沖縄/竹富島
笹森儀助は石垣島を視察したあと西表島に行くことになるけど、そのまえに彼の本には出てこない竹富島に寄っていこう。
わたしが竹富島のことを知ったのは司馬遼太郎の「街道をゆく・先島紀行」によってで、これは作家が昭和49年(1974)に旅をしたときの紀行記だから、そこに書かれているのはいまから半世紀ちかくまえのことになる。
わたしが生まれて初めて沖縄(竹富島と西表島)に出かけたのは、「街道をゆく」よりも9年後の、昭和58年(1983)のことだった。
当時の竹富島の写真が残っていればいいんだけど、まだデジタルカメラなんてものもなく、紙焼きした写真やネガは、引っ越しを繰り返すうちどこかに散逸してしまった。
写真がないのは残念だけど、八重山の思い出はわたしの脳みそのなかでいよいよ美しさを増してきたようだ。
強烈な太陽に照らされた赤瓦の民家と集落のあいだの白い道、灰色の珊瑚の石垣の向こうにゆらぐ大きな芭蕉の葉、ハイビスカスやブーゲンビリアの花など、それまで外国に行ったこともなかったわたしには異次元の美しさだった。
竹富島は石垣島から連絡船で6キロほど先の海上に、カレーの皿をひっくり返したようなかたちで浮かぶ、周囲9キロほどの小さな珊瑚礁の島だ。
上から見ると両側が耳のようにとがったいびつな楕円形で、いちばん広いところで3キロちょい。
島内にタクシーもレンタカーもないから、若い観光客はレンタル自転車で、年寄りは牛車でゆるゆるとまわるのが一般的だ。
この画像はストリートビューで石垣島のほうから見た竹富島。
竹富島に行くには、わたしはひとり旅の場合が多いので、たいてい離島ターミナルのチケット売り場に行く。
すると、竹富島の桟橋にはいろんなかたちの船が着いているのに、いつも安栄観光か八重山観光の船である。
けっしてこの両社の船がボロいとかケチ臭いというわけじゃないけど、たまには双胴船にでも乗ってみたいのに、これまでそんな船に当たったことがない。
あ、この4枚組写真の右下は、たまたま乗り合わせた、もう南国ムードいっぱいでやる気むんむんの美人だ。
司馬遼太郎が行ったのは沖縄の本土復帰直後で、まだ沖縄旅行がめずらしかったころだから、竹富島のことを知っている人はあまりいなかっただろう。
しかしその後 “(日本の)天国にいちばん近い島” なんてキャッチフレーズで有名になり、アンノン族や、最近では「るるぶ」なんて本を持った女の子たちが大挙して押し寄せるようになったから、現在ではこの島を知らない人はまずいまい。
最近では島もずいぶん様変わりした。
わたしは司馬遼太郎が見た景色をかろうじて見ることができた世代である。
「街道を」のころのこの島は、周囲をギンネムの茂みにかこまれていて、上陸した作家と挿し絵担当の須田剋太画伯らは、桟橋から人家のひとつも見えないのに途方に暮れたとある。
わたしが行ったときにはまだその途方に暮れた景色がそのままで、島の中心に行くためには、桟橋から茂みのあいだの1本道をたどるような感じだった。
舗装道路なんかひとつもなく、道はサンゴの砂を敷きつめたベージュ色の素朴なものがあるだけだった。
現在では桟橋から島の中心部、あるいは外周に、舗装された立派な車道が出来ている。
美しい娘は強欲な官吏の所有になるのが当然だったように、これほど魅力的な島を本土の観光資本が放っておくはずがなかったのだ。
「街道を」を読むと、島内の申し合わせで、この島では家を新築するにもこまかい決まりがあったそうだけど、現在では島内にいまふうのレストランやカフェがあるし、島の東のはずれには星野リゾートという大きなホテルもある。
司馬遼太郎が泊まったのは高那旅館という宿で、ここで彼はひとりの青年と知り合った。
青年は沖縄で教師になるため研修中で、毎年この島にやってきて旅館の手伝いをするうち、いつのまにか宿の仕事を全部引き受けることになってしまって、本来の宿の主人であるおかみさんは洗濯だけをしていたという。
ちなみに「先島紀行」は1998年にテレビ映像化されており、顔を笑みくずしながら挨拶をして、沖縄人も本土の人間と共通の挙動をすると作家を感心させた高那旅館のおかみさんも、92歳のおばあさんになって登場していた。
教員志望だったというこの青年は出てこなかったけど、彼はその後どうなっただろう。
そのまま旅館にいすわっていればつげ義春のマンガのネタになりそうだけど、現在の高那旅館の経営者は高那姓の姉妹らしいから、青年はけっきょく教員になって、沖縄のどこかの島で教壇に立っているのだろうか。
いやいや、だとしてもそれから半世紀だ。
彼もとっくに定年退職をして、たまにはこの宿で働いたことを思い出しているだろうか。
わたしは高那旅館ではなく、まだインターネットのない時代だったから、ガイドブックでいろいろ調べてみて、南方の花の生垣に埋もれたような「泉屋」という民宿を選んだ。
去年の暮れに行ったとき確認してみたら、まだハイビスカスの生垣と、門のブーゲンビリアのアーチがそのままだった。
竹富島には赤瓦の特徴のある沖縄ふうの民家がよく保存されており、どの民家も屋根にシーサーという魔よけのお守り像を乗せている。
