沖縄/らい病患者の家
あまり暑いのでとうとう儀助は、もともと粗末だった衣服、といっても肌着にズボン下、手甲脚半ぐらいだったけど、それをみんな脱ぎ捨てた。
こうなるとひっかぶった芭蕉布一枚ってことになり、ヒッピーを通り越してインドの行者のようだけど、合理的といえばこれほどリラックスできるスタイルもない。
そして川があったらかならず水浴をしながら行ったそうで、これは健康にいいと自賛していた。
ところがそんなみっともない儀助を見て、村人たちがみんな冠をとり、地上にひざまづいて合掌するではないか。
爺さん婆さんが神仏を拝むような格好だから、なんで拝むんだろうねと随行の巡査に尋ねると、このあたりはかって目上の者を敬えというしつけのキビシイところでしたから、その名残りかもしれませんねという。
そうかい、オレはまたみんながオレのことを、とっくに死んでいる仏さまと信じてんのかと思ったよ、たまんないなあ、あはは。
本島北端の辺戸岬へ向かって歩いて行くと、道路のわきの絶壁の途中にみすぼらしい掘立て小屋が見えた。
場所的には、まえの晩に与那村というところ泊まり、このあとで辺戸村の宜名真神社に寄っているから、地図の上で与那村と辺戸のあいだのこの赤い楕円マークのあたりと思われる。
現在は海岸にそって立派な車道が走っているけど、陸地側は険しい斜面になっているから、明治時代にはさぞかし難所だっただろう。
あの小屋にはだれか住んでるのかねと訊くと、巡査が、あれはライ病(ハンセン氏病)の患者の家です、病気が感染るとコワイので、ああやって隔離されているのですという。
ちょっと寄って見ていこう。
やめたほうがいいですよ、すごく臭いだけですと、もちろん全員が儀助を止めた。
んにゃ、ライ病患者といえど天皇陛下の赤子である、たとえほかのだれも行かなくてもオレは行くと、儀助の言い方は歌舞伎役者みたいだけど、彼のこの後の視察ぶりを見れば、彼が中央から来た高慢ちきな官吏ではなく、弱者の悲惨な境遇を見逃さない慈悲深い役人であったことがわかるのである。
同時にどんなものも見逃さない博物学者の一面をもった人間でもあることも。
彼はひとりで絶壁をよじ登り、小屋をのぞいてみた。
小屋のなかには体中から腐臭をただよわせた若い女と、7、8歳の小さな子供がいた。
女は儀助を見ておびえているようだったと書いてあり、おそらくライ病患者特有の正視できない惨状だったのだろう。
このときはせいぜい声をかけることしかできなかったけど、あとで儀助はこの患者について役場の職員に問いただす。
この村ではライ病患者をどう扱っているのか。
やっぱ感染るとコワイですからね、ライ病の気配があった場合は、戸籍を抹消して、人里離れた場所に追いやるのが普通です。
気配があったらってのはなんだよ。
つまり、このへんでは農家はみんなブタを飼ってます、ブタには人糞を食わします、そのブタを人間が食べるので、ブタ肉からライ病がうつるとコワイもんで、早めに隔離しようってことですと職員は答えた。
なんとなく理解できそうでなくもない理屈だけど、儀助は彼らを叱責していう。
オレが聞いた話では、日本政府は先日、ハワイまでわざわざ専門医を派遣してライ病患者を治療したそうだ。
それなのに日本国内ではだれひとり患者の面倒をみようとしない。
なんでよその国の患者の面倒はみるのに、自国の患者はほうっておくのだ。
うん、これは帰って国に報告しなくちゃいかんなと、儀助はしっかり報告書にメモした。
わたしの東京の団地の近くに、「全生園」というハンセン氏病患者の療養施設がある。
ペシミストの散歩コースにふさわしいところなので、わたしもよく自転車で出かけるけど、院内の敷地に植わっている桜の古木を見ると、ここに隔離されたまま、肉親にも見放されて生きなければならなかった患者たちの怨念がこもっているようで、たまらない気持ちになる。
この病気はいまでは伝染するものでないことが明白になっているけど、もちろん明治時代はまだそんなことは知られていなかった。
映画「ベン・ハー」にもライ病患者が出てくるくらいだから、昭和になってさえ、恐ろしい病気であるという迷信はまだ外国でも信じられていたのである。
おかげでさまざまな悲劇を生んだことは、えーと、たとえば松本清張の「砂の器」。
映画化されたものはつまらない作品だったけど、ライ病をかかえた父と子の巡礼が、各地を放浪するシーンだけは名作にふさわしく、その場面だけでもっている映画だった。
いまでこそ◯◯四十八カ所めぐりだなんて、スポーツ・ウォーキングと勘違いしている人がいるけど、巡礼そのものが、はびこっていた迷信のために故郷や家族を捨てて、野たれ死が確実の旅に出た人々だったことを忘れてはいけない。
儀助の視察は続く。
