沖縄/密林のはざま
ようやく雨が止んだので、儀助たちは南風見村からふたたび仲間村にもどった。
まえにキナ丸を与えた老夫婦に会うと、あまり薬に縁のない人々だから予想以上に効き目があったようで、病気が回復しましたと嬉しそう。
ただ中央から来た役人からじきじきに薬をもらったことについて、地元の役人をはばかる口調だったという。
仲間村はなにもないところだけど、現代では仲間川の河口からクルーズ船が出ていて、両岸に生い茂るマングローブを眺めながら、上流にある天然記念物のサキシマスオウノキを見物に行くことができる。
西表島では浦内川のクルーズも知られていて、こちらは船の終点からその先のふたつの滝まで、山道をけっこう歩くことになるので、足の弱い年寄りや幼児を連れた家族などは仲間川クルーズのほうが楽である。
ここではわたしか体験した仲間川クルーズの写真をすこし。
儀助たちは仲間村では役場の建物に泊まることになった。
ここは村のなかのよさそうな家を貸間として利用していただけで、竹で作られた床にゴザを敷き、戸板は立てかけてあるだけ、それをロープで縛ってあったというから、あまり上等な家ではなさそうだ。
となりの部屋におばあさんが2人いて、3匹のイヌといっしょに暮していた。
晩飯のとき儀助は彼らの食事のようすを観察してみた。
主食はサツマイモで、イモの本体を人間が食べ、イヌにはむいた皮を与える。
最後にあまったものは人間とイヌが仲良く分け合っていたというから、明治時代のイヌの食生活がうかがえる。
ネコも当時はご飯にみそ汁をぶっかけた猫マンマで文句をいわなかったから、このころの犬猫は身のほどをわきまえていたようだ。
儀助たちが食事をすると、イヌは土足でゴザの上に上がってきて尻尾をふった。
八重山では人間も土足で部屋を歩きまわるのがフツーだったから、儀助は文句もいわずにイヌの目のまえで玉子かけご飯を食べた。
たぶん黙々と。
憮然として。
このイヌはペットではなく、イノシシを追い払うためのもので、どんな貧しい家でも3匹~6匹は飼っていたそうである。
孔子の言葉に“苛酷な政治は虎よりひどい”というものがあるけど、八重山ではイノシシの害が苛酷な政治よりさらにひどかったのだ。
この家で儀助は琉球式の雪隠(トイレ)について、よほど感動したのか、詳しく書いている。
その構造は、丈が4尺、巾が3尺、萱で囲いが作ってあり、敷板は2、3寸の丸太だったという。
あまり詳しい説明はしたくないけど、ウンコを落とす穴は3寸(10センチほど)4方ぐらいの穴で、オシッコはそのまま丸太のあいだに流すとか。
慣れれば簡単でいいとはいうものの、周囲の萱が生い茂って大蛇の巣窟みたいだなと儀助は思う。
たまたまこのとき彼は下痢ぎみで、夜中にトイレに行かざるを得なかった。
雨が降ったり止んだりしていたので、まっ暗ななかを傘をさして出かけていき、トイレでうーんと力んでいると、何物かが彼の尻をぺろりとなめた。
うわあ、出たあ。
てっきり毒蛇でもあるか、志しはまだ道半ばであるのに、オレはついにこんなところで果てるのか(儀助はときどきオーバーな言い方をする)。
ところがこれはトイレの下で飼われていたブタの仕業だった。
沖縄では農家がみんなブタを飼っていることはすでに書いた。
ブタは人間が落としたものをよろこんで食べ、人間はそのブタを食べる。
べつにめずらしくない。
わたしはロシアの農村で、やはり下がブタ小屋になっているトイレを見たことがある。
便秘になったらブタに気のドクだなと、儀助はいらん心配をしていた。
このあと儀助はガイドを仕立てて、仲間川から御座岳を経由し、西表島を縦断することになるけど、それは次項にゆずって、ここでは縦断したあとの彼の足跡をたどることにしよう。
島を縦断して、儀助はようやく出発地点の租納に帰りついた。
租納でまた村のつまらない経済白書を点検したあと、翌日、彼は内離(うちばなり)島にある三井炭鉱の視察をする。
儀助が旅をしたころ、ここには成屋村という村があり、大正年間に廃村になったというから、衛星写真に痕跡が残ってないか探してみた。
写真の◯印の中に畑の跡のようなものが写っていて、東の方角に租納村が見えたという位置的にも合致するから、これがそうらしい。
すぐ上の3番目の写真は、白浜港から眺めた現在の内離島だ。
現在、内離島には連絡船がないから、一般の観光客がここへ渡ることはできない。
しかし最近ではシーカヤックやカヌーによるアクティビティがたくさんあるので、観光客が内離島や外離島などの離島はもちろん、西表島を一周してしまうことも可能なようだ。
え、わたし?
