沖縄/国頭(くにがみ)
ややこしくなるからこのブログでは触れなかったけど、かっての沖縄では「間切(まぎり)」という行政単位が使われていて、国頭(くにがみ)間切というと、明治時代には大宜味村と東村を併せた沖縄本島で最大の間切だったそうだ。
しかしそのほとんどは山ばかりで、開発も遅れたから、ヤンバルクイナというけっこう大きな鳥が、昭和の終わりごろまで表舞台に現れないまま生息することができた。
笹森儀助が本物の博物学者であれば、日本のダーウィンになっていたかも知れない。
あいにく彼は経済、産業などの調査を依頼された視察官で、探検家であることは間違いないものの、自然科学は門外漢だった。
山歩きをしているとき、いいものがありますよと勧められたのは、ダシチャー(シマミサオノキ)という木で、軽くて丈夫なのでステッキにするといいそうである。
そうかいというわけで、儀助も3本ばかり仕入れていた。
ステッキというと、去年の暮れの沖縄旅行では、わたしは持参した安ものの杖をどこかに忘れてきた。
わたしの性格からして、傘や杖が旅の終わりまで無事であるわけがないと注意をしていたつもりだけど、やっぱり失くした。
最初のときは波照間島への連絡船乗り場に忘れ、2日後に行ってみたらまだそこにあったからことなきを得たけど、2度目のときは美ら海水族館に行って、今日は休みですといわれ、カリカリしていたもんだから、帰りのバスの車内に忘れた(らしい)。
ほかの植物では虎斑竹というものが出てきた。
これは茶色の斑紋のはいっためずらしい竹で、わたしの知り合いで篠笛を作っている熊本のKさんは、しょっちゅうそんな竹を探している人だから興味を持ちそうである。
となりの村との境界に異なる種類の竹を植えて、村同士の土地争いのもとを防いでいる村があった。
いいアイディアだねと感心して、もうすこし行くと、高さが1メートル以上、厚さが60センチもある長い石垣があった。
これも境界かいと訊くと、イノシシですという。
国頭地方にはイノシシがたくさんいて、畑を荒らすから、その防御柵なんだそうだ。
1メートルぐらいの柵では本土のイノシシなら簡単に飛び越えてしまうけど、沖縄のイノシシは小ぶりだから、これでいいらしい。
その数は(儀助の本によると)数万頭というから、せいぜい数千人の村人が朝から晩まで食ってもおっつかない。
外国では専門のハンターを雇い、暗視装置つきのライフルを撃ちまくって駆除する国もあるくらいだから、人間が彼らの領域に侵入して以来、両者の対立は絶えることなく続いているのだ。
イノシシは八重山の西表島にもいて、わたしは浦内川のクルーズ船でそれが森の奥にすがたを消すのを見たこともあるし、去年の暮れに行ったときは、獲れたばかりのその肉をスライスした刺身の相伴にあずかったこともある(写真)。
気のドクにイノシシは多産系なので、ヤマネコに張り合って天然記念物になる日は遠いようである。
あいかわらず儀助の視察はかっちりしている。
村があれば戸数、田畑の面積はもちろん、家畜の数も調査するし、学校があれば教師の給料や生徒の数までかぞえ、銅の鉱山があれば、のぞいて収支を調べ、坑夫の給料を調べたりする。
農産物陳列場に寄ったときは、ついでに質屋の金利まで調べていたから、やっぱり彼の専門は博物学ではなく、経済や産業のほうである。
奥村というところでは、129軒の農家に対して役場の職員が14人いて、経費削減の観点からするとちょっと多すぎるんじゃないかと苦言を呈していた。
話を聞いてみると、ここでは役場の職員は名誉職のようなもので、ほとんど給料をもらっておらず、そのかわり永年勤続すると銀のかんざしがもらえる決まりだったそうである。
むかしの日本人が名字帯刀を許されるとむやみにありがたがったように、田舎者はこういうものに誉れを感じて、喜んで無給で働くものだから、日本政府も見習ったほうがいいと、これはちょっと儀助もまじめすぎるようだ。
瀬嵩村というところで切絵図を見た。
これは「琉球国惣絵図(間切集成図)」といって、琉球王朝の検地後に、間切や周辺の離島などを絵図にまとめたもので、集落の場所や役所の名称、建物の配置、田畑や道路、河川、沿岸、山野などが正確に描かれていて、儀助の出身地の青森・津軽藩のものよりはるかに立派だったらしい。
絵図の説明には具体的な人名がずらずらと書いてあるけど、知念さん、玉城(たまぐすく)さん、屋比久(やびく)さん、喜屋武(きやん)さんなど、いかにも沖縄らしい名前があるのがユニークなだけで、それ以外に興味を持つ人はいないだろうから割愛。
どうしても見たい人は沖縄県立博物館に行けば見られるそうですヨ。
国頭にいるとき、儀助は農産物の陳列場で、陳列してあった木材の名前を全部書き写し、説明を加えている。
スギやシイやマキ、クスなど、めずらしくないものもあるけど、大半は沖縄方言なのか、あまり聞いたことのない名前が多い。
ひとつひとつどんな木なのか確認していたら、なにしろ56種類もあるし、そんなものに興味のある人もいないだろうから、名前の気になるものだけいくつか調べてみた。
ガラギというのは肉桂(シナモン)のことで、中国などでは乾燥させた表皮が市場で香辛料として売られていて、そのままかじってみると、むかしなつかしいニッキの味がした。
