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2022年4月 3日 (日)

沖縄/琉球征伐

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今回は笹森儀助の「南嶋探検」から逸脱して、彼の本の中に慶長の役ということでしょっちゅう出てくる琉球征伐について書いてみよう。
本文に入るまえにひとこといっておくけど、「琉球征伐」というのはあくまで本土(薩摩藩)側からの言いまわしで、鬼ケ島の鬼じゃあるまいし、征伐されるほど悪いことをしたわけでない沖縄の側では、これは「己酉の乱」という。
“己酉”の読み方は「きゆう」とか「きどのとり」とか「つちのととり」と読むらしいけど、琉球征伐の場合は、どれが正しいとはっきり書かれた文章が見つからなかった。
こういう場合はどれでもいいというのが漢字の便利なところで、ま、たぶん「きゆう」でいいんじゃないか。

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島津義久の琉球征伐は慶長14年(1609)のことで、関ヶ原の戦いの9年後、徳川家康が大阪城の外堀をじりじりと埋めていたころだ。
薩摩藩は関ヶ原では西軍に属したから、戦後は取りつぶされてもおかしくないところ、取りつぶされるくらいなら死ぬまで戦うという覚悟、それを見た幕閣たちの、まだ天下が定まってない不安定な時期だからというためらいなどが働いて、なんとか所領を安堵することができた。

琉球征伐も同じ流れのうえにあったのではないか。
琉球を制したものは対明貿易で莫大な利益を得ることがわかっていたから、徳川幕府が安定したあとなら、そんな美味しい権利をみすみす薩摩藩に独占させることはなかっただろう。
しかし徳川政権は豊臣氏の勢力をそぐことに傾注しなければいけない時期だったので、そんな南の果ての問題に関わっている余裕がなかった。
薩摩藩にしてみれば、将来にわたって幕府に抵抗するための、軍資金用ATMを手に入れたようなものだった。

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薩摩藩が攻めてくることを知った琉球の尚寧王は、あわてて中国(明)に支援を求めたものの、明のほうも屋台骨が傾いていたころで、秀吉の朝鮮侵略のとき朝鮮に味方したことへの報復ではないかと恐れるばかりだった。
このころ流行っていた倭寇をみても、日本人というのはとにかく乱暴者が多く、暴れだすと手に負えないということが大陸まで鳴り響いていたのだ。
尚寧王は三司官のひとり謝名(じゃなー)という人物を重用していて、この男は明で教育を受けた反日主義者だったから、中国の援軍をあてにして日本に刃向かった。
薩摩藩にとってこの反日行為は、征伐の絶好の口実を与えてくれたようなものだった。

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かくしてヤマトンチュウ(薩摩藩の侍)という、熊狩り猟師のような荒くれ男たちを乗せた80艘もの大船団が、波のおだやかな3月のある日に沖縄に向かった。

柳田国男の「海南小記」のなかに“旧城の花”という一項がある。
これは那覇市の浦添城からながめた景色を叙述したもので、散文詩といえるような美しい文章である。
城の石垣の上に立つと、干潟の美しい東西の海がいちどに見える。
島の歴史の800年が見える。
嘉津御嶽の向こうのふもとが運天の港で、ここには百按司の骨が朽ちて残っている。
残波岬の波はその時分から、今に至るまでこの島の女たちが、眺めては泣くべき波であった。

柳田国男は詩人から出発した民俗学者だったから、文章が美しいのは当然として、この項に “恩納なべ” という沖縄の女流詩人の名前が出てきた。
わたしには沖縄の方言なんかわかりようがないけど、彼女の句碑に彫られた歌を、ネットの助けを借りて訳してみた。003_20220403135201
恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがたなさな
(恩納岳の向こうの あなたの住む島 山を押しのけて こっちに引き寄せたいわあ)
訳が現代的すぎるかもしれないけど、句碑に彫られた彼女の横顔イラストも、コミック風で現代的だからちょうどいいのではないか。
彼女についてもっと知りたい人はここをクリック。

この項には、ほかに護佐丸、阿麻和利(あまわり)というふたりの武将の名前が出てくる。
沖縄にも14世紀中頃から、地方の按司(あんじ=豪族)たちが3つの勢力に分かれて覇権を争った、三山時代(北山、中山、南山)という戦国時代があった。

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当時の勢力図については地図を見てもらうことにして、そんな闘争の中からようやく沖縄を統一したのが、中山按司の尚巴志(しょうはし)王だった。
ちなみに琉球王朝に尚家という血統はふたつあって、ここに書いたのは古い時代の第一尚家、明治の廃藩置県で整理されちゃったほうは第二尚家というそうだ。
護佐丸、阿麻和利のふたりは尚巴志の部下として、戦雲に乗じてのし上がった軍人であり、策略家でもあったけど、しょせん両雄が並び立つことはできなかった。

