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2022年3月 4日 (金)

沖縄/ウミウサギ

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儀助が寺社めぐりをしたとき案内をしてくれた人で、謝花寛顕という沖縄県人がいた。
謝花(じゃはな)という姓は沖縄に多い名前で、地元の人だから沖縄の政治にも詳しく、儀助にこの世界の裏の事情をいろいろ教えてくれた。
これがおもしろいから、長いけど要約してみよう。

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日本は明治維新で廃藩置県という大改革を断行し、それまで沖縄にあった琉球王朝を廃止して、その末裔である尚泰王を貴族待遇で東京に住まわせた。
沖縄には旧藩主、つまり琉球王国の国王をしたう保守政党と、日本のもとで新しく出発しようというリベラル政党があった。
保守政党というのはかっての士族階級で、これ自体が黒党、頑固党、開化党の三つに分かれていて、手法は異なっても、いちおうすべてが王政復旧を目的としていた。
黒党と頑固党は中国(清)を頼りにして、ひんぱんに密航しては中国政府と連絡を取り合い、人心を撹乱するために、中国が攻めてくるというデマを飛ばすこともあった。
中国を頼ることは共通していても、その配分では、黒党は完全に中国一辺倒で、頑固党は日本と中国を天秤にかける主義だったそうである。

琉球王朝の末裔である尚家は、かっての家来たちをかかえていまなお隠然たる力を有していたから、頑固党は尚家を味方にして、その支持者たちを自分の陣営に引き込もうとした。
この党の人気は、表面的にはまずまずだったけど、中国が彼らの支援に動いたことはいちどもなく、現実にはたいした運動にならなかったばかりか、そのうち運動資金という名目で中国にワイロばかり取られていることに気がついた。
このころの中国は、上の者に会うためには下の者にワイロが当然の国だったので。

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中国に本気で支援してくれる気があるのかどうか、使者を何度も送って確認してみたけど、相手はどうにも煮え切らない。
黒党、頑固党に所属する人間は、現実には密輸のために加入している輩が多く(中国の品物は日本で3倍に売れた)、日本と中国を行ったり来たりするうち大儲けする者もいた。
そんなわけだから、大義は立派でも、このグループの人気が盛り上がるはずがなかったのだ。
開化党は前のふたつとちがって、琉球王朝の復旧を悲願とするところは同じだけど、日本を交渉相手にするという方法で細々と運動を続けていた。
もちろんいずれのグループも、廃藩置県を断行したばかりの日本政府に相手にしてもらえるはずがない。

一般平民はどうかというと、日本の新政府を歓迎する空気が強かった。
理由は、王政のころはワイロが横行し、税金はむやみに上がって生活が苦しかったのに、新政府になってからは税金は軽くなり、ゆとりのある生活もできるようになったからである。
だから王政復旧なんてとんでもないというのが、大半の平民の立場だった。

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最近あった事件のひとつは、頑固党のなにがしが密航のため尚家に費用を借りに行ったら、日本政府に反抗するなんてケシカランと会計係に断られ、その会計係はなぜかまもなくクビになり、なんとか借金できて密航することができた。
これが警察にバレて、密航者の家族まで取り調べられ、中国政府の密書なんてものまで出てくる騒ぎになり、まきぞえを恐れた尚家の家族はみんな上京してしまった。
密書には代々の琉球王朝の王さまの名前があったそうだけど、いまさら影響力のある者はいなかったばかりか、活動家の行動はみんな日本政府に筒抜けだったようで、どうにもだらしない政治運動である。
謝花さんの話はこんなところ。
この話をもっと詳しく書けばおもしろいスパイ小説になりそうだけど、わたしはサムセット・モームでもグレアム・グリーンでもないしなあ。

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沖縄の士族が琉球王朝の時代にもどりたいというのは、特権階級だった彼らにしてみれば当然のことで、廃藩置県が紛糾するのを日本政府はあらかじめ予想していた。
日本政府がすべきことは、無能な役人のクビを切ること、租税システムの改善などで、県民の不満を抑え込むことだった。
しかし沖縄で功績のあった知事というと、10年まえの西村知事が県内の事業を推進したり、学校や道路を作ったりしたことぐらいで、ほかの知事はだれひとり目に見える功績を残していない。
どの知事も沖縄に長く赴任したがらないのが原因だと、こんな打ちあけ話を聞かせてくれたのは、沖縄の島所長をしていた西常央(にしつねのり)という人である。
ただしほかの知事に聞かれるとさしさわりがあるので、ここでは某氏というふうに伏せ字にしてあって、儀助も守秘義務を守っている。

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儀助は首里役所で西所長に会った。
今度はさしさわりがない話だから、おおっぴらに名前をだす。
じつはこの西という所長、長崎の平戸から警察官として沖縄にやってきたあと、八重山に視察に行ってたちまちマラリアに罹り、いまなお完治せずに定期的に高熱を発するという人だった。
これをみてもマラリアは、沖縄ではありふれた、めずらしくない病気だったようである。

