沖縄/石垣島
干瀬はさながら一条の練絹のごとく、白波の帯をもって島を取り巻き、海の瑠璃色の濃淡を劃している。
虹がこの海に橋を渡す朝などがもしあったら、今でも我々は綿津見の宮の昔語りを信じたであろう。
笹森儀助の紀行記は公務の報告書のようなもので、珊瑚礁の海が美しい、ゴーヤチャンプルーが美味しいなどと、ミーハーの女の子みたいなことは書いてないから、また柳田国男に代弁してもらった。
石垣島は珊瑚礁の島ではないけど、周囲はほとんどサンゴのリーフに縁どられていて、「海南小記」のなかの“干瀬の人生”に描かれているように美しい。
この本を読むたびに詩のようだと思い、詩を読むのは音楽を聴くのと同じ脳の中枢による体験なので、いい音楽を聴いたような気持ちにもなる。
笹森儀助は石垣島にやってきた。
この島は本土からの飛行機が離着陸するところで、西表島や竹富島、与那国島、波照間島などなど、八重山の離島へ行くための起点になる島である。
わたしはこの島に何度も行っていて、泊まった宿もピンからキリまである。
去年の暮れにはついにゲストハウスなる宿にも泊まったし、まだまだ若いころのヒッピー精神は抜けておらんようだ。
明治時代の石垣島には旅人宿が2軒あって、儀助に同行した教員の一行や船舶会社の職員らはそっちに泊まった。
内務大臣の秘書待遇である儀助は、現在では国の重要文化財になっている「宮良殿内(みやらどんち)」という士族屋敷に泊めてもらった。
彼の食事は3食とも旅人宿で作ったものを殿内まで運んでもらい、おかげで料亭に大勢が押し込められ、夜中まで騒々しくて眠れなかった宮古島に比べれば、極楽みたいだったそうである。
作家の司馬遼太郎も宮良殿内を見物していて、「街道をゆく・先島紀行」にその描写があるから、わたしは昭和49年(1974)ころの当主が、宮良当智という明治生まれの老人であることも知っていた。
この家の建築材料がイヌマキであることも。
イヌマキは“一つ葉”とも呼ばれ、葉が扁平なので、一見すると照葉樹の仲間に見えなくもないけど、いちおう針葉樹で、シロアリに強いという特性のために沖縄では高級建材だそうだ。
この家の屋根は沖縄ふうの赤瓦で、明治時代には一般平民に瓦ぶきの屋根は許可されてなかったから、何度も役所の指導を受けている。
もっと詳しいことを知りたい人はここをクリック。
庭に枯山水式の日本庭園があり、庭の木々をすかして、その向こうにとなりのタクシー運転手さんの家が見える。
こちらもなかなか立派な家である。
となりの家のことはこのさいどうでもよくて、宮良殿内で儀助はパパイアをご馳走になった。
大きさや色などを詳しく書いているから、彼がパパイアを初めて見たことは間違いなく、本土の樽柿のようで美味しいと、ここではミーハーの女の子のようなこと書いていた。
最近ではパパイアもだいぶ値がこなれてきたけれど、明治以前には献上品として、将軍さまぐらいしか食べられない果物じゃなかったろうか。
ついでといってはナンだけど、ここで石垣島の珍味をいくつか紹介しておこう。
豆腐ヨウはアンキモのようなねっとりした食感で、酒のつまみに好適。
ウミブドウは口のなかでプチプチとはじける食感が楽しく、わたしはむかし沖縄本島の古宇利島で、ご飯が見えないくらい豪快にこれを乗せたウミブドウ丼を食べたことがある。
モズクは、うーん、テンプラよりそのまま酢醤油で流し込むほうがわたしは好きだな。
これについては、公設市場で石油缶で買えば本土まで送料がタダになる。
ひとりでそんなに食べるのは大変だけど、このおばさんたちはグループ買いをしていた。
ヤシガニはずっとむかし、たまたま入った食堂のメニューにあったので、話の種に注文してみたもの。
現在では天然記念物の禁制品だから、やたらには食べられないようだ。
儀助は翌日、石垣島に新しい監獄を作る計画があって、その下調べに来ていた監獄職員たちと川平湾へ行ってみることになった。
職員たちははじめて石垣島に来た者が多く、全員が駕籠に乗るというので、儀助もここでは駕籠に乗った。
駕籠はひとつに6人の人夫がつき、みんな裸足でジャリ道でもそのまま走り、料金は1里9銭だったそうである。
宮良殿内から川平湾まで、距離は20キロ以上あり、これを儀助の駕籠は4時間あまりで走っている。
とちゅう原野があるたびに見分しながらの道中だったけど、乗り心地はよくなく、儀助は3回も駕籠から落っこちた。
石垣島もマラリアのはびこる瘴癘の地だったので、儀助は医師にいわれたとおり、朝と晩にキナ丸(キニーネ)を飲み、蚊対策として泡盛を飲み続けた。