テイゴ木というのは名前からピンとくるけど、沖縄で街路樹としてよく知られているデイゴ(ディゴではない)のことで、赤い派手な花が咲く。
九年母木という木があって、これは後註によるとシークワサーのことらしいけど、シークワサーのほうから調べると、そんなことは書いてないからアテにならない(だから載せない)。
ヨーナ木は黄色い大きな花をつけるオオハマボウのこと。
沖縄本島や八重山でよく見るフクギも出てきたけど、これは美ら海水族館の近くにみごとな生垣がある。
儀助はある場所で「水螺」というめずらしい貝を購入した。
沖縄方言でワワ貝という巻貝の一種で、写真を見ればわかるように、かたちが漢字の“水”に似ているからスイジガイ(水字貝)とも呼ばれ、火災予防のお守りなのだそうだ。
沖縄の地方や八重山を散策していると、よく民家の軒先にぶら下げてあるのを見かけるから、天然記念物になるほど珍しいものではない。
外国ではクモ貝(Spider conch)と呼ばれることもあるらしい。
写真を見ると、貝の開口部からぎょろりと二つの目玉をのぞかせて、まるでSF映画に出てくる宇宙怪獣だ。
奇妙な突起の貝だから、ひっくり返ったまま岩の割れ目にでもはさまったら身動きがとれないのではないかと、また自称ナチュラリストの好奇心がうずいて、いったいどんな生態なのか調べてみた。
そういう疑問を持つ人は多いらしく、YouTubeにはこの貝を裏返しにして起き上がるところを観察した映像もいくつか上がっている。
そうしたもののひとつ、美ら海水族館制作の映像にリンクを張っておこう。
https://www.youtube.com/watch?v=wrDjeg9aPfQ
餌はなにを食べているのか知りたかったけど、具体的に言及したサイトは見つからなかった。
ほら貝の仲間で、脚ものろそうだし、毒針もないようだから、おおかたヒトデでも食べているのではないか。
久志という村でノロクモイ神社に詣でて、神主から神職の首飾りである古い勾玉を見せてもらった。
するとこのあと、行く先々のノロクモイ(女の神主)たちが争って儀助に勾玉を見せにきた。
なんだ、なんだ、オレは古物商じゃないぞと、同行の巡査に理由を尋ねると、中央から来た役人で、あなたみたいに沖縄の神社に敬意をはらう人はめったにいませんでね。
あなたは話のわかる人だと嬉しがっているんですよという。
そうかい、みんなお化粧して出てくるから、オレに気でもあるんじゃないかと思ったよ。
しかしたいていのノロクモイはおばあさんだから、田舎の人の人心をつかむには日ごろの行いが大切だと、それ以上のことは儀助も書いてない。
国頭を一周してから、儀助は久志村に一泊したあと、久志岳、名護岳をへて、いったん名護にもどった(久志岳の写真は「まったり名護暮らし」というサイトから、名護岳はウィキから借用)。
朝8時に出発して12時に名護へ到着したとあるから、所要時間は4時間である。
この区間のほとんどが登山であることを考慮すると、やっぱりNHK-BSの田中陽希みたいな健脚のトレッカーなのかなと思ってしまうけど、久志岳、名護岳ともに350メートルにも満たない山だから、岳という字を使うのが畏れ多い日本百低山のクラス。
名護、羽地、大宜味、国頭、久志の村々30ケ所を視察して、さすがにひじょうに疲れたと書いている。
それでも儀助はまた宿泊先で、名護病院の院長や、名護警察、柴田警察の署長などに話を聞いて、スキさえあれば情報収集に努めるというモーレツ視察官ぶりを発揮していた。
名護署長の説明では、沖縄では瓦葺きの民家は、どんなお金持にも許可されていませんとのこと。
わたしたちが沖縄というとすぐ思い浮かべる竹富島などの赤瓦の家は、明治時代にはほとんど見られなかったのだ。
かわりにどんな家があったのかというと、つぎの写真のようなワラ葺きの家で、これでは台風で飛んでしまうけど、そういうときは村中総出で直したのだそうだ。
柴田警察の署長もマラリア持ちだったから、蚊というやつは悪人にも、それを取り締まる側にも公平に襲いかかるものらしい。
儀助は彼に、ここへ来るまえにハブに噛まれて死んだ人を、屋外に放置しているのを見ましたよ。
ああいうのって死体遺棄や葬祭の義務違反に当たらんですかと訊くと、死人は神に見捨てられたのですから、家に入れたら家が汚れるという迷信があります。
迷信は警察の管轄外ですとのこと。
署長はさらに続けて、国頭地方は遊惰の人が多いという。
この地方は那覇・首里方面で材木の需要が多く、景気がいいので、男はみんな焼酎を呑んで散財し、金がなくなったら森に入って薪拾いでもすれば、かんたんに小遣いていどの金は稼げるので、江戸っ子みたいに宵越しの金は持たない気質が発達したのだそうだ。
おかげで生産性を上げるような農業をおぼえようとしないし、彼らのためにも困ったものですという。
ほかにもこの地方には田畑代替え法という理不尽な法律があります。
5~7年おきに所有者が変わるもので、これではだれもまじめに畑を耕やしやしません。
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