沖縄/大宜味村
旅行というのは近くて楽なところからまわると、終いにメンドくさくなって遠いところがおろそかになるものだ。
わたしもそういう傾向があるからよくわかる。
だからということで、儀助は沖縄本島探検の最初に、いちばん危険とされる本島最北端の、辺戸岬を一周してやろうと考えた。
内務大臣の秘書待遇の彼には、随行者として、通訳をかねた那覇市役所の笹田という職員と、警護役の柴田という巡査のほかに、人夫ひとり、水汲みひとり、下級役人ひとりがつくことになった。
あとでわかるけど、この3人はのんびりしていて、まるっきり役に立たなかった。
さらに現地でもつねに数名の人夫が荷物運びとして加わることになったから、現代なら、さしずめシェルパを雇ったエベレスト登頂隊というところか。
持っていくものは、白米、醤油、ローソク、蚊帳、ワラジ、茶、タバコ、酒(蚊除けの泡盛らしい)、外套は重すぎるというので雨具としては油紙を用意した。
ほかに変わったものとしてコンデンスミルクがある。
写真を見ればわかるけど、これはイチゴを食べるとき上からかけるもので、濃縮されているからたぶん栄養も濃縮してあるのではないかと、疲れてグロッキーになったときなどに儀助が愛飲していたものだ(チューブ入りは明治時代にはまだない)。
エベレスト登頂隊のような装備だと、気になったのは彼が、たとえば馬のような乗り物を使ったのではないかということである。
しかし一行6人が全員馬に乗ったら、そうとうおおげさな視察になってしまうし、かかった時間から推察しても、やはりほとんどの場合徒歩の旅だったようである。
大臣秘書だと問答無用でベンツが迎えに来てくれる現代とは違うのだ。
彼が那覇を出発したのは明治26年6月15日のことだった。
まず汽船・大有丸で本島北部にある名護市を目指した。
名護市の屋部港に上陸して、陸伝いにひたすら島の北部へ向かう。
名護市をはずれると、そのあたりに作りかけの道路が残っていたという。
これはかって首里の都を北部の運天港に還都する計画があって、それが王さまの気が変わって中止になったものの跡で、景気のいい時代もあったんだねと儀助は感心する。
この写真は、道路がおもしろくなければいけない理由はないけど、おもしろくもおかしくもない現代の名護と運天港をむすぶ道路。
歩けば腹がへる。
儀助たちはとちゅうで昼食にした。
随行の職員や警察官は弁当箱で、儀助は芭蕉(写真参照のコト)の葉でくるんだにぎり飯だった。
本土からやってきた大臣秘書だから、漆に螺鈿の豪華な重箱でも出てくるんじゃないかと期待していた随行員たちは、まるで木こりの昼メシですねといってげらげら笑った。
ちなみに芭蕉の葉というのはタイやボルネオでも、市場で包装紙として活用されていた。
トイレットペーパー代わりに使われたこともあるそうだけど、わたしは見たことがない。
このあと大宜味(おおぎみ)地区の役所に到着したときは、田舎者は格好にこだわるから、えらい人が来るというので全員が紋付袴で出迎えた。
儀助のほうは芭蕉布一枚に兵児帯、ズボンに脚絆、わらじ履きというヒッピー・スタイルである。
どうも軽蔑されたようだけど、儀助の仕事は冠婚葬祭に出席するわけじゃないので、本来の仕事ができればなんだっていいのである。
大宜味の旧役場に興味のある人はこちらから。
大宜味地区は儀助が最初に視察した本島北部の大きな自治体なので、調査は徹底していた。
村の戸数・人口から始まって、農産物、海産物の生産と輸出入の状況、年間予算の内訳、官有地、私有地の面積、役所の職員の給料などなど。
明治26年の大宜味地区の戸数は1,164戸、人口は男が6,733人、女が3,437人だったそうである。
地区区分がいまとは違うかもしれないから、いちがいな比較はできないけど、現在の大宜味村は2010年の13万人をピークに、人口が下がり続けている。
農産物ではサツマイモが330万斤、米が1,700石、以下にキビ、大豆、小豆がと続き、タバコや綿なども作られていた。
家畜はウシやブタ、ヒツジなどの頭数まで調べていて、ウマが1頭しかいないのは、この地方は急峻な土地が多いので、ウマでは農耕に向かないからなどと書いている。
山が多いかどうかは写真で判断してほしい。
冒頭の写真とここの2枚は、大宜味あたりの高所の風景。
自称ナチュラリストのわたしの興味をひいたのは、海産物の名前で、ヒヨ、ヒキ、ブリクン、章魚、クツナケという魚名が出てきたこと。
後注によると、ヒヨはシイラじゃないか、ヒキはスズメダイの仲間じゃないか、ブリクンは沖縄の県魚であるグルクン、章魚は足が8本のタコのことで、クツナケはフエフキダイのことだと書いてあった。
