沖縄/神さまたち
那覇市の久米村というところに孔子廟があって、そこに学校があるというので、儀助は県の役人である柳原保太郎、謝花(じゃはな=沖縄に多い名前)寛顕という人を案内人にして、授業参観に行ってみた。
日本では儒教が根づかなかったけど、その精神を尊重する人たちはいて、たとえば神田には湯島の聖堂がいまでもある。
那覇市の孔子廟はなんとかいう学校のそばにあって、(儀助が旅をした明治26年より)320年もむかし、中国の影響が強かったころ建てられたものだという。
ここでわたしは強国にはさまれた、弱小国の運命について思いを馳せなければならない。
むかしシルクロードに興味をもっていろいろ書籍をあさっていたころ、タクラマカン砂漠にあった楼蘭という都市について知った。
わたしは大陸を旅行中に有名な楼蘭の美女に対面してきて、彼女の写真もパソコンに入れてあるけど、子供がひきつけをおこすとまずいから、ここでは紹介しない。
この国はつねに西方の匈奴におびやかされていて、東方の唐が強大になるとその庇護下に入り、また匈奴が強くなるとそっちになびくを繰り返した。
沖縄にあった琉球王国も、中国の貢献国であった時代もあれば、日本の薩摩藩に暴力で犯された時代もある。
だから大変だ。
中国から冊封使が来ると、大急ぎで和服を漢服に着替えて日本の掛け軸や美女を隠し、薩摩藩の侍が来るとあわてて逆のことをしていたという。
それでもちゃっかり双方から実利を得ていたこともあったらしく、久米村の孔子廟も中国(清の)の支援で建てられたものだった。
儀助はあとで織物工場に視察に行って経営状況を尋ねてみたけど、あいまいな返事ばかりするのは、中国と日本のあいだにはさまって、両方にいい顔をしていたころの名残であろうと看破する。
孔子廟の門前に石碑があって、漢文で長ったらしい説明が刻んであった。
儀助はこれを全文引用してるけど、漢文の碑にありがちな、重みはあるけど中身はないという形式主義的なものなので、わたしのブログではいちいち紹介しない。
孔子廟や関帝廟ならわたしは本場の中国で見たことがある。
たいてい内部に赤い顔をした本人の大きなハリボテが飾ってあって、その幼児性と悪趣味にへきえきしたものだった。
明治維新になると、中国が建てた孔子廟をうやまうのはケシカラン、そんなものはぶっ壊してしまえという、現在のネトウヨみたいな人間が現れたけど、いちじは廃仏毀釈を熱心にやった明治政府は、すでに冷静になっていて、儒教の学堂でも保護の対象とする政策に切り替えていた。
国粋主義傾向のある儀助も、壊されなくてヨカッタと書いている。
この孔子廟は現在ではべつの場所に移されて、今度は政治と宗教のからみで批難されているけど、孔子というのはキリストやマホメッドよりも、どっちかというとマルクスやニーチェと似た人だと思うので、わたし的にはどうでもエエ。
儀助が孔子廟に行ってみたら、大勢の生徒が漢籍なんかを読んでいた。
これだけ見るとまじめそうだけど、廟の建物のまわりは草ぼうぼうで、教室はゴミ屋敷のようだったそうである。
儀助は教師をつかまえて、こんなだらしない状態で勉強したってムダだ、まず生徒に掃除を教えなさいと叱責する。
生徒は80人ぐらいいたのに、公立学校に入れる者はひとりもなく、素行もわるかったというから、生徒が率先して教室を掃除をする日本の学校ではなく、自由放任主義で、たまに銃をぶっ放すアメリカの学校みたいだったらしい。
ここでひとつ断っておくけど、だいたい那覇の周辺で太平洋戦争の戦渦に遭わなかった建物や施設はほとんどないのだから、現存する神社仏閣もまず復興されたか移転されたものと思って間違いない。
このブログに載せた写真は戦後のものが多く、かならずしも儀助の見たままの寺社ではないのである。
戦争で孔子廟もサラ地になり、現在のそれは別の場所に移転していた。
移転するまえの孔子廟は沖縄県庁から近い道路ぞいにあって、地図を見たら、わたしが11月に泊まったアパホテルの並びで、距離も500メートルぐらいしか離れてないじゃないか。
いまそこには記念碑のようなものが建っているそうだけど、ま、知っていたとしてもわたしは行かなかっただろうなあ。
水族館でジンベエザメを見ることに情熱をもやすくせに、神さま仏さまには興味がないもんでね、わたしって。
儒教ばかりではなく、那覇には真言宗の護国寺もあったので、儀助はそっちも行ってみた。
宗教や観光名所に関心のうすいわたしは、そんなものを見物しようという気はさらさらなかったけど、この文章を書くためにあらためてストリートビューで確認してみたら、護国寺のすぐとなりに波上宮という神社があって、奈良の春日大社と興福寺みたいに、神仏が合体した神域になっているらしかった。
