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2022年4月26日 (火)

沖縄/開墾地

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石垣島では徳島出身の実業家、中川虎之助という人物が開墾地を経営していた。
この画像が虎之助さんで、阿州の人とあるから徳島県出身の実業家である。
沖縄で砂糖農場を経営したあげくに失敗して、台湾で再起を計って成功したという波乱万丈を絵に描いたような人だ。
本人は帰京中だったので、儀助は代理人にいろいろ状況を聞いてみた。
うんと儲かっていますとはいわないのが経営者の習性なのかもしれないけど、問題点がいくつかありましてという。
この開墾地ではよく火事が起きます。
原因を尋ねると、これは沖縄県人とよそから来た開墾者の軋轢によるもので、トラブルのあげくに、開墾者の建物に火をつけたり、サトウキビを切り倒すようないやがらせがあるのだそうだ。
アメリカで白人の開拓移民とインディアンが衝突したようなトラブルが、ここ沖縄にもあったらしい。

ほかにも、この年はサトウキビに「コウリョウ」という害虫が発生してましてという。
カイコのようで縞模様のある虫だというから、どんなやつか調べてみた。
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この画像がコウリョウで、気色わるいイモムシであった。
イモムシのせいかどうか、資本が底をつき、虎之助さんが本土にもどったのは、新たな社債を募集するためだったのである。
こんなことを聞くと、江戸時代にすでに似たような制度の経験があるにしても、明治時代の日本はすでに欧米にまけない資本主義の国になっていたことにおどろいてしまう。
夏目漱石の「吾輩は猫である」にも株に熱中する人物が出てくるから、資本主義をおぼえたばかりの国で投資が過熱するのは、歴史的必然なのかもしれない。
日本より短期間に資本主義国になったのが中国で、あの国の人民はとにかく金儲けが好きだから、ほうっておくと猫も杓子も投機にのめりこんで、損した得したが日常になってしまう。
それではマズイというので政府が規制をすると、今度は社会主義のままだと悪口をいわれる。
そういう気のドクなのがいまの中国なんだよ。

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儀助は経営の収支についてしつこく訊いた。
1反の畑から砂糖8俵ぐらいの収穫があります。
むかしは砂糖を木の樽で運んでいたけど、樽はひとつでこれこれの費用がかかるのに比べ、カヤで編んだ俵ならこれっぽっちで済みますんで、砂糖の値段が下落してもなんとかやっていけるだろうと。
この年は18俵ぐらいの収穫が見込めますとも。
ほかにサトウキビの苗の値段は〇本でいくら、肥料代がいくら、農夫を◯人雇って賃金がいくら、畑で使うウマの輸送費がこれこれ、その餌代がしかじかと、儀助の調査はあいかわらずマルサの女なみ。

このあと儀助たちは宿にもどり、翌日も役場や警察署、織物工場、農事試験場などを見て歩いた。
あちこちで先に本土から派遣されていた役人や警察官から、不穏当な経済システムや慣習が耳に入ってくる。
石垣島は沖縄県庁の統括下にあるけど、役所の下に蔵元という支所があって、そこで128人もの人間が働いていますという人がいた。
そのため役所の人間は少なくてすむけど、仕事の効率を考えると不経済きわまりないので、この点は改める必要があるでしょうと。
そうだねえ、尻尾が大きすぎると、動物も自由に動けないものなと儀助。

明治26年には、本土では維新の改革がだいぶ軌道に乗っていたけど、沖縄ではまだまだ改めるべき問題点がいくつもあった。
琉球時代の沖縄というのは、どっちかというと中国や韓国に似た政治システムの国だったようだ。
これは民族の所属ではなく、あくまで政治のことだけど、皇帝や貴族に搾取され、庶民は重税にあえいでいた古い王朝国家ということである。
もっとも琉球にかぎらず、中国の中華思想に染まっていたアジアの国はどこも似たりよったりだったから、日本が沖縄で積弊からの脱却を図ったというのは、わが国がいちはやく脱亜して、近代国家になったことの証明でもあるだろう。

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まだ琉球王朝の時代、石垣島には赤蜂という英雄がいた。
重税が度を越すと、そんなもの払えるかと考える不届き者が出てきて、まわりも払いたくないのはいっしょだから、ガスが集まって星になるように、いつしかそこに英雄が誕生する。
赤蜂は琉球王朝の命令に従わず、貢献をこばんで討伐軍に殺されたけれど、八重山ではいまでも島民から英雄として慕われているというから、平安時代に日本の北関東で、新天皇を名乗って謀反した平将門みたいな人だったらしい。
歴史はつねに勝者によって書かれるので、彼は謀反人ということになっているものの、柳田国男の文章では
 静かに考えてみると、赤蜂本瓦も八重山の愛国者であった とある。
もともと波照間島の人で、石垣島に上陸した場所に、銅像と記念碑が立っている。

この夜になると、過去22年間(中途半端な数字だけど儀助の本にはそう書いてある)なかったようなものすごい暴風雨がやってきた。
宿屋に泊まった人たちは、降りこむ雨風に衣類や荷物が水びたしになったものの、宮良殿内に泊まっていた儀助に被害はなかった。
石垣島から数キロしか離れていない竹富島でもなんともなかったそうだから、このへんは台風に慣れている人とそうではない人の違いだったかも。