そんなことをいってもわからない人のために写真を添えておく。
ブリクンだけがカラアゲなのは、これでビールを飲むと美味しいからで、わたしは沖縄に行くとたいていこれでイッパイやるのだ。
大宜味地区には学校が2カ所あって、生徒が161人、うち男が152人で、女が9人しかいないというのは、この時代の男女の教育事情を物語っている。
大宜味地区を含む国頭(くにがみ)地方全体では、生徒から授業料以外に村費というものを徴収していて、通学時間の大小でそれをまた生徒に還元していたそうである。
遠方から通学する生徒のほうが近くから通学する生徒より大変なので、こうやって負担を公平に分担していたらしい。
なかなかいいことだと儀助は感心する。
農地を見てまわった儀助は、この土地には棚田が多く、農民はひとり一反にも満たない土地で生計を立てていて、どうもあまり熱心に耕作をしていないようだと見た。
沖縄では肥料に人糞を使うことも知らなかったという。
ちと臭うのが欠点だけど、まだ化学肥料のなかったころは、人間が排泄したものが野菜の肥料になり、育った野菜を人間が食べてまた排泄するという、自然な循環が完成していて、人糞を使った農法は理想的な有機農法ともいわれる。
こんなことを書いたからといって、わたしがそういうものに郷愁を感じていると思われちゃ迷惑だけど。
江戸、東京は大都会だったので生産される人糞の量も多かった。
昭和のはじめごろまで、それは大八車に乗せられ、畑のコヤシにするために中野や杉並などの農村に運ばれていた。
新宿の中野坂上には大八車の後押しをして手間賃を稼ぐ商売もあったそうである(ということが井伏鱒二の本に書いてあった)。
沖縄だけに人糞農法が普及してなかった理由は、こちらでは農家はたいていブタを飼っているので、畑に撒くはずのそれはブタの餌にしていたからだそうだ。
トイレはブタ小屋のま上にあり、上から落とすだけでブタが喜んだので、畑に撒くより楽でいいし、まわりまわって最後は人間のお腹に入るのだから、野菜の肥料にするのと変わらないというわけだ。
それでも沖縄は他国の人間がうらやむほど土地が肥沃で、作物はそれほど手をかけなくても収穫できたらしい。
放っておいても作物が取れるなら、わざわざ苦労してコヤシを撒く者もいないし、沖縄県人がのんびりしているのはこれが原因かもしれない。
沖縄県人はブタが好きである。
市場に行くとたいていの本土人が、売られているブタの顔にびっくりする。
一行は視察を続け、見里村というところの榕樹(ヨウジュ=ガジュマルのこと)の下で昼食にした。
これは沖縄を旅していると街のなかでもよく見かける木で、気根という根っこをもじゃーっと垂らした宇宙怪獣のようなかたちの木である。
わたしは十数年まえに名護市に行って、道路のまん中にそびえるガジュマルの古木を見たことがあるけど、これは成長の早い木なので、まさか儀助の見た木じゃあるまいね。
ここではカジュマルの表記にレンケンクツバンというむずかしい名前も使われていて、ここに載せようと思ったけど、漢和辞典にも出ていない漢字なので変換できなかった(とりあえずひと文字だけごまかして載せてみた)。
このあとは大宜味の海岸や観光ポイントをながめていこう。
儀助は行く先々の村で経済状況などを詳しく調査し、大宜味地区の生産物の出納は、輸出金額から輸入金額を引くと大幅に黒字で、この地方の景気はいいはずだと書いた。
ところがこのあと国頭(くにがみ)地区の奥間村というところで、本土から来ていた巡査から話を聞くと、あんな出納帳はみんなデタラメですよという。
なにそれ。
沖縄では負債は隠すのが常識になっていて、そんなことはだれでも知ってます。
ホントかよというわけで、さらに詳しく調べてみたら、負債額は最初の帳簿の倍にふくれ上がった。
よくわからない。
儲けが多すぎて隠すならわからないこともない。
琉球王朝の時代には、うっかり儲かっていますなんて正直に書くと、その分も税金としてごっそり持っていかれることが多かったから。
中国、韓国などはそういう国だったのだ。
しかし沖縄県人はわりあい呑気で、これまでのところ、赤字を恥じるようなタイプには見えないんだけど。
儀助は沖縄に来るまえに寄った奄美大島でも、似たように状況があるのに気がついていた。
出納をごまかすという悪しき風潮は是正しなければ、新政府になったばかりの日本のためにならないと、儀助は報告書に書いた。
そのせいか、彼は南島探検が終わったあと、奄美大島の島所長に任命され、この島の負債をなくすことに奔走することになる。
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