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2022年6月15日 (水)

不寛容の時代

憎しみと不安と不寛容の時代か。
これからの時代を生きる若者たちが被害を被るだけだから、わたしみたいなじいさんが悩んでも仕方がないんだけどね。
インターネットが普及すれば、教育や医療にしても、もっと全地球的に公平な時代が来ると思われていた。
ところが現状をながめると、他人や他国を貶めて、しかも内容が刺激的であればあるほどよくて、まずいことにそれで利益があげられることに誰もが気がつき始めた。
これではけっして煽り行為はなくならないだろう。
大事なのは煽りに乗らないような知識と、公平客観的な態度、相手への思いやりを持つことだけど、わたしもそれを若いモンに説くのに疲れた。

巨大な世論に逆らうことを世間では蟷螂の鎌なんてことをいう。
プーチンのワラ人形に釘を打って喜んでいるレベルの人たちに説明しておくけど、これはカマキリが人間に対してカマをふり上げることだ。
そんなもので人間に勝てるわけがないので、これは力のおよばない者が、せめてもの抵抗の意思を示すという意味である。
わたしもそんな心境だ。
ひとりかふたりでもいい。
プーチンにはプーチンの事情があると考え、プロパガンダに踊らされない人が増えてくれれば。

アンタは豊臣秀頼の故事を知ってるか。
関ヶ原で敗れた秀頼は大阪城にこもったけど、彼を滅ぼそうという徳川家康は、なにかと難癖をつけ、大阪城の堀を少しづつ埋めていった。
家康の最終目的は、秀頼を抹殺して徳川家の未来を永劫に安泰させることだから、こういう場合秀頼に反攻以外の手段があっただろうか。
堪忍袋の緒を切らした秀頼は、ついに大阪城で反旗をひるがえし、待ってましたとばかりの家康に滅ぼされてしまう。

プーチンはロシアの大統領である。
血を分けた同盟ともいうべきウクライナがNATOに取り込まれようとしているとき、彼にはそれを坐して傍観する手段はなかった。
堀を少しづつ埋め立てられていった秀頼の場合とよく似ているではないか。
世間にはロシアがかってのロシア帝国復活を夢見ている、などというデマが溢れている。
しかしプーチンがウクライナ以前に、周辺の、かってロシア圏だった国々に軍隊を進めた事例がひとつでもあるだろうか。
チェコやルーマニア、ポーランド、バルト三国、フィンランド、モルドバ、ジョージア、アゼルバイジャンなどに軍隊を進めたことが一度でもあっただろうか。
ウクライナだけが侵攻されたけど、これはひっくり返せば、ウクライナがいかにロシアと血でつながった特別な国であるかの証明じゃないか。
ウクライナの首都キエフは、ロシアのすべての都市の母とされる街だそうだし、ナチスの侵攻ではロシアとウクライナは協同して立ち向かい、同じように膨大な犠牲者を出した。
「ひまわり」という映画では、ウクライナのひまわり畑の下に大勢の兵士の屍が埋まっているというセリフがあるけど、埋まっているのはウクライナの兵士だけではなかったのだ。

わたしはよく思うんだけど、いまNATOに加盟するのは時期尚早だといってヨーロッパがウクライナの加盟を押しとどめていたら、どんな状況が生まれただろう。
ウクライナは屈辱的にロシアの抑圧下に置かれることになっただろうか。
いいや、そうは思わない。
それまでウクライナ人がロシア人と結婚したり、双方の国を訪問するにもなにも問題はなかったのだから、わたしはこのふたつの国の関係は、アメリカとカナダのような状態が続くだけだったろうと思う。
なにより、これほどまでの犠牲者を出すこともなかったはずだ。

相手の立場を理解するというのは自分のためでもある。
一方的な宣伝に乗せられて、憎しみと不寛容の時代に突入すれば、けっきょくは自分たちも惨禍を被ることになるのだ。
未来を生きる若者たちは、まえの大戦から7、80年ぐらいのあいだの平和な期間を、郷愁をもって思い出すことになるんじゃないか。
わたしの人生はその期間にぴったりはまっている。
幸運だったのか、それともわたしの人生がもうすぐ終わるから、新しい(憎しみの)時代が始まるのかと、いつも悩んでしまう。

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