蚊というのは泡盛の匂いがキライなんだそうだ。
川平湾は入口に大きな島をかかえて内陸に深く入り込んだ湾で、風光が明媚なところから、いまでは石垣島屈指の観光地になっている。
ここは明治以前は八重山でもっとも重要な港で、中国や本土への輸出品はすべてこの港を経由していたそうだけど、儀助が旅をしたころ、港湾関係の仕事は現在の石垣市のほうに移ってしまっていて、川平港もたいそう寂れていた。
当時の川平村の全戸数は68、人口は301人だったそうである。
ちなみに現在は、ということで調べてみたら平成22年(2010)のデータが見つかり、それによると戸数516の人口1005人だという。
わたしは川平湾に行ったことがあり、グラスボートにも乗ったことがあって、もっとにぎやかなところというイメージを持っていたけど、ここにある小学校の生徒数が、1年生から6年生を合計しても50人くらいというから、いまでもにぎやかというほどではない。
儀助が見たとき、役場の建物だけは新しかった。
建築材はセンダン、マキ、モッコクなどと、ここでは建物の材料にまで触れている。
紀行記作家というものは見かけた建物の材料にも触れなければいけないようなので、わたしも調べてみた。
マキというのは前記の宮良殿内のイヌマキのことだろう。
センダンというのは“栴檀は双葉よりかぐわしい”と、香りのよいことで知られる栴檀(白檀)とはべつの植物である。
以前わたしの散歩道であった調布飛行場のわきに生えていて、盛りをすぎても葉が水々しい木だったけれど、鳥が勝手に種をまいて勝手に成長した木だったので、そのうち切られてしまった。
モッコクのほうは、いわれてみれば庭木として誰でも見たことのある木だった。
この道すがらでパイナップルのような実をつけた植物を見た。
儀助さん、ごらんなさい、これはトゲナシアダンですと、随行員のひとりがいう。
どっか珍しいのかい。
ふつうのアダンは葉のへりに鋸歯状のギザギザがあるんですが、これにはありません。
あっ、ほんとうだ。
小笠原などには自生しているらしいですけど、八重山ではここにしか生えてない貴重な木です。
むかしこのあたりで難破したドイツの船が、種を持ってきたんじゃないかといわれてますと、儀助たちは1本の木(アダンは大きめの草だけど)をまえにワイワイ詮索した。
例によって村の人口や経済状況を尋ねたあと、川平村の視察を終えて、儀助たちは名蔵村へ向かった。
名蔵という地名はいまでもあって、ラムサール条約に登録された「名蔵アンバル」という大きな汽水湖があるところである。
自称ナチュラリストのわたしはもちろん行ってみたことがある。
広大な干潟があって、アウトドア派には興味のつきないところだけど、広すぎてわたしの歳では見てまわるのがしんどい。
田んぼの間の小川でカニでも釣れないかと試してみたものの、なにも釣れなかったからわたしには釣りの才能はないみたいだ。
近くに素泊まりの宿があるから、野鳥観察でもしようというなら、ここに泊まるといい。
パイナップル農園もあるから、女の子には喜ばれそうだ。
儀助が名蔵村に着いたのは夕方の6時ごろだった。
当時の役場の正確な位置はわからないけど、名蔵村役場は荒れ果てて人間はひとりもいなかった。
随行の警察官に尋ねると、村の戸数は6戸、人口は男女あわせて16人しかいないとのこと。
これじゃ村というより部落だけど、石垣島の税務署はこんな貧乏な村にも職員を置いて、容赦なく島民から税金を取り立てていた。
有名なのは琉球王朝の支配時代からある「人頭税」というもので、これは金があろうがなかろうが、人間ひとりにつき一定額の税金を取り立てるという、乱暴かつ無慈悲な制度だった。
もともと面倒な徴税の手間をはぶくために導入されたもので、累進課税の原則に反していたから、現在ではこの制度を残している国はほとんどない。
沖縄で人頭税が廃止されたのは明治36年のことだった。
ごれは儀助の旅の10年後だから、彼の報告と提言も制度の改革に効果があったのかもしれない。
儀助の視察では、貧しい人たちにつねに温かい眼差しがそそがれていた。
視察を終えて宮良殿内にもどると、人夫たちが駕籠代をちょくせつ自分たちに払ってくれと騒いだ。
駕籠を斡旋した役人に払うと、みんなピンハネされてしまうということで、いつの時代も最下層の人々の境遇はきびしかったようだ。
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