カヤックなら前々からいちどやってみたいと思っているんだけど、じいさんがやるものじゃないから一度もやったことがないワ。
西表島は石炭の島である。
儀助が島を縦断中にも、あちこちに露出した石炭の鉱脈を見たという記述がある。
石炭というのは数千万年から数億年まえの植物が地中に埋もれて出来たということを、これは小、中学のころ教わったから、ということは西表島はそんなむかしからそこにあったということになるのか。
これは思索に値するけど、わたしの手に負えない科学の専門分野のようなので割愛。
成屋村には三井炭鉱の第1鉱区があった。
まだ汽車も船も石炭で走っていたころだから、燃料を産出する西表島は貴重な島だった。
儀助はここの事務所で、三井の代理人である三谷なにがしから、創業以来の沿革や経営状況についていろいろ説明を聞く。
じつは彼が訪問したころ、すでに炭鉱経営は山に乗り上げていた。
この島の石炭層はいちばん厚いところで4尺2寸(130センチほど)、それ以外でも3尺2寸を下らなかったという。
そんなことを聞いても素人にはわからないけど、島全体では埋蔵量は300万トン以上あり、さらに掘り進めれば下のほうにはもっと優良な鉱脈が埋蔵されている可能性があって、ほとんど無尽蔵だったという。
産出した石炭は中国の福建省、アモイ、香港などでも販売されていた。
三井財閥が乗り出したくらいだから、まあ、優良な炭田だったのではないか。
経営状態を尋ねると、ある年の経費が3100円あまりで、販売実績は2402円だったそうだ。
これでは赤字である。
このあとに経費の内訳があって、鉱夫として現地の沖縄県民以外に、仮監獄を作って懲役人を150人ぐらい使っていたらしい。
囚人まで労働にかり出すのはひどいかも知れないけど、そんなことはたいていの国がやっていた。
ジャニス・ジョプリンの歌で知られる「ボール・アンド・チェン」という曲は、米国の囚人労働を歌っているし、「レ・ミゼラブル」でジャン・バルジャンは、囚人として使役されているとき海に飛び込んで脱走しているのだ。
しかしここも例のとおりマラリアで死ぬ人間があとを絶たず、3年間で100名以上の鉱夫が失われた。
儀助が視察したころ、炭鉱は経営不振で閉山の決定が出されたばかりだったのだ。
炭鉱の歴史というのは日本経済の変転をよく物語っている。
戦後になってエネルギー政策の変更があり、石炭が石油にとって変わられると、炭鉱の閉山が相次いだ。
九州の筑豊、三池炭鉱、北海道の夕張炭鉱などなど、それまで基幹産業だった炭鉱の閉鎖は社会的にも大きな問題になった。
五木寛之の「青春の門」や、映画「にあんちゃん」などに、当時の炭鉱町のようすが描かれている。
連絡船がない内離島に比べると、西表島の炭鉱のうち一般観光客がもっとも簡単に見学できるのが、浦内川のクルーズ船の発着場から1キロほど入ったところにあるウタラ炭鉱跡だ。
炭鉱というとどうしても非人道的で過酷なイメージがついてまわるけど、この炭鉱は、少なくとも開業当初は文明的なものだったようだ。
経営者の野田小一郎社長は、劣悪な条件の改善を進めていた。
十数万円の費用をかけて総2階建て400名収容の独身寮や、十数戸の夫婦用宿舎、売店などの各種設備が備わり、労働者の娯楽のため300名を収容できる集会場では、芝居の上演や映画の上映が行われた。
注目すべきは、衛生状態を改善するため住居にガラス窓が多用され、上下水道や防蚊装置、大浴場、診療室が整備されていたことである。
おかげでマラリアの罹患率は、西表島の炭鉱の中でも抜きん出て低かったそうだ。
どうやらウタラ炭坑は例外的に文明的・模範的な炭鉱だったらしい。
長崎の軍艦島も厚生施設の完備した炭鉱で、韓国の坑夫たちはいい給料にひかれてやってきた者がほとんどであることがわかっている。
しかし太平洋戦争の勃発で、ウタラ炭鉱も採掘が立ち行かなくなり、昭和18年(1943)に閉山になった。
いま建物はほとんど残っていないけど、レンガの柱にまきついたガジュマルの根が、アンコールワットの廃墟のようで一見の価値はある。
わたしがここへ行ったときは、廃墟にビール瓶が散乱しているのを見たけど、あれは閉山でヤケッパチになった坑夫たちが、最後の宴会でもしたのかしら。
西表島の炭鉱については、台湾人の坑夫に焦点をあてた「緑の牢獄」というドキュメンタリー映画がある(そうである=わたしは観ていないのだ)。
台湾の監督が作った2021年の映画だから、公開されてからまだ1年ほどの映画だ。
この島で台湾の坑夫がひじょうに過酷な労働に従事させられたというんだけど、なんだか韓国人が騒いでいる軍艦島みたいである。
ネットで“西表島”、“炭坑”で検索してみると、たしかに過酷な条件で働かされたようなことが書いてある。
しかしわたしみたいな怠け者にいわせれば、戦前は農民にせよ、駕籠かき人夫にせよ、吉原の娼婦にせよ、過酷でない仕事なんかほとんどなかった。
日本人としては慰安婦問題のように、話が勝手にひとり歩きされては困るので、強者が弱者を食いものにする歴史のひとつであり、人類共通の宿痾と考えてほしいといっておく。
現在の日本では、タコ部屋は労働基準法で禁止されている。
西表島の炭鉱について調べていたら、「監獄部屋」という本がそれに触れているというので、例によって図書館で借りてきて読んでみた。
推理小説全集に入っていたくらいだから、歴史や思想的なものもあるわけじゃないし、ただ読者をひっかけるためのアイディアを優先させた短編小説で、無理に読むことを勧めはしない。
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