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2022年6月 8日 (水)

沖縄/南風見

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儀助たちは仲間村から、南風見(はえみ)村に移動した。
現在の西表島は、おおざっぱにいうと、島の東半分だけに道路があって、それは北と南でぷっつんと途切れている。
南のぷっつんにあったのが南風見村(現在は竹富町の一部になっていて “村”はつかない)である。
仲間村から南風見村に行くためには仲間川を渡らなければならないけど、ここはサバニで渡ったというから、西表島で2番目の大河であるこの川にはまだ橋がなかったようだ。

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現在の南風見には「ラ・ティーダ西表」というホテルがある。
高級の部類なので泊まったことはないけれど、建物のまえまでならわたしも行ったことがある。
本館は映画にでも出てきそうな南欧ふうの建物で、これ以外にコテージふうの別館がある。
しかしホテルの宣伝をしても1円ももらえるわけではないから、ま近に見た現実は宣伝写真のようではないとだけいっておく。

儀助のやってきた南風見村の戸数は9軒、人口は29人で、ほかに新城、黒島などから開墾のために送り込まれた農民が数十人合宿していた。
こんなふうによそから送り込まれた人のことを、八重山では「寄せ人」といったそうだけど、彼らはたちまち正面からマラリアに攻められ、背後からは過酷な年貢米(人頭税)に追い立てられていた。
儀助が視察したとき、寄せ人たちは風雨のため舟が出せず、食料が尽き、飢え死の直前だったという。
広い日本にこんな不遇な人々がいることを、ああ、政治家は知っているのかと、儀助はまた歌舞伎役者みたいにおおげさになげく。
寄せ人の運命がその後どうなったか知らないけど、大臣の秘書待遇の儀助がそれなりの手当てをしたのではないか。

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儀助の旅よりずっとあとになるけど、このあたりにはもうひとつ悲惨な歴史があった。
太平洋戦争の末期、波照間島の島民1590人が日本軍によって西表島に移住を命じられたのだ。
西表島はマラリアが猖獗をきわめる土地だということを知っていた島民は、抵抗したものの、抜刀して脅迫する軍人に逆らうことはできず、最終的には移住させられた島民の3分の1ちかくが、この病気で亡くなったという。
南風見村近くの海岸に「忘勿石(ワスレナイシ)」と命名された岩がある。
これは移住命令を解除してもらおうと、石垣島の師団長に直訴をした、波照間国民学校の識名信升校長が、悲劇を忘れないようにと文字を彫りつけた岩のことだ。
この写真は忘勿石と、そのすぐ近くに作られた記念碑で、天気のいい日にこの岩のある海岸から、彼らの故郷の島は正面に見える。

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儀助のころは南風見村でぷっつんだった道路は、現在では農道がもうすこし先まで伸びていて、サトウキビ畑や牧草地のある農地を抜けると、行き止まりが南風見田キャンプ場だ。
キャンプ場のまえの海岸はこんな感じで、沖に珊瑚礁のリーフが防波堤のように連なり、東家とシャワーがひとつだけという天然のままの海水浴場である。
シーズンオフは人っ子ひとりいない、カニとたわむるだけの、孤独な詩人にふさわしい海岸になってしまう。

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わたしは8年まえにこの海岸をぶらついたことがあって、そのとき海岸の岩場に大地が煮えくり返ったような地形があるのを見た。
波打ちぎわにあるのだから、ジュラ紀、白亜紀ほどむかしの地形なら波の浸食ですぐに消えてしまうだろう。
噴火のあと溶岩がそのまま冷えて固まったように見えたから、地質学的に比較的最近、西表島で火山の噴火があっただろうかと考えてしまった。
大津波ならあった。
沖縄は地震と無縁のような気がしてしまうけど、八重山も過去に何度か震災に見舞われていて、とくに昭和8年(1933)の地震と大津波では、1万2千人もの死者を出している。
やはり地震列島では、どこへ行っても福島の教訓を忘れるべきではないようだ。

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儀助は雨に降りこめられて、南風見村の総代の家に釘づけになってしまった。
この村に本土語を話す者はいなかったので、ヒマつぶしに民家にめずらしい品物や古書類でもあれば調べてみようと考えたけれど、価値のありそうなものはみんな以前の役人が持ち帰ったという。
それでも古い文書がわずかに残っていたので、それをチェックしてみた。
樹木の調査帳だとか、農産物の生産表、物品輸出入の代価覚書などで、そんなものをここで紹介しても退屈なだけなんだけど、なにかおもしろいことが書いてないかと、わたしもざっと目を通してみた。

樹木の調査帳に出てくる樹木の名前は、以前この紀行記の「国頭」の項で書いたものと重複するものが多い。
後注を読んてみたら、「国頭」のときの後注も参考にしろと書いてあったから、前にもどってそっちも参考にした。
めんどくさい本である。

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黒木は黒檀の1種で、1尺以上の太さのものが島内に500本、赤木はサトウキビを絞るときの圧搾車の台に使う木材で、4尺以上のものが島内に200本と、現代のわたしたちにはどうでもいいようなことばかりだ。
飢饉のときなどに食べる救荒植物として、方言のカタカナ名前の植物が出ていたけど、わかったのはソデツ(ソテツ)とアタン(アダン)くらい。
アダンは沖縄ではそのへんに適当に生えている植物の実で、かたちはパイナップルに似ているものの、これを食べるのはヤシガニくらいだ。
サルムシルはオオタニワタリのことだそうで、このシダ植物の新芽は、西表ではラーメンの薬味に使われるけど、ネギに親しんだわたしには、あまり薬味らしくなかった。