なんだか瓦屋さんか左官屋さんが、家を作る片手間に作ったようなものばかりで、その洗練されてないところがかえって素朴な民芸品を見ているようでおもしろかった。
とはいうものの、竹富島に瓦屋根が認可されたのは明治38年以降だというから、笹森儀助のころにはまだ茅葺き屋根ばかりで、これではシーサーも安置しようがない。
竹富島を沖縄の原風景とするのは、すくなくとも民家の様式としては間違いである。
わたしは泉屋で、沖縄の言語をコレクションしに来たという大学生と同室になった。
彼と話をしているとき、沖縄の街路を彩る赤い花について、ディゴの花がというと、デイゴですと訂正されてしまった。
小さいィか、大きいイかのほんのわずかな違いだけど、少しのことにも先達はあらまほしけれである。
こういう学術的な目的をもって来る人もいれば、わたしみたいに文学に影響され、クラゲみたいにただよってきた者もいる。
当時のわたしは初めて見る美しい島という以外に、竹富島についてなんの知識もなかったから、この宿のすぐとなりに、上勢頭亨(うえせどとおる)というお坊さんが民芸品を集めた喜宝院蒐集館があったのに、ちらりとのぞいただけで特別な感慨もなかった。
館長の上勢頭という人はわたしが行った翌年に亡くなってるけど、司馬遼太郎が行ったときはまだ元気で、作家と言葉を交わし、蛇味線で沖縄節を唄ってみせている。
泉屋にはほかに若い娘のグループが5、6人くらいいて、わたしは到着した翌日に近くの珊瑚礁までシュノーケリングに行った。
そのことをよく覚えているのは、女の子たちのグループと、みんなでワイワイいいながら出かけたのがとても楽しかったからである。
そして感心したのは海のなかの豊穣さで、ご飯つぶを撒くだけで、オヤピッチャという熱帯魚がわたしの手をついばむほどに集まってきた。
しかしそんな都会人からみると奇跡のような光景も、何度も行っていると確実に減っていることがわかる。
わたしは自分の旅ではぼんやりしていて、肝心なものを見逃す場合が多いので、あらためてストリートビューで島内をながめてみよう。
竹富島に興味を持った人がいちばん多く目にする写真が、島内でゆいいつの展望台である「なごみの塔」から撮ったこのアングルの写真だろう。
わたしの写真に独自のところがあるとしたら、わたし自身の自撮りになっていることか(塔の下で肩からカバンを下げているのがわたしで、撮影したのは友人である御曹司のO君)。
なごみの塔は1953年建立とあるから司馬遼太郎の旅のときにはもうあったはずだけど、作家はひとことも触れていない。
司馬遼太郎という作家は山登りがまったくダメな人なので、たかが4、5メートルの塔でも登るのを断念したのかもしれない。
そのかわり海抜48メートルの牛岡という山(丘?)を勧められて、やっぱり断念していた。
現代ではなごみの塔は老朽化のために登るのが禁止になっていて、島の東部にできた星野リゾートの展望台がその代わりになっているようである。
竹富島の観光は牛車でまわるのが一般的だけど、わたしが初めて行ったころ、そんなものがあったかどうか記憶にない。
司馬遼太郎の本にもひとつも出て来ないばかりか、どうもそんなものがあるという雰囲気でもないから、まだなかったのだろう。
水牛だけならわたしは西表島に渡ってから、アフリカみたいにサギを背中にのせて、農作業に使われているのを見たおぼえがある。
「街道を」の中に変わった植物がが出てきた。
変わった植物というと見たくなるのがわたしの習性だ。
これはハスノハキリ(蓮ノ葉桐)といって、海岸ではめずらしくない木で、桐というより、たいてい桑のようにひねくれた古木である場合が多い。
実はこんなへんてこりんな形をしていて、外殻が白蝋質でけっこう固く、むかしの沖縄ではこのなかにホタルを入れて提灯替わりにしたという。
ほかに「街道を」には“犬が見つけた井戸”のことが出てくる。
これがその「ナージの井戸」。
現在はたいていの離島にひねるだけで真水の出る水道が設置されているけど、井戸というのはむかしの離島ではひじょうに貴重なものだったので、神格化されている場合もある。
竹富島のこの井戸も御岳(うたき)として祀られているというから、発見したイヌが神さまになったのかと思ったら、神格化されているのはイヌの飼い主だそうだ。
イヌが文句をいったかどうかは知らない。
御岳で神事をつかさどるのは、沖縄では祝女(ノロ)といって代々女性が務めることになっており、「街道を」には神事のさいのノロに触れた箇所もあって、男どもを従えたその威厳はたいしたものである。
テレビ放送された「街道を」のころは、ノロもだいぶ近所の主婦なみになっていて、ふだんは民宿のおかみさんをやっていた。
現代はそういう時代である。
笹森儀助が旅をしたころ、司馬遼太郎やわたしが旅をしたころ、そして現代の若者たちが旅をするころと、竹富島はどんどん変わってゆく。
それぞれの人々にそれぞれの竹富島があるのだから、わたしが現代の竹富島は堕落したと嘆くのはたいていにしておこう。
伝説の美人オクマのようなおばあさんを見て、あの人も若いころは美しかったとため息をついてもむなしいばかりだから。
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