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2022年7月19日 (火)

沖縄/自然とともに

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ゴーギャンという画家がいる。
いるなんて絶滅危惧種みたいな言いかたをしなくても、だれでも知っている有名な印象派の画家だ。
彼もそうとうの変人で、それなり平穏にすごしていたフランスでの生活をおっぽり出して、南海の楽園(とそのころは思われていた)タヒチに永住してしまった。
いったいどうしてそんなということは、女性には永遠の謎だろう。
しかしわたしのような厭世家にはわかるような気がする。
わたしももうたっぷり世間の荒波に揉まれて、いいかげん世間にうんざりして、自然がいっぱいの西表島に移住を夢見るじいさんなのだ。
実行しないのは、ただ勇気がないのと、先立つものがないせいである。
無人島だってタダでは住めないのだ。

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船浮の民宿のおやじさんに聞いた話では、近くの無人島にひとりで住みついて、田畑を作り、自給自足の生活をしている日本版ロビンソン・クルーソーみたいな男性がいるという。
不法滞在ですかと訊いてみたら、ちゃんと地主さんの許可をとっているよという。
無人島にも地主さんがいるのかとがっくりしたことはさておいて、うらやましい話であるけど、電気が引いてなければ、パソコンも使えないだろうから、それがないと生きていけないわたしには真似できない。
いまでもひとりで暮らしているのだろうか。
ちゃんと老齢年金なんかもらってんのかしら。
現在ならユーチューバーになって、無人島の生活を発信し続ければ金持ちになれていたかもしれない。

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さて、御座岳を越えた笹森儀助のその後だけど、いったん祖納(そない)村にもどって、内離島の炭鉱を視察したことはすでに書いた。
祖納村では彼は役場の建物を宿にしていた。
この建物はこのあたりでは立派なものだったけど、部屋のなかにトカゲやヤモリやクモ、ダニ、シラミが徘徊していて、儀助も2カ所ばかり食われてカユかったそうだ。
ここでは方言で「ヤネマブリ」というトカゲの名前が出てきた。
明治の日本人はトカゲやヤモリぐらいでは驚かないだろうから、これはキシノウエトカゲだったかもしれない。
これはトカゲにしては大きいもので、写真を撮ったことのあるわたしもヘビかと思ったくらいだ。

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西表島はユネスコの自然遺産にも選ばれたくらい自然の豊富なところである。
最近観光客が増えてそうした自然をおびやかしているけど、この島では本土ではなかなか見られないめずらしい動物が、手の届くような近距離に見られる。
民宿に泊まれば壁にヤモリが張りついているし、海辺に出れば、いたるところにヤドカリやシオマネキがうごめいてる。
食堂でカレーを食べていると、庭の樹木に赤い鳥が舞い降りる。
あれはナンダということで、とりあえずビデオに収めておいて、あとで確認したらアカショウビンだったということを、わたしはじっさいに経験した。
哺乳類(イリオモテヤマネコ)、野鳥、爬虫類から両生類、魚類、昆虫など、自称ナチュラリストにインスピレーションを与える動物はひじょうに多いのだ。
これなら自然が豊富だということで、ナショナル・ジオグラフィックが取材に来てもおかしくない。
そんなことをいわれたって、明治時代にNG誌はまだなかっただろうという人がいるかもしれないけど、この本は1888年の創刊だから儀助の旅より5年も古いのである。

今回は西表島の自然についての画像をどさどさ載せておこう。
遅ればせながら、わたしは西表に行くたびダーウインになった気分だ。

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内離島の炭鉱を視察したあと、儀助はサバニに乗り、崎山村の網取(あんとぅり)という場所に上陸した。
場所はこの地図のとおりで、写真は現在の網取だ。

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わたしがダイビング目的で西表島に行ったのは44年まえの1978年、ということはもはや半世紀ちかくまえのことである。
沖縄に行ったのはこのときが最初で、サンゴ礁の海を見たのも初めてだったけど、網取の浜に上陸したときのことを忘れはしない。
昼メシを食べたあと、砂浜で素潜りをして吃驚した。
腰までぐらいしかない深さの海底に、盆栽のようなサンゴや、触手をゆらせたイソギンチャクが点々としていて、そのひとつひとつに小さな熱帯魚が群れていた。
イソギンチャクと共生するという不思議な生態のクマノミもいた(実物をはじめて見た)。
すこし深みには丸太ん棒のようなコブシメ(イカの仲間)が、水中をただよいながらじっとこちらを見つめていた。
そこはまさに天然の水族館だったのだ。