なかなか豪気な人で、なにマラリアなんか、科学の発展のためにわたしが生きた標本になりますよといっていたらしい。
もう7年間も人体実験を継続中ですというから、なんかわかりましたかと訊くと、医者の注意はあてになりませんなという。
わたしは医者じゃないから専門的なことはわからんけど、実地に見たところでは、人が大勢住んでいるところのほうが、少ない土地より患者が少ないから、小さな村を合併して人口の多い村にしてしまうのがマラリア根絶の第一歩です、がははなんて笑う。
彼は儀助よりさらに国粋主義者だったらしく、沖縄の最初の神であるアマミクは、日本の天照大神(アマテラス)の子孫にちがいないし、波照間島という名前も果てのウルマの転語ですから、沖縄がむかしから日本の領土であったことは間違いないなどという。
なんだかよくわからない理屈で、わたしにもサッパリわからないから、無視して先に進むことにする。

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この西常央という人は博物学者としての評判のほうが後世に知られていて、このときも自ら蒐集した土器や、古代の墓の埋葬品である勾玉や、昆虫や貝のコレクションを儀助に見せてくれた。
島生活というのは退屈なものなので、貝の収集というのはだれでも思いつくらしく、ここに載せた貝の標本は、わたしが西表島の旅館に泊まったとき、玄関に展示してあったものである。
この旅館の標本のなかには、白い貝殻に赤い目と口を描いて海ウサギと名札をつけたものがあり、思わずわたしをほっこりさせた。
海のなかにはじっさいに「ウミウサギ」という貝がいるのである。
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これはタカラガイの一種で、名前の響きが美しいし、白い貝殻が白ウサギを思わせるきれいな貝だ。

柳田国男の「海上の道」のなかに、古代の人にとって海はひじょうに危険なところのはずなのに、それを承知で、どうして人々は日本列島に渡ってきたのだろうという話がある。
それはひとえに、当時通貨として使われていた貴重なタカラガイを求めてではなかったかという。
ゴールドラッシュで氷雪のアラスカに押し寄せた人々もいるのだから、この推察は当たっていて、日本人の祖先は欲の皮のつっぱった人ってことになるのかも。

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波打ちぎわを歩いていると、よくタカラガイの死んだ貝殻が落ちているのを見つけることがある。
生きているときのタカラガイは全体がナメクジのような外套膜におおわれ、外から貝殻が見えにくいけど、かならずしも白いものばかりではなく、いろんな色と大きさのものがある。
わたしはダイビングにはまっていたころ、伊豆の海でウミトサカについている小指の爪ほどのこの貝を見つけ、全体が宝石のように美しかったから、ぜひコレクションしたいなと思ったくらいだ。

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西所長のコレクションのなかに、ほかにも“鳩目銭”という琉球時代の古銭があった。
ごれは簡易通貨で、中国から冊封使が来たときだけ使用するものだという。
なぜそんなものを使うかというと、冊封使の従者たちは中国から持ってきた品物を、沖縄で高く売りつけるくせに、こっちの品物は安く買いたたく。
一度や二度ならともかく、こんなことが続くと、差額として持ち出される日本の銅銭もバカにならないので、冊封使との取引にかぎって安ものの硬貨を使うことにしたのだそうだ。
写真を探してみたけど、もともと貨幣としての価値のないいいかげんなものだったから、まともなものは残っていないようだった。

那覇滞在中に儀助は風邪をひいてしまった。
どうも東北からいきなり熱帯に来たのがいけなかったらしい。
さいわいマラリアではなかったものの、熱が出て終日体がだるい。
責任感のつよい彼は探検を目前にして寝ているわけにはいかないと、まえに書いた落平(ウチンダ)の泉まで行き、冷水を浴びて強引に病気を抑え込んだ。
いろんな治療方法があるものだけど、マラリアをものともしない西常央といい、この儀助といい、明治時代はバンカラな豪傑たちの時代といえるかもしれない。

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宿屋で書類を整理していると、大有丸の船長がやってきた。
儀助は沖縄本島のあと、この船に乗って八重山に行く予定だったので、いろいろ話を聞いてみた。
この船長は沖縄県から土地を借りて開墾事業もしているという。
人は集まりますかと訊くと、ええ、こちらでは人身売買の風習が残っとりますからね。
一時金を40円、50円も貸してやれば、大のおとなが一生タダ働きで使えますんで、まあ農夫には不自由しませんよという。
奴隷農法じゃありませんか、そりゃひどいというと、でも沖縄人というのはなまけ者で、労働時間は朝8時から夜の6時ということになっておるんですが、だいたい1日3回は休憩をとるし、メシのときは4時間も仕事をおっぽり出して帰ってきませんのでね。
実働は6時間にもなりゃしませんとのこと。
どうも労働者も経営者も、南国特有ののんきな気質だったらしく、平和な時代があったものだ。

大有丸の出航が遅れたので、儀助はこのあいだに沖縄本島を視察するつもりで、キナ丸300錠を準備した。
それだけのキニーネが必要なくらい、沖縄探検は危険なものだったのである。

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