沖縄では城のことをグスクといい、いちばん有名なグスクは那覇市にある首里城で、ここは覇権闘争に勝利した琉球王の尚巴志が本拠地にした城である。
那覇市とその周辺にあった城は、太平洋戦争で破壊されたものが多いけど、本島の各地にはほかにも古い城の遺跡がたくさんある。

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わたしは2008年に、沖縄本島の北部にある今帰仁城(なきじんグスク)を見学した。
今帰仁城は国指定の史跡であり、ユネスコの世界遺産にも登録された16世紀ごろの遺跡で、本島の北部にあったために太平洋戦争の戦禍からはまぬがれ、石垣などもわりあい築城当時のすがたを留めているようである。

今帰仁城は北山按司の勢力圏だったけど、護佐丸に攻められて落城し、尚巴志王の覇権を確実にしたところだった。
殊勲を立てた護佐丸は北山鎮めの要として尚巴志に重んじられたものの、やがて同じ尚巴志配下の阿麻和利と対立することになる。
ふたりの武将の対立は、護佐丸が滅ぼされることで決着した。
読谷山にいた間は護佐丸も安泰であったが、いかに堅固の要塞でも、中城はあまりに勝連の城に迫っていた。
それ故に終に好雄阿麻和利と、両立することができなかったのである(海南小記より)

国破れて山河あり、城春にならずとも、沖縄では草木はつねに深い。
戦国の闘争だけではなく、太平洋戦争という特大の惨禍によって、沖縄の古城のほとんどは灰燼に帰した。
いま残るもの、あるいは復元されたものは石垣だけというのが多いけど、かっての栄華をその遺跡から偲んでみよう。

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首里城はまえに紹介したから飛ばして、まず「海南小記」に書かれた浦添城だけど、ここは那覇市内にあるから、当然のごとく太平洋戦争で木っ端微塵になり、現在は石垣だけが再建されて公園になっている。
柳田国男の記述によると、浦添城からは東西の海が見えたというから、ストリートビューで確認してみた。
現在はビルや民家が建て込んでおり、排気ガスも多いので、海はちょっと見えにくい。
しかし海までの距離は、両側ともせいぜい4、5キロしかないから、戦前のここからは珊瑚礁の海がきれいに見えたことだろう。
“旧城の花”の項は、浦添の南の芝生には、盛んに大葉酢漿の花のみが咲いているという言葉で締めくくられている。
大葉酢漿(オオバカタバミ)という名前のカタバミはないけど、これはわたしの団地の花壇にも咲いているムラサキカタバミのことではないか。
マルタ島にたくさん咲いていたオオキバナカタバミは、わりかし新しい外来種のような気がするし、大きな葉のカタバミというとムラサキカタバミのほうが一般的なので。

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護佐丸という人は築城の名人とされ、彼の築いた城で有名なのは、三山時代に北山監視のための築城された座喜味城と、彼がライバルの阿麻和利を牽制をするために築いた中城(ナカグスク)城だ。

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こちらは阿麻和利の居城だった勝連城の遺跡。

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沖縄にはほかにも、玉城、具志川城、三重城などの遺跡がある。
具志川城は本島最南端の喜屋武岬にある城。
三重城は那覇港の近くにある海に突き出した海堡で、薩摩軍が進出してきたとき、ここから大砲を撃ったという。

合戦や太平洋戦争で建物が消失したせいもあるだろうけど、沖縄の城はどれも日本の城とはだいぶかたちが違っていて、天守閣がなく、長い石垣がくねくねと続くのが特徴だ。
石垣に銃眼が見当たらないのは、築城当時、沖縄ではまだ銃が普及してなかったせいだろう。
加藤清正の作った熊本城は、すでに火縄銃が普及したあとに作られた城だから、銃に対する備えも万全だった。

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わたしは熊本城を見学に行ったとき、塀の内側に塀をつらぬく奇妙な足場を発見して、何に使うものか尋ねたら、いざ合戦のさい、足場の上に板をしいて、射撃手がその上から外にいる敵を撃つためのものだった。

奄美大島や沖永良部島を経由して、薩摩藩の軍船が沖縄本島にすがたを現したのは慶長14年3月25日のことだった。
薩摩藩にかぎらないけど、戦国の統一期を体験していた日本の侍は、火縄銃などの火器を豊富に揃え、野戦、攻城戦にも練達していたから、沖縄という小さな島だけで、井のなかのかわずだった琉球人の歯の立つ相手じゃなかった。
彼らは今帰仁城に無血入城を果たしたあと、たちまち首里城に迫って、そのころの国王だった尚寧王を捕虜にした。
ここから笹森儀助が探検をした明治維新まで、さらには太平洋戦争でぼこぼこにされるまで、沖縄の苦難の歴史が続くのである。

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