すこし古いけど明治18年の輸出物品の代価表というものがあって、輸出品は海人草が170斤で米2俵2斗あまりに、山藍400斤がやはり2俵2斗に値したとある。
輸入品のほうでは、砂糖が7斤で米1斗4升に値したという。
まだこのころ西表島では砂糖は外から輸入していたらしく、こんなにサトウキビの栽培に向いた土地なのにと、儀助は残念がる。
家庭用品もみんな輸入品で、夜食用のお膳や、すり鉢10個、安物の壺10個なんてのもあった。
家畜の牛も輸入されていて、雄牛のほうが高いところをみると、これは食用ではなく農耕用だろう。
とくに書いてないけど、亜熱帯で使役するのだから水牛だったかも知れない。

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当時は本土でもまだ税金を、米や穀物などの作物で物納するのがフツーの時代だったから、だれが作物をどのくらい納めたか、いちいち現物を役所に持ち込まなくてもすむように、板の札や縄をひねった符丁のようなものを作っておいて換算の目安にした。
ここに載せたのが「板札の図」と「藁(ワラ)算の図」というその符丁で、笹森儀助の本ではめずらしく図が載っていたから、参考のために載せておく。
板札のほうはたんなる◯や△の記号に過ぎなかったから、わたしがフォトショップを使って同じものをこしらえ、藁算のほうは本からコピーした。

この符丁を使って、たとえば米1石は大縄1本、1俵は結び目をつけた小縄、1斗は結び目がないもの、1升はこれこれという具合に、納税した穀物量を記録したのである。
じっさいの使用では役人の裁量がかかわって、かなりいいかげんだったらしい。
わたしが少年のころ、初めて免許証を受け取りに行ったら、警察署の待合室に年寄りがたむろしていて、むかしは免許証なんて木の鑑札だったよなんて話をしていたっけ。

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当時の本土と沖縄の貨幣価値の違いについても記述があり、沖縄の500文は本土の1銭、5貫文は本土の10銭という具合である。
ここに八重山の方言で「トナー」という言葉が出てきた。
これは“十縄”という意味で、まえにこの紀行記で紹介した、鳩目銭という安っぽい銅銭1貫目を、縄に通したものが10本という意味である。
1貫は3,97キロだから、トナーというと40キロ近い重さの銅銭ということになり、こんなものをかついで市場へ買い出しに行くのは大変だ。
もっとも家や土地を買う場合以外に、そんな大金が動くことはなかっただろう。

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儀助の本のもうひとつの図は、ウシが迷子になったときすぐ持ち主がわかるように、ウシにつけた目印だそうだ。
しかしウシの足型でもなさそうだし、耳を切ったと書いてあっても切り口の図とも思えない。
アメリカなら焼き印だし、最近の日本はマイクロチップを埋め込む時代なので、こんなものに頭を使っても仕方がないから、図だけを紹介して、いったいなんの図なのかということははしょることにした。

どうでもいい書類はこのほかに、雨乞いの通知状なんてものもあり、これはその最中の衣服の決まりや、殺生、家の建築・修繕を禁ずるというお達しで、違反した者は禁固刑や罰金が科せられたという。
しかし役人に酒や豚肉の饗応をして、それを逃れる者もいたらしく、わが日本帝国にそんないいかげんな法があっていいのかと、まじめでカタブツの儀助は手きびしい。

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米国の18代大統領だったグラント将軍は、南北戦争の北軍の英雄で、その勢いで大統領までのぼりつめた人だけど、米国の大統領としては、汚職やスキャンダルまみれで、ロクでもないほうの代表だったといわれている。
それでも好奇心に富んだ人で、退任したあと世界を見てまわった。
彼は中国でイスラム教徒(回族)が豚肉を食うのを見て仰天した、ということが邱永漢さんの本に書いてあった。
そんな彼が来日したおり(1879)に、日本には極端な金持ちがいないかわり極端な貧乏人もいない、なかなか公平な国だと誉めたそうである。
日本は当時から格差の少ない国で、アメリカは当時から格差のある国だったわけで、沖縄を視察してきた儀助は、国民のあいだの不公平を放っておけば、やがては日本でも貧乏人が増え、虚無党や社会主義者も増えるだろうとクールだ。

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このときの雨はだいぶ激しいものだったようで、翌日も儀助は総代の家に釘づけだった。
腹がへったねとぼやくと、総代の家の主人が、んじゃイノシシでも獲ってくるべと、槍を持ち、イヌを連れて出かけていった。
なんだか山の中へ山菜でも摘みに行くような案配だったから、儀助がいぶかしんでいると、主人はたちまち獲物を捕まえてもどってきた。
いかに西表島にイノシシが繁殖していたかわかるというものだと、これは儀助の感想である。
わたしは去年の11月に、船浮の民宿でイノシシ肉のスライスをご馳走になったので、そのときの写真をもういちど。

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