出したのか、つまらないことだけどわたしはそれがずっと気になっていた。
今回の旅では、はからずもそれを自分の目で確認することとなった。
南西諸島は鹿児島から台湾へ向かって、東シナ海に円弧を描くように連なっていて、島からさらに先のべつの島が見えることが多い。
たとえば台湾の高い山に登れば沖縄の与那国島が見えるし、与那国まで来れば西表島が見え、西表島からはさらにつぎの島が、という具合だ。
だからこの先にも島があるという確信をもって、島から島へと渡ってきたのだろうと考えることは、けっしてデタラメな話ではない。
なかには台風で吹き流された不運な漁師もいたかもしれないけど、古代の人たちは決してやみくもに漕ぎ出したわけではなかったのだ。
儀助の陸奥丸は奄美大島にやってきた。
ここでも1等航海士が、あそこに見える武運岬にも灯台が欲しいですねという。
武運岬というのはこの地図のチェックマークのあたりだけど、衛星写真でそのへんを眺めてみても、灯台らしきものは見当たらなかった。
わたしが灯台の許認可権限をもってる役人なら、どのへんが灯台建設にふわしい場所かと頭をひねることになる。
たとえば同じ地図の、西にむかって張り出した岬のとっつきなんかどうだろう。
このとっつきにある曽津高崎(そっこうさき)灯台は、明治29年、つまり儀助の旅の3年後に設立だというから、武運岬に作る計画がこっちに変更になったのかもしれない。
儀助の旅の翌年から日清戦争が始まり、灯台の必要性を感じた日本政府は、戦争が終わったあと、日本中の津々浦々に灯台をぶっ建てるようになった。
曽津高崎は太平洋戦争のとき陸軍の観測所があったところで、灯台を建てるのにふさわしい場所だけど、惜しいことに、現存する灯台は昭和になって建て替えられたものだそうだ。
儀助の陸奥丸とわたしの乗ったフェリーは、向きが逆だから時系列通りに紹介すると頭が混乱してしまう。
ここでは明治時代の陸奥丸に乗ったつもりで、鹿児島から沖縄に向けて航海しているように書いているけど、じっさいにはわたしは、昼に与論島、午後に徳之島、夕方に奄美大島、翌朝に屋久島、最終的に鹿児島という順番で見てきたので、逆向きという点に留意してもらいたい。
わたしはすべての島を見てみたかったので、昼間はずっと上甲板やラウンジから景色を眺めていた。
まだ暗いうちに到着した屋久島でも、わざわざ起きて写真を撮りに行こうとしたくらいだけど、どの島でも上陸はしてないので、写真は停泊中の船の上から撮ったものしかない。
ただ、ありがたいことにこれは日本の旅なので、たいていの島をストリートビューがカバーしているから、沖縄までの航路の主要な島々はそれで眺めてみよう。
鹿児島と沖縄の中間にある奄美大島は、儀助も寄った島なので、念入りに紹介する。
すぐ上の6枚の写真は、奄美の地図と、ストリートビューの奄美大島で、ここはアマミクロウサギとハブが有名だ。
旅好きにとって、船の上から桟橋を眺めているだけでも退屈はしない。
徳之島ではフェリーに貨物列車の車両のようなものが積み込まれたので、なんだろうと思ったら、ウシを生きたまま運ぶコンテナだった。
このとき見たのは食用ウシで、合理的なのか残酷なのかわからない。
この島の名物には闘牛があるけど、そっちのほうがまだしも、動物の愛好家が安心して見ていられるもののようだ。
沖永良部(おきのえらぶ)島は名前がロマンチックで、なぜかその名前から白ユリを連想してしまう。
この島とユリの花を結びつけるなにかがあったっけと考えてみた。
調べてみたら島の名物がエラブユリというユリの花だそうで、民謡や歌謡曲にもなっているという。
しかしそんな民謡は聴いたことがないし、YouTubeで朝丘雪路がうたっているナツメロを聴いてみたけど、記憶に残るような歌じゃなかった。
詩か小説に出てきて、それが頭のすみに引っかかっていたのかしらと、ボケぎみの頭でいまも考えている。
陸奥丸の航海通りにいくと、薩南諸島のなかでいちばん沖縄に近いのは与論島である。
すぐ上の写真で水平線上に霞んで見えるのが沖縄本島で、このふたつの島はこれほど近い(ちなみに与論島までは鹿児島県の領域)。
船から見える外観も、お皿をひっくり返したような扁平な島で、周囲の海も珊瑚礁の島であることが一目瞭然の美しさだったから、機会があったら出直してみたいものだ。
笹森儀助は東北の出身だから、珊瑚礁の海を見たのは初めてのはずである。
文章のなかに、きれいだとか美しいとかいう褒め言葉はほとんど出てこないけれど、写真もテレビもない時代にエメラルドブルーの海を見てどう思っただろう。
若いころ海上自衛隊にいたわたしは、蜃気楼のもえる夏の海、霧のたちこめる冬の海、なぎの海、嵐の海、まっ青な昼間の海から満天の星の海など、陸上にいたのではけっして見ることのできない海のさまざまな形態を、いやというほど見た。
こればっかりは帆船時代の船乗りが見たものと変わらないはずだから、ピークォド号のイシュメールになったような気分をおおいに満喫したものである。
それで今回も、クジラでも見えないかと海にずっと注意していたけど、沖縄を出てすぐに、海面すれすれを飛翔するトビウオと、徳之島の近くでイルカを見ただけだった。
わずか1日の航海で、3年間の自衛隊生活で見たものを全部見られるとは思わないから、これは仕方がない。
ぼんやり海を眺めていると、いろいろな思いが湧いてくる。
きっちりと仕事をこなし、リアルに徹した儀助とちがって、わたしの旅は脳内妄想の部分が多いから、バーチャル旅行にふさわしいのである。
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