沖縄/針突(ハジチ)
儀助が汽船大有丸で、つぎの目的地宮古島へ向かうために那覇を出航したのは、明治26年(1893)7月5日のことだった。
那覇を出港するとまもなく慶良間諸島のわきを通っているけど、ここは珊瑚礁が美しいので、現在はダイバーに人気の潜水スポットになっている。
ということは浅瀬が多く、航海の難所ということでもあり、大有丸の船長は、こことあしこに灯台が必要なんですけどと、また儀助に陳情を始めてしまう。
儀助は座間味島の阿護湾を遠望して、この湾は三方を島にかこまれた天然の良港だから、台風のときなど、船が避難するのに都合のいい場所だと書いていた。
慶良間海峡は、外国に占領されたら厄介なところであるとも書いているから、彼の仕事は軍事偵察も兼ねていたのかも知れない。
日清戦争が始まるのはこの翌年である。
やがて右舷に八重干瀬(やえびし)が見えてきた。
八重干瀬というのは春の大潮のとき、海面に巨大な珊瑚礁がすがたを現すので有名な観光スポットだ。
儀助の旅では季節が違うから全貌は見えなかったかも知れないけど、わたしは20年ほどまえの夏に宮古島に行って、この珊瑚礁を見物したことがある。
船に乗って八重干瀬へ行くとき、陸上に、てっぺんに金魚のようなものを乗せた高い鉄塔があるのが見えた。
なんだいあれはと訊くと、船長の返事では、風力発電の風車だったんですが、台風で羽根がみんな飛んでしまってと。
沖縄電力の見積もりが甘かったのか、あらためて沖縄の台風のものすごさに瞠目したけど、最近では台風にさからってもムダというわけで、可倒式の風車もあるらしい。
わたしが八重干瀬に行ったのは9月で、大潮ではなかったけど、季節が違っても珊瑚礁は同じところにあるわけだから、簡単なシュノーケリングでいつでも見物できるのである。
そのときは水中カメラがなかったから、海中の写真は去年の暮れの西表島のものだ(海のなかの景色はどこでもそんなに変わるもんじゃない)。
ここではマンガチックな紋様のモンガラカワハギがたくさん見られたっけ。
珊瑚礁に乗り上げれば、むかしも今も船は座礁することになっている。
大有丸は慎重に宮古島の張水港に向かった。
港には島民数百人が集まってなにやらおめき叫んでいた。
大丈夫かなあと儀助らは心配をする。
じつはこのすこしまえに、明治政府による古い制度の改革があって、特権を奪われることになった旧士族たちが、島民を集めて決起集会をしていたのだった。
そんなところへのこのこ上陸したら、政府のまわし者とみなされてぶん殴られるんじゃないか。
儀助の本によると、宮古島は沖縄の中でもとくに気の荒い人が多いそうである。
そういわれてみると、ここでは明治12年に日本政府への不満から、サンシー事件という暴動が起こっていた。
暴動の発端は特権を奪われた旧藩の士族が、島民を焚きつけて日本政府の命令は無視することに衆議一決していたのに、裏切り者が出たので、その人間をリンチして殺してしまったというものである。
鎮圧のために軍隊を派遣しようかと考えた日本政府は、まだ新制度が発足して間もない時期なので、沖縄県民の反発を招くだけと悟り、警官隊による首謀者の逮捕と裁判だけで、法治国家というものはこういうものだと知らしめるだけですませた。
司馬遼太郎の「街道をゆく」を読むと、宮古島は多少でも遠洋航海に向いた舟が最初にできた島だという。
島民の気が荒いのはそのせいかどうかわからない。
ぶん殴られるようなことは起こらず、儀助たち一行10名ほどは、坪田という本島人の経営する料亭に泊めてもらうことになった。
ここは正式な旅館ではなかったけど、当時ほかに泊まれる宿はなかったのだそうだ。
料亭だから夜になると酔客が大騒ぎをする。
安眠妨害だなとぼやいてると、夜中の12時に鐘が鳴って、客はみんないっせいに引き上げた。
これは風紀を守るための島の取り決めで、そんなことは知らない儀助は、鐘の音にすわ火事か押し込み強盗かと、たまげて飛び起きた。
到着した日に儀助はさっそく視察に出かけている。
宮古島はお皿をひっくり返したようなぺったんこの珊瑚礁島で、水が乏しいから稲作には向かず、畑ばかりだったという。
その畑も沖縄本島に比べると、だいぶ手抜きが目立つと、儀助の観察は手きびしい。
いまでは宮古島にある池間島、伊良部島、来間島の三つの島には、そのすべてに橋がかかっているけど、儀助のころにはそんなものはなかった。
ちなみに来間島の橋は、日本一長い橋なのだそうだ、農道としては。
舟で伊良部島に渡ってみると、ここでも決起集会が開かれていた。
学校の職員に話を聞くと、宮古島には高等小学校、尋常小学校と二つの学校があり、しょっちゅう島民が集会を開くので、そのたびに子供も学級閉鎖に追い込まれているという。
困ったもんだなと思ったけど、へたに口を出してぶん殴られてもたまらない。
ここでは明治26年の島民の総数が3万5千人あまり、学童の数は300人ぐらいということをおぼえておけばいいだろう。
