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2022年5月26日 (木)

沖縄/珊瑚と疫病

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西表島に到着した翌々日、儀助は県庁職員の後藤なにがしとともに鳩間島に渡った。
ご覧の地図が鳩間島で、西表島の上原港から5キロほど沖にあり、朝の8時にサバニで出発して、1時間半で到着したという。
とちゅうで刈り取った稲を山のように積んだ船をいくつも見た。
あれはなにをしてるんだいと後藤職員に尋ねると、鳩間島は珊瑚礁の島なのでマラリアがありません。
島民は水の豊富な西表島で稲作をし、収穫した稲をわざわざ鳩間島へ運ぶのです。
このへんは人頭税なので、田んぼがあろうがなかろうが、15歳以上のおとなは決められた量の年貢米を納めなけりゃなりませんからね。
八重山では西表島まで通勤で農業をしている島民は多いですよとのこと。

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わたしは初めて西表島に行った1983年に、この島をま近に見て、珊瑚礁の島というのは、天候次第でぜんぜんべつの風景になってしまうものだということを痛感した。
そのときは晴天で、コバルトブルーの海の中心にぽっかり浮かんだ鳩間島は、まるで化粧品会社のポスターのように美しく見えたのである。
その後西表に行くたび、鳩間島を見られるようできるだけ上原航路で行くことにしてるんだけど、なかなか好天にぶつからず、島がそんな美しく見えたことがいちどもない。

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鳩間島のついでに、この島の近くにあるふたつのダイビングポイントを紹介してしまう。
ひとつは鳩離(はとばなり)島という小さな無人島で、この海域でダイビングをすると、よくこの島に上陸して昼メシにすることがあるので、知っている人がいるかも。
もうひとつはバラス島といって、これは草ひとつ生えていない完璧に砂だけの島である。
海の上から見ると砂だけでも、このあたりの海底はサンゴやソフトコーラルの花畑で、ひじょうに美しい。
4枚組の写真はこの海域でダイビングをした1983年のもの。
そんな私的な写真を載せるなという人もいるかもしれないけど、これはわたしの私的なブログであることをお忘れなく。
わたしにとってはかけがえのない思い出なのだ。

儀助が旅をしたころの鳩間島の人口は173人というから、西表島の全人口1,214人に比べても、小さい島の割には多いほうだった。
マラリアがないだけでこれだけ違うのだ。
ここで1時間半ほど聞きとり調査したあと、午後から海が荒れるといわれ、儀助は大急ぎで帰途についた。
油紙の合羽をひっかぶった儀助は、荒天の海でびしょぬれになり、それでもなんとか無事に上原港へ舞いもどった。
下の写真は上原港で、ここから上陸すると目の前に数軒の民宿がある。
ハイシーズン以外は、主人が副業(本業?)をしていて、宿のほうは留守のことが多いから、飛び込み客は注意が必要だ。

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わたしはここで「カンピラ荘」という民宿に2度ほど泊まっている。
この宿はまじめに営業していて、主人が留守ということはないから、シーズンオフでも安心して泊まることができる。
そして現代的に清潔でもある。
儀助が泊まった上原村の役場は、わりあいいい感じの建物だったけど、ノミやダニがいて、彼はそれに食われ、カユイカユイとぼやきながらの旅だった。

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儀助は視察のため島の東部に向かい、夕方の5時に高那村に着いた。
高那村というのは、かって西表でゆいいつの温泉を売り物にしていたホテル・パイヌマヤ(南のネコという意味だそうだ)があったあたりである。
このホテルはジャングルのなかのようなユニークな環境にあって、わたしもいちどは泊まってみたいと思っているんだけど、西表では高級なほうの部類なので、まだ泊まったことはない。
県道からこのホテルに入るかどに染色の店があって、魅力的な女性が働いていたということはどこかで書いた。
そんなことはどうでもいいんだけど、去年の11月に寄ってみたら、コロナのせいで店は営業してなかった。

高那村は戸数13、人口41人の貧しい村で、それでも役場の支所があり、こういうところにはかならず女性の小間使いが働いていた。
全体に島内に女性の少ないところだから、これも女性の雇用機会均等法のせいかしらと、明治時代に儀助がそう思ったかどうか、たぶん思わなかっただろうな。
どうしてよそから嫁をとらないのと訊くと、ここは疫病の島だからだれも来たがりませんとのこと。
儀助が見てまわると、マラリアのせいでこの村の西南に、やはり住人の死に絶えた廃屋が数軒あった。

そんな悲惨な村で儀助はまたケシカラン徴税の仕組みを聞いた。
ここでは正規の年貢米以外に、村民は運賃米という役人へのワイロに相当する米まで納めさせられていて、儀助の記述では、そのために男は生涯耕作してもサトイモしか食えず、女は生涯反物を織ってもボロをまとうしかなかったとある。
明治政府は種々の改革を断行し、これは当時のよその国の政治と比較してもよくやっているほうだったけど、現場ではまだ不正がまかり通っていたのだ。
なんとかしなくちゃいけないと、儀助はしっかりチクリ帳(報告書)に書いた。
彼の報告が功を奏したのか、儀助の旅の10年後に新税法が施行されて、島民はやっとこの仕組みから解放された。

