沖縄/波照間島
笹森儀助は西表島の視察を終えて、つぎの目的地の与那国島に向かった。
彼の船が与那国に着くまでのあいだに、わたしのブログでは彼が寄らなかった波照間島に寄ってしまおう。
これはわたしが去年の11月に行ったときの(じつにアホらしい)旅の記録である。
あまりにアホらしいから最後まで読めとはいわないけど、最後まで読めばどのくらいアホらしいかわかります。
コロナで亡くなった知り合いの散骨のために、その家族らとともに西表島に行ったわたしは、家族と別れたあと、ひとりで沖縄のほかの離島を見てまわった。
残り少ない人生をおおいに活用すべく、今回はまったく予定を立てない自由旅行をしてみるつもりだった。
ところが石垣島の離島桟橋にいってみたら、本日は波照間便は欠航ですという。
原因は海が荒れているからだそうだ。
明治の笹森儀助のころならいざ知らず、21世紀の日本に、荒天で連絡船が欠航する場所があるということが新知識だったけど、これでは八重山では海の荒れる冬期に、あらかじめ予定を組んだ旅行はむずかしそうである。
仕方がないからこの晩は、石垣島の予定になかった宿に飛び込みで泊まり、翌朝はまた離島桟橋に行ってみた。
この日は波照間便はちゃんと出るということだったけど、今度こそカッコいい双胴船にでも乗れるかと思ったら、やってきた連絡船は西表島、竹富島に行く安栄観光の船とそれほど変わらないもので、11月では観光目的の客は多くなく、通勤通学で島外に通う波照間島民が多いようだった。
朝早いのがニガ手なわたしはのんびりと昼ごろの便に乗り込んだ。
波照間島は、果てのうるま(サンゴ礁)という意味だそうである。
名前を聞いただけで「珊瑚礁の彼方に」という曲が浮かんできそうだけど、わたしにはビリー・ボーン楽団の曲より、「世界残酷物語」や「太陽がいっぱい」のテーマのほうがイメージとしてはピッタリなんだけどね。
波照間島の先にまだひとつ、果ての果てのうるまがあるという伝説が、柳田国男や司馬遼太郎の本に書いてある。
それを南波照間(はえはてるま)島というそうだけど、これは伝説や迷信の範疇に入るものだから、衛星写真を見てもらえばわかるように、現実にはその先の島というものはない。
船に乗っている時間は1時間半ほどで波照間島に着いた。
行き当たりばったりの旅だから、宿の予約もしてなくて、もちろんだれも迎えに来ているわけではない。
とりあえず1本しかない道を島の中心に向かってみたら、すぐに1軒の民宿があった。
台風で飛ばないようにコンクリート製の建物だけど、そのぶん味も素っ気もないという宿である。
しかし前方を見て思案してしまった。
道はずうっとカーブして先まで続いており、集落のあるところまでどのくらい歩くのか見当もつかない。
そのボロい民宿ではレンタル自転車もやっていたから、とりあえずこの宿に一泊し、自転車で島内を調査してから、翌日はあらためて別の宿に移ればいいではないか。
最初の晩だけ適当な宿にということは、むかし中国をひとり旅したときもよくあったのだ。
そう考えて「西浜荘」という民宿に泊まることにした。
わたしの部屋は灰色のコンクリート製4畳半の個室で、鍵はあることはあるけど、おとなが力を入れて引っ張ればかんたんに開いてしまいそう。
自炊するための共用のキッチンが別にあって、ガスボンベつきの携帯コンロがひとつ備わっており、インスタントラーメンぐらいは作れる。
この日の客はわたし以外に釣り人らしい3人連れがいたけど、彼らは道路の向こう側のコテージに泊まっていた。
頑固親父という感じの宿の亭主に荷物を預け、電動アシスト自転車で島内へくり出した。
天気はあまりよくなかったものの、自転車でまわれないほど大きな島でないことはわかっていたし、じっさいにサイクリングは快適だった。
すぐに島の中心にある集落に着いた。
ご多聞にもれず、この島にも、集落の規模からすれば立派すぎる小学校があり、これは災害のさいの避難所にもなるのだろう。
問題があるとすれば、11月のこの季節には、集落に気楽に入れそうな食堂が1軒もないことで、これでは食糧調達を頭に入れておかないと飢え死してしまう。
集落をざっと眺めただけで、そのまま自転車で島を一周することにした。
農夫のすがたも見えないサトウキビ畑のあいだを抜けると、草っぱらのなかに波照間飛行場があった。
わたしは以前、東京の調布飛行場のわきに住んでいたことがあるけど、そこに比べても国際空港と地方空港ぐらいの差があって、飛行機なんかいつ飛んでいるのかといいたくなるくらいちっぽけな飛行場だった。
しかもこの日は連絡便が終了して、ターミナルビルも店じまいしており、建物のなかにも入れなかった。
つまらんとぼやいて、さらに自転車をこぐ。
どこになにがあるのかも調べてなかったけど、小さい島だからぐるぐる見てまわっているだけで、たいていのところに行けるだろう。