ちなみに沖縄には琉球八社というものがあって、それは波上宮から始まって、末吉宮、安里八幡宮、天久宮、沖宮、識名宮、普天間宮、金武宮の八つだそうだ。
儀助は護国寺で高野山から出張してきた坊さんに話を聞いてみた。
どうですか、布教の具合は、調子いいですか。
いやあ、数年間いろいろと努力してみたんですけど、ここは信者を増やすのがむずかしい土地ですねえ。
となりでプロテスタントの牧師さんも頑張ってますが、あちらも信者は神学校の生徒がちょぼちょぼいるだけですし、うちの総本山では、信者が50人も増やせればオンの字といってますわ。
あまり景気のいい話はないようだ。
布教がむずかしい原因は、沖縄にはもともとノロクモイ、ヨタなどという、地域密着型の占い師みたいな神さまがいたせいである。
あとで北部沖縄の国頭(くにがみ)村に行ったとき、儀助がそのへんの事情を聞いてみたら、ノロクモイのほかに地域密着型の神さまとして、アシヤゲ、アシビタムト、イタムト、さらに火の神、根神屋、地頭神、掟神、人勢頭神、根神、嶋方神など、八百よろずに匹敵するような神さまがぞろぞろいた。
日本型神道の後援者をもって任ずる明治政府は、邪教だ、迷信だといって、何度もこれに禁止令を出しているのに、県民はなかなか自分たちの宗教を捨てないのである。
この護国寺は那覇市内ではめずらしい、「波の上ビーチ」という海水浴場のそばにあるので、夏になると海水浴客が泳ぎついでにお参りに来そうである。
日本の神さまは水着のオンナの子が好きだから、いい御供物になるんじゃないか。
これほど目立つ場所にありながら、儀助の文章はそのことにふれてないから、これも明治時代にはべつの場所にあったのかと思ったけど、建立当初から波上宮と浅からぬ因縁のあった寺というから、やっぱりむかしから海のそばにあったらしい。
わたしのブログは、お寺ばかり紹介するカタっ苦しいものではないから、ここで海水浴場と、水着のオンナの子を紹介してしまう。
このビーチは道路の高架橋の下にあるちっぽけなビーチだけど、那覇市内ではゆいいつの海水浴場だそうだ。
水着のオンナの子はわたしのサービス。
他人の写真を勝手にブログに載せるのは問題アリだけど、彼女はネットで見つけたどこのだれともわからない外国娘なので、日本のこんな泡沫ブログに文句をいってくることはまずないと思われる。
自分の写真が拡散されて喜ぶのはたいていこういう娘だし、ハダカは外国人でも日本人でもそんなに変わるわけじゃないし。
儀助は腰弁当で末吉神社にも行ってみた。
やけに宗教関係の視察が多いけど、ひょっとすると内務大臣から、沖縄にどのくらい日本の神道や仏教が普及しているか、偵察してこいといわれていたのかも。
彼が見たところ、4、500年まえの神社仏閣はほとんど日本から伝わったもので、百数十年まえのものは、孔子廟や天妃宮や関帝廟のように中国から来たものが多かった。
日本の神さまは山や川や岩や樹木、床の間や台所や厠など、そのへんの万物万象に宿ったものが多く、沖縄の神さまと共通点があるから、むかしは布教も楽だったのかもしれない。
末吉神社は、調べてみたらここも戦渦に遭い、1972年に沖縄新興事業で復興が決まるまで、国や県の補助もなく、崩れかけた悲惨なオンボロ社だったそうである。
現在あるものは、残った基礎石をもとに復興された、高い足場の上の、清水のミニチュアみたいな神社だった。
沖縄県指定有形文化財になっているそうで、写真を探すとうっそうとした森のなかにあり、那覇市内にこんな山があったのかと意外に思うけど、ストリートビューで見ると住宅街のはずれみたいなところだった。
祀られているのはイザナギノミコトだというんだけど、イザナギって日本を最初に作った神さまでしょ。
われのあまりたる部分を、なんじの足りない部分と合体させなくちゃなんて、卑猥なことをいってなかったっけか。
そのときついでに沖縄も作ったのか。
儀助は天徳山円覚寺にも行ってみた。
ここは琉球王朝の菩提寺で、本殿から山門、鐘楼、仁王像などを備えた荘厳な寺だったらしい。
しかし戦渦ですべての建物が吹き飛び、跡地は琉球大学の敷地として使われ、現在ようやく復興計画が持ち上がったけど、完成は2023年になるのだそうだ。
そういうわけで儀助の寺社巡りもこのへんまで。
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