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高那村のあたりでヨナラという地名が出てきた。
儀助に同行している後藤職員は、以前に小笠原で製塩業を経営した経験があり、ここは塩田にするのにふさわしいところですねという。
それはたぶん地図上のウ離島とのあいだあたりのことで、3千円ほどの資金を投じるだけで、150町ぐらいの塩田が拓けそうですという。
しかし儀助は投機や経営に興味がなかったらしく、そのまま通り過ぎた。
夏目漱石もそうだったけど、明治時代の日本人には金儲けをいやしむ風潮が残っていて、弘前藩士の末裔である儀助もそういうタイプだったのかも知れない。
現在のダイビングをする若者には、西表と小浜島とのあいだの「ヨナラ水道」は、マンタの出るところとして有名である。

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高那村で一泊したあと、儀助たちは雨のなかを出発し、野原村を経由して古見村へ向かった。
古見村は租納以前に島の行政の中心だったところで、前良(マエラ)川、後良(クシラ)川という二つの川にはさまれた場所にあり、康熙54年(1715)製という石造りの立派な橋がかかっていたという。
康熙というのは中国の元号だから、そのころの西表島も琉球王朝のもとで、あっちについたりこっちについたりしていたらしい。

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島の中心だったころは人口700名以上の大きな村だったのに、儀助が行ったころは140人ほどに減っていた。
村の村長は相撲取りみたいに太っていて、重ね芭蕉布に支那錦の帯をしめた豪華な礼装で儀助を迎えた。
なかなか学のある人間で、本土語(大和語)を話すことができて、八重山ではいちばん上等な役人に見えたという。
島民の悲惨な境遇を聞いていた儀助は、なぜこの村では人口が減り続けるのか、どうして貧しい島民のために働かないのかと村長に問い正した。
わたしは給料をもらって家族を養っているだけで、島民を増やす方法なんて知りませんと、村長はしゃあしゃあとして答えた。
笹森はおおいにいきどおってまたチクリ帳に書く。
その後村長がクビになったかどうかはわからない。

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古見村ではサトウキビと山藍、牧場の家畜などの経済調書もあらためた。
ウシの数では、オス牛が89頭いるのにメス牛が26頭しかいないことに気がついた。
ウシを増やしたいならメス牛のほうが多くなければならない。
現在でもそうだけど、八重山のウシは高級牛として知られていたので、どうしてこれをもっと増やして、島民の家計の足しにしないのかと尋ねてみた。
後藤職員にいわせると、県営牧場の主任は安全な島にいて、風土病がコワイものだから西表島まで来ません。
ほかにも一種のカルテルのようなものがあって、沖縄本島や石垣島の牧場主は、西表の島民が自主的にウシを飼うのをこころよく思ってませんのでという。
つねに庶民の味方である儀助は、不合理なことだと考える。

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古見村についてさらに調べてみると、以前は存在していた学校も廃止、病院は祖納にあったけど、ここも医師がいなくて廃院になり、あとは年に1回、医師の巡回があるかどうかだという。
これじゃ隔離島じゃないかと儀助の顔はくもる。
古見村の近くの村では、人口は男4人、女5人の都合9人で、そのうちの4人はよその島から強制的に移住をさせられた者だった。
15歳以下の子供はひとりもいなかったから、少子高齢化どころじゃない、この調子では村の消滅は確実だと儀助は思う。

翌日は小浜島に渡ろうとして、風雨のため断念し、島の南東部にある仲間村に向かった。
仲間村は仲間川の河口にあって、河口の対岸には、石垣島からの連絡船が着く大原港がある。
冬は海が荒れるので、連絡船は上原よりこっちに着く場合が多い。

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わたしは去年の11月にこの村にある「花ずみ」というカフェで食事をした。
小さい店だったけど、店内に芭蕉布や民芸品が展示してあって、凝った造りが興味深かった。
料理のほうはチャーハンで、挽肉の入った料理はわたしはニガ手である。

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この村は東、西、南を川と海にかこまれていて、往年の屋敷跡が多数あった。
琉球王朝はマラリアの恐ろしさに無知で、新城島や黒島など、近くの島から移民をつぎつぎと送り込んだから、ここも一時はにぎわったらしかった。
屋敷跡はそのころのもので、そしてやはりマラリアで荒廃したのである。

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村役場で病人はいないのかと訊くと、例によってイマセンという。
本当かいと、一軒ずつ当たってみたら、寝たきりの老人のいる家があった。
看病をしていたおばあさんにキナ丸を与えると、ふたりは手を合わせて儀助を拝んだ。
とにかくマラリアの猛威はすさまじい。
仲間村の近くに耕地に向いた草原があって、1年ほどまえに屈強の農夫15人で開墾を始めたところ、たちまち全員がマラリアで倒れ、事業は中止になってしまった。
西表には炭坑が多く、三井財閥のような大手の資本も入ったことがある。
坑夫として、囚人も含めた300人もの人間が送り込まれたこともあるけれど、ここもつぎからつぎへと風土病に倒れて、事業は中止のやむなきに至った。
ビキニの姉ちゃんたちがキャアキャアと遊びたわむれる現在の西表島とは、想像もできない時代のことである。

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