畑のあいだをあてもなくただよっていくと、「星空観測センター」というものがあった。
ここにもだれもいなかったし、わたしも興味がないから写真を撮っただけで素通りだ。
つまらんとぼやく。
またさらに行くと「日本最南端の碑」というものがあって、ここにはさすがに幾人かの観光客が来ていた。
うまい具合に若い娘が碑のまえで、ほかに行くところもないしと、ぐったりしていたから写真を撮らせてもらった。
この碑の背後は荒涼とした岩場である。
そこかしこに奇妙なかたちをした海岸性の植物が生えていたけど、あまり興味がわかない。
岩場から見下ろすと、どーんと波が打ち寄せていて壮観だ。
しかしこれではとても泳げそうもないし、サンゴが隆起した島であったとしても、波照間島は海水浴には向かないところのようだった。
わたしと同じように自転車でまわっているひとり旅らしい若い娘にも出会ったけど、彼女はとっても寂しそうだった。
それはそうだろう。
ひとり旅の目的は自分自身を見つめ直すことであり、生きるとはなにか、人生の目標とはなにか、世界の人類を救済するにはどうしたらいいかなど、孤独な思索にふけることにある。
ひとりでニタニタと楽しそうにしていたら病院に電話されてしまう。
この娘とは3メートルほどの距離ですれ違ったのに、じいさんのわたしは身のほどをわきまえて、それ以上関わりを持たなかった。
天気が気がかりなので、集落に引き返し、明日泊まる宿を物色した。
島に上陸してすぐに目についた西浜荘に宿をとったのは失敗だった。
集落まで行くと、この島にはもっとマシな民宿がたくさんあるし、二階建てのでっかいホテルもあったくらいだから、行き当たりばったりとしてももっとマシな宿に泊まれただろう。
たまたま目をつけたよさそうな民宿に当たってみた。
楽しそうなおかみさんが出てきて、今日はどこに泊まっているのですかと聞くから、これこれしかじかと答えると、わかりました、明日の朝迎えに行ってあげますという。
安心して西浜荘にもどった。
自転車を返却しようとしたら親父の姿がない。
しかし借りた当人がその家に泊まっているのだから、なにも問題はなかろうというわけで、自転車を置き場に並べ、集落で買ってきたカップラーメンを作ることにした。
共用のキッチンに行き、ガスコンロを使おうとしたら、そうとうにくたびれたコンロで、ボンベがうまく密着しない。
どうしたらいいだろうとまわりを見渡すと、キッチンのとなりが民宿経営者の住まいらしく、そこに西洋人のような感じの臈たけたご婦人がいるのに気がついた。
彼女の教えに従ってカップラーメンを作るくらいのお湯を沸かすことはできたけど、いったいなんだなんだ、あの女性は。
民宿の親父は頑固そうなじいさんで、その奥さんにしては若すぎるから、娘なのか、あるいは息子の嫁さんなのか。
掃きだめの鶴のようなこの女性については、いまだに謎である。
翌朝の約束の時間に西浜荘のまえで、迎えに来るという民宿の女主人を待つ。
彼女は軽バンでやってきて、今朝の連絡船で客がひとり到着することになっているので、それをついでに迎えに行きますという。
2人で港に行き、連絡船を待つあいだ、彼女はターミナルに顔を出して情報を仕入れてきた。
大変ですよ、海が荒れるので、明日からしばらく船の往来がないかもしれないといってますけど、大丈夫ですか。
( ・∇・)
そういえば笹森儀助の本でも、波照間島に視察にきた県庁の役人が、4カ月も島に缶詰になったと書いてあった。
いくら気楽な自由旅行でも、そんなことがあったらたまらない。
おかみさんが大丈夫ですかと訊いたのは、わたしの都合を案じてのものだったのだ。
石垣島に確実にもどるためには、これから到着する連絡船を利用するしかないと聞いてわたしは動揺した。
やがて到着した連絡船からひとり旅の若者が下りてきたけど、おかみさんは彼にも同じことを聞いていた。
やむを得ない、この船でもどろう。
わたしはとうとう確実にもどるほうを選んでしまったのだ。
せっかく迎えに来てもらったのに宿はキャンセルだけど、こういうことはよくあるらしく、おかみさんはなにもいわなかった。
けっきょくわたしは波照間島で、到着した日の午後に島を自転車でまわっただけ、その翌朝はもう石垣島にもどることになってしまったのである。
おかげでこの島にある「ニシ浜」という美しい海岸を見逃してしまったけど、天気はずっと悪かったから、たとえ海水浴場に行っても泳ぐ機会はなかっただろう。
11月のこの島に、これ以上見るべきものがあったかどうかわからないから、わたしの旅はちょうどよかったのかも知れない。
どうじゃ、こんなアホな旅もめずらしいだろう。
最後まで読んでごくろーさま。
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