儀助は宮古島のまえの役所長・吉村貞寛氏を訪ねて、彼が取り組んでいる製糖業の未来について話を聞いた。
どうですか、仕事の具合は。
それなんだけど、宮古島では人間の頭割りで税金を徴収する人頭税(これについてはあとでまた書く機会があると思う)という制度があって、反物や、米、粟のような穀物で税金を納めるのが普通ですが、ほかにもナントカ税、カントカ税と、役人がいろんな名目で税金をしぼっておりましてね。
一般島民の困窮ぶりはひとかたじゃないもので、砂糖で税金を払えるよう、わたしは島に新しい産業を興そうとしとるんですが、島民がまだサトウキビの栽培に慣れていないもんで、できた砂糖は粗製乱造、もうちっと時間がかかりそうですな。
なるほどと、儀助は帰って上申するつもりで報告書にメモした。
あ、もうひとつと、吉村氏はいう。
この島には名子(なあぐ)という階級制度があって、上位の士族や役人が下位の島民をこき使うのが当たり前になっとります。
それはけしからんことでと、儀助はこれも報告書にメモした。
つぎに反物工場の視察に行ってみた。
わたしが反物について詳しいわけがないので、ここは儀助の本に書いてあることに、まただぼらでも付け加えながら話を進める。
儀助の視察した工場では、小さな窓しかない掘っ建て小屋で、女工たちがコットンコットンと機織りをしていたといい、小屋の大きさは、また尺貫法の単位が出てきてわかりにくいけど、3間×4間から4間×6間まで各種あって、機織り機をならべた小屋や藍染め専門の小屋もあったという。
小屋の入口の広さはこれこれ、周囲の壁には茅や小竹の類を使い、機織り機の足もとに蚊取り線香が焚いてあったと、儀助の視察はあいかわらず細かい。
宮古島の反物は「宮古上布」といって、苧麻(ちょま)という麻の繊維で作られた藍染製品で、沖縄で有名な紅型ほど派手ではなく、わたしみたいに和服に縁のない人間にもひじょうに魅力的に見える。
これって織り上げるのにどのくらい時間がかかるのと、儀助が女工のひとりに素人っぽい質問をしてみると、1日かけて6寸(18センチ)ぐらいがせいぜいで、注文があっても、上等の品物だと完成までに半年はかかりますとのこと。
今みたいに自動織機のない時代、反物の名産品といえば、手間のかかることはみんなこんなものだったのだろう。
宮古島でもよい布を織る女性は尊敬の対象で、「宮古上布」は税金として代納することもできた。
わたしは西表島のホテル・パイヌマヤの入口にある機織り工房で、沖縄の織物に魅せられて本土から移住してきたという女性に会ったことがある。
なかなかすてきな人だった、ということはどうでもよくて、去年の暮れに西表に行ったときまた寄ってみたら、コロナのせいで客が激減したせいか、この工房も閉店してしまっていた。
人の運命はわからないものだ。
柳田国男の「海南小記」の中の“島布と粟”という項にも、宮古島で布を織る女性にふれた話がある。
20桝の紺縞になると、1反が並の白布の7反分にも評価された。
それ故に名人の機の傍には、若い娘たちが多く見習いにやってきて、次の代の苦労の下拵えをした。
宮古は今でも藍染の布を誇りとする。
およそこの島で手の真白な女などは、どこの家でも嫁に取ろうとしなかった。
女性の手が黒いのは藍染めに従事するからだけではない。
沖縄の女性には手のひらや手首に針突き(ハジチ)という入れ墨をする風習があって、儀助の本でもこれについて詳しい記述がある。
宮古の女性のハジチは織物の模様と同じものが多く、これは女性がいかに織工としてベテランであるかの証明で、彼女たちにとっては勲章に等しいものだった。
しかしいいことばかりじゃない。
布織る女たちの境遇は、元は一つしか改良の途がなかった。
若くかつ面影の清らかな間に、沖縄から来る高い官吏に愛せられ、子を生んでそれが男であったら、後に士族になることができたのである。
柳田国男の文章はさらに、宮古諸島は人口が5万人で、毎年1万個の酒甕が輸入されるけど、男がこれをみんな消耗するので、女性の苦労は絶えることがないと続いている。
宮古上布が女性たちを過酷な境遇におとしめていたことも事実だったのだ。
ハジチもすたれて、いまでは入れ墨をする女性はいなくなったと書こうと思ったけど、最近はまたタトゥーがブームだ。
わたしは以前、列車に乗っていたら、目のまえのタンクトップの女の子が、胸の割れ目のすぐ上にタトゥーをしているのを発見し、写真に撮ろうとして一緒にいた知り合いに止められたことがある。
ホント、わからん世の中になったものだ。
若い女の子が胸の割れ目に幾何学模様を彫るくらいなら可愛いけど、正直いってわたしは入れ墨なんか好きじゃない。
伝統だとか女性のほまれだとかいっても、おばあさんになって入れ墨だらけの両手を見せられたら気持ちわるいだけである。
| 固定リンク | 0
コメント