この海に魅せられて、わたしはその後3回も同じ海岸に上陸している。
陸から行く道はないので、ダイビングやシュノーケリング船に便乗して行ったのだ。
40数年まえには戦争中の遺物のような、崩れかかった桟橋しかなかったけど、現在の網取には東海大学の海洋研究所があって、桟橋も立派なものがある。
それでも研究所はふだん無人だし、見渡すかぎりの周囲には、わたしが初めて見たときと同じように、ヒカゲヘゴやアダン、巨大シダの茂る原始のままの密林が静まりかえっている。
自然に抱かれる幸せはゴーギャンでなくともわかるだろう。

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西表島でシュノーケリング・ツアーに参加すると、網取湾のあたりに行くことが多い。
このあたりは貴重なサンゴ礁の宝庫で、潮が引くと腹をこするんじゃないかと思えるほどの浅瀬に、エダサンゴ、ウチワサンゴ、テーブルサンゴなど、種類の異なるサンゴ礁のみごとな群落が見られる。
タンクを背負って本格的なダイビングをすれば、イボヤギなどのソフトコーラルと、そのまわりに色とりどりの小魚が群れる幻想的なお花畑を見ることも可能だ。
ただ、ちと心配だ。
こんなことを書くと観光客が押し寄せて、ただでさえ荒廃のすすむ沖縄のサンゴ礁の破壊につながらないだろうか。
しかし自分はもう十分楽しんでしまったから、ほかの人は来るなというのでは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」になってしまう。
観光地と自然保護を両立するのはむずかしい。
まったく立ち入り禁止にするのもナンだから、屋久島のように上陸制限でもするか、富士山のように入山料を請求するか。

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網取には古い集落の廃墟が残っている。
これは昭和46年まで存在した“あんとぅり”という村の跡だ。
西表島ではマラリアで全滅する村も多かったのに、儀助が尋ねた当時、この村は戸数11で、人口は68人ほどいて、いくらか増える傾向があったという。
増えた原因はわからないけど、村人が村を棄てたのは沖縄が本土に復帰したあとだから、風土病に追い立てられたわけではなく、過疎と交通の不便というべつの要因だったようである。
いまここに村民たちが残した石碑が建っていて、廃村に至った理由が刻まれている。

網取村は西表島の最南端に300有余年の歩みを残した。
耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築いた繁栄を守ってきた。
しかし、政治の貧困による経済の行きづまりと医療、教育の不備を始めとする孤島苦がつのり、ついに昭和46年7月14日に全員離村を余儀なくされた。
ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した村人のよりどころとするためこの碑を建てる。
            平成8年9月  うるち会建立

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網取村のとなりにあるのが崎山村で、ここでも儀助は役場の建物に泊まった。
役場があったということは、崎山村のほうがこのあたりの村の中心だったらしく、儀助が尋ねたころは戸数が15、人口は73人だったという。
村としての機能はまあまあ備えていたようで、多いときには160人にも住人がいたそうである。
この村も昭和20年(1945)に廃村になり、ためしに現在の衛星写真をにらんでみたけど、上空からでは村の痕跡すら発見できなかった。
儀助の文章では、“港は北に向かって開き、東・南・西に山がそびえていた”、あるいは“港から数キロ行くと、左右に大きな岩が屹立していた”、また“村は崎山湾の西岸に接し、山の中腹にある”などとあるけど、衛星写真では土地の高低まではわからないので、探しようがない。
村のはずれに泉があって、オタマジャクシやガマが棲んでいたそうだけど、いくら高精度の衛星写真でもそりゃ写らんだろう。

崎山村が廃村になったのは網取に先立つこと26年だから、現地に行ってみれば石垣くらい見つけるのはむずかしくないと思われる。
しかし、おそらく成長の早い熱帯の植物に埋もれてしまっているだろう。
YouTubeには廃墟を探訪するというチャンネルもよくあるけど、だれか西表島の廃村を訪ねるチャンネルを制作してくれないか。
これまで書いてきたように西表島には、風土病で全滅した村、かってそこに人間の営みがあったことの痕跡がたくさん残っているはずなのだ。
さいわい最近では登山や探検のための用具も儀助の時代とは比較にならないし、個人で海を渡れるカヌーやカヤックもあり、薬品も発達しているからヤマビルやマラリアの恐れもない。
うん、わたしがもっと若けりゃ自分でやっていたんだけどね。

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でも人々が死に絶え、なにもかもが大自然のなかに還ったというのは、西表島にとって幸せだったかもしれない。
かってNHKKの「ワイルドライフ」という番組が、「奇跡の島々」というタイトルで南西諸島を特集したことがある。
日本人ならゴーギャンのようにタヒチまで行く必要はない。
世間の波にもまれ、人間関係にイヤ気がさし、絶海の孤島にでも出奔したくなったら、この南北に細長い列島で、わたしたちはいつでもパスポートなしに奇跡の島々に行くことができるのである。

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