宜名真神社をすぎると、まもなく絶壁の上にある「茅打(かやうち)バンタ」という景勝地にさしかかった。
ここは現在でも展望台から絶景をながめることができるので、ちょいと寄っていこう。
儀助の重要な仕事に、土地の経営状況を調べ、どの土地がどのように活用されて、税収がいくらあるかを把握することがあったから、彼は行く先々でマルサの女みたいに役場の帳簿を調べる。
久口という海岸には200年まえから貧乏士族が住みついており、これは増えすぎた士族を琉球王朝が体よく開拓団に追いやった人々で、地元では「居住人」と呼ばれていたそうだ。
もと士族とはいうものの、彼らは小作人として生計をたてざるを得ない境遇で、王朝の温情だったのか、税金は免除されていたという。
この地方にはほかにも「ヲナワ畑」という、琉球王朝のころから続く無税の土地があったけど、たいていは税金を取り立てるのも気のドクな、耕作に不向きの荒地だった。
明治時代には荒地でも、沖縄の最僻地ということで、このへんまで観光に来る人も多いから、現在はけっこう観光ポイントもできているようだ。
島の北端に近いこの地方では、まだサトウキビが作られてなかった。
砂糖は薩摩藩が専売の権益を一手ににぎっていて、いくら作っても利益はみんな薩摩藩のものになっていたからだそうだ。
沖縄では日本の本土の人間のうち、鹿児島県人を倭人(ヤマトンチュウ)と呼び、それ以外を大倭人(オオヤマトンチュウ)と呼んでいて、ヤマトンチュウは乱暴者ばかりだと怖れていたそうである。
たしかに薩摩藩は江戸期を通じて、倒幕の念を燃やし続けた体育会系みたいな藩だったから、乱暴者が多かったのは事実かもしれない。
最北端の辺戸村に着いた。
儀助がここで泊まった民泊では、風呂は家から4町(400m)ばかり先の水風呂で、雨が降っていたけど強引に入浴した。
帰りは雨の中をもどって、泥だらけになり、なんのための風呂なのかと笑われる。
この地方の産物を那覇や首里に運ぶ場合、辺戸岬より東側にある村の船は嶋尻地方与那原港に向かい、西側の村は那覇に行く(地図参照のこと)。
したがって辺戸岬は東西の航路の分岐点となる。
奥村というところで、那覇にはどのくらいの頻度で行くのかねと儀助が質問すると、年に7回との返事だった。
このあたりで山原(ヤンバル)船についての話が出てきた。
沖縄には山原船と慶良間船という船があるというんだけど、山原船のほうは写真を見たとたんに、中国のジャンクに似ているなと思った。
柳田国男の「海南小記」のなかに、わざわざ山原船についての一項があり、それによると交易のために福建省あたりに渡った沖縄人が、中国の船のほうが運輸に向いていることに気がつき、あちらで注文して造ったのが山原船で、だからこの船が中国のジャンクに似ていても不思議じゃないとある。
わたしは初めて大陸中国に行ったとき、上海の黄浦江でジャンクが見られるかもしれないと期待したけど、1992年の時点で、そんなものはもうひとつも残ってなかった。
慶良間船については、調べてみたけどわからなかった。
なんでも頑丈で、積み荷は多く、日本の船に似ていたというから、和船の歴史についてさらにネットで調べてみたけど、奥が深そうなので断念。
それでも瓢箪から駒というか、和船のことを調べていて、わたしの認識のひとつがまちがっていたことに気がついた。
わたしはむかしシルクロードの勉強をしていたころ、砂漠というものは人間の生存に適さない過酷な土地らしいので、そんなところを行き来する人はめったにないと思っていた。
ところが知るにつれ、ここが大昔からさまざまな民族の行き来する活発な交易路で、ウイグルのような砂漠の民にとっては、東海道や中山道とたいして変わらない道であることがわかってきた。
同じように南方の島から日本列島への海の道も、わたしが思っている以上に、船の往来や人の行き来が激しかったようである。
糸満の漁師のようなプロの海人(ウミンチュ)にとっては、ちょいと出稼ぎに行ってくるていどの道にしかすぎなかったらしい。
これじゃ源の為朝が沖縄まで来てタネを撒いていったという伝説も本物かもしれない。
船といえば「海南小記」にはサバニのことも出てきた。
これは沖縄独特の、もともとは手漕ぎの丸木舟で、なんというか、迷い込んできた文明人を追いかける原住民の舟みたいである。
そんなものがいまでも使われているのかと聞かれると、うーんだけど、沖縄のハーリー祭では盛大にこれの競艇が開催されるから、いまでも見ることはできる。
ほかにも博物館やホテルに展示されていることがあるから、見るのはそれほどむずかしくない。
ここに載せたサバニの写真は、西表島の船浮にある「海人の家」という宿屋に展示されていたもの。
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