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この暴風雨のなか、汽船大有丸の船長は、操船の匠とされる糸満人を雇い、危険を犯して船にもどった。
糸満人というのは沖縄本島糸満市の人のことで、代々漁師を本業としていて、船を操ることでは他に抜きん出ているとされる人たちである。
日露戦争のさい、八重山の近海を北上してくるバルチック艦隊を発見して、本土に通報したのが糸満人だったという。
ただし連絡が東郷平八郎のもとに届いたときには、もう海戦は終わっていたとかなんとか。
司馬遼太郎は「街道をゆく・先島紀行」のなかでわざわざ糸満に立ち寄っており、興味をひかれたわたしも去年の暮れに立ち寄ってみた。
さすがはウミンチュの街で、未来の漁師を育成する水産高校が大きいのに感心したくらいで、ほかはとくに印象的な町ではなかった。

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儀助が旅をしたころ、台風などで船を避難させる場合、八重山では西表島の船浮湾がもっとも安全な場所として知られていた。
船浮というと、船でしか行くことのできない「陸の孤島」として有名で、わたしが西表に行くたびに泊まっている部落ではないか。
ここには道路が通じてないがら、行こうと思ったら1日5本の連絡船しかなく、イリオモテヤマネコが初めて発見されたのもここというくらい辺鄙なところである。
ヤマネコは数が少ないから、行けば誰でも見られるわけではないけど、去年暮れの訪問では、セマルハコガメやオオコウモリなどの天然記念物もかなり数を減らしていた。
自称ナチュラリストのわたしの憂鬱は大きい。

儀助たちがぬれたものを干しているとき、沖縄県庁を辞めたばかりの田村熊治という人物がやってきた(写真は見つからなかった)。
彼も八重山で開墾事業を興そうとする新進気鋭の実業家だったから、このころの沖縄はひと山当てようという人間にとって、ひじょうに有望な土地に見えたらしい。
この前年には彼以外にも高知県出身で開墾を始めた人間がいて、労働者の争奪戦になり、賃金が高騰して起業家たちを困らせたけど、けっきょく高知県のほうは事業に失敗して引っ込んだ。
そんな話や開墾地の経営状態について、儀助はまたねちねちと訊く。
山林では主としてコーヒー、山藍を植え、原野にはサトウキビを植えるとのこと。
南方系の植物としてコーヒーを育てようというのはいいアイディアだけど、明治26年にコーヒーがブームというのは、日本人の新しモノ好きに驚かされる。

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翌日には朝8時に出発して、刑務所の職員らと島の南岸を視察に出かけた。
目的地は白保というから、離島ターミナルから現在の石垣空港に向かう途中である。
白保というとなんとなく白砂の浜を想像するけど、じっさいにはこの浜は写真でわかるとおり、タイドプールのある岩ばかりの海岸だ。
それでも風光はなかなかよろしいところで、石垣島に住むわたしの知り合いは、最初家を買うのにこのあたりも候補だったそうである。
けっきょく北部の川平湾に近い家を買って、いまではすこし後悔しているようだ。
彼の若いころはまだ沖縄の離島というと、女の子たちのあこがれの対象だったのに、その後の景気の変動やコロナによる観光客の激減などで、わたしとほぼ同じ年の彼は、いまも嫁さんももらわず購入した家にひとり暮らしだ。
彼もまた、自分一代のあいだに、世の中がこれほど変化するとは思わなかった被害者のひとりなのだろう。

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儀助たちが1里ほど行くと、石垣島第一の大河である宮良川が流れていた。
この川は標高526メートルの於茂登岳より発し・・・・ま、山が驚くほどの山ではないだけに川も大河というほどのものじゃないけど、現在のこの河口はカヌーやカヤック愛好家のベースキャンプになっている。
この川の左岸に監獄の候補地があったらしいけど、それがどうなったのかわからない。

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午後11時、白保村(現在は石垣市の一部)に着いた。
この役場も新しく、白保村とまえに書いた川平村の役場は、石垣島ではめずらしい新しい建物だったそうである。
戸数は121で、役場の職員は12人いたとあるから、明治時代の石垣島では大きい村だったろう。
この村は作家の椎名誠が「うみ・そら・さんごのいいつたえ」という映画を作るためにロケハンしたところで、いまでも公共施設や民宿などでその映画ポスターを見かけることがある。
映画について YouTube に上がってないかと調べてみたら、見つかったのは予告編だけだった。
ま、べつに残念とは思わないけど。

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儀助は白保村から近い田村熊治の開墾地を見学した。
場所は現在の石垣空港とその周辺らしく、石垣島に到着した観光客のだれもが最初に目にする、サトウキビ畑や牛舎の点在するのどかな農牧地帯である。
明治時代には天然のままの広々とした原野で、こんな開墾にむいた土地を遊ばせておくのはモッタイナイと儀助は書いていた。
現在、そんな儀助の心配は杞憂になったけど、歴史は変転を繰り返し、いまでは八重山全体が、中国や韓国からの土地買い占めにおびえる時代にまでなったようである。

石垣島から儀助は波照間島に行こうとして悩んだ。
現在の波照間島にはエンジンつきの連絡船が就航しているけど、明治時代には風まかせの船しかなく、いい風が吹かないと往来もままならないところだったそうだ。
じっさいにまえの八重山支庁の所長が、波照間を視察に行ったとき、帰りは適切な風が吹かず、そのまま4カ月も島に缶詰になったことがあるという。
現代ではいくらなんでもそういう状況は払しょくされた。
と思ったら大間違いで、わたしは去年の暮れに波照間島まで行って、そこでわたしも缶詰になるところだった(この件は後述)。
儀助はけっきょく波照間島に行くことを断念した。

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