沖縄/船浮のみぎわ
翌日の朝8時、儀助たちは崎山村から、さらに西進することにした。
このときのメンバーは儀助と県庁職員の後藤氏、それに案内と警護をかねた木場という巡査の3人だった。
彼らはサバニに乗って八重目(バイミ)崎を越えようとしたけど、ここは西表島の西端にあって、正面から波を受ける航海の難所で、波が高いために船頭がびびってしまい、やむを得ず舟を返して山道を行くことにした。
当時この先には、南太平洋のカナカ族が移住した(とされる)鹿川(かのかわ)村という集落があったそうである。
この村は明治37年、ということは儀助が尋ねてから10年ほどあとに廃村になった。
しかし衛星写真をじっくり見分すると、鹿川湾のいちばん奥に耕地の跡らしきものがうかがえるから、村はそのへんにあったのではないか。
僻地の村でも人口は50人ちかくいて、男女の比率はほぼ半々だったというから、国家という暴虐者に縛られるのがイヤという厭世家たちが、集団で住みついていたのかもしれない。
仕事熱心な儀助がいろいろ聞き取り調査をしてみると、ほとんどの村人が漁業をおぼえることもなく、海岸で海人草を採ることを生業としており、イヌといっしょのその日暮らしで、生活に進歩や改善の努力がぜんぜん見られなかったそうだ。
憐れむべき人たちであるというのが儀助の感想だけど、彼らが西表島の海浜で、不自由でも幸せに暮らしていたのなら、余計なお世話である。
ここに載せた写真はシュノーケリング・ツアーの広告や、釣り愛好家のホームページから拾った鹿川湾のもので、現在はここに人の生活はまったくない。
ダーウィン的話題としては、この土地では鹿ノ川貝(ジュセイラ)というめずらしい巻貝が名物だそうで、儀助もいくつか採集していたから、それを紹介しておく。
ネットで調べると、日本では紀伊半島以南(主に南西諸島)に生息するフジツガイ科の貝で、その美しい色と模様から色違いの近縁種ショウジョウラ、バンザイラと合わせ「日本三大美螺」と呼ばれています、とのこと。
似たような巻き貝で、ウミニナというのがマングローブの根もとにたくさんいるけど、灰色の汚い貝である(貝に罪はありませんけどね)。
この日は宿舎に早めに着いたので、しばらく風呂に入ってなかった儀助たちは海水浴をすることにした。
明治時代の沖縄ならほんとうに手つかずのままのサンゴ礁が残っていて、さぞかし美しかっただろうし、青森県は弘前藩士あがりの儀助にとって、サンゴ礁の海で泳ぐのは初めての体験だったろう。
しかし泳いで気持ちがよかったと書いているだけで、儀助はそれ以上のことは書いてないから、笹森儀助の「南島探検」が、ダーウィンの「ビーグル号航海記」にならない所以はこのへんにある。
海でぽちゃぽちゃしているところへ、石垣島から飛脚船が到来し、与那国行きの汽船・大有丸が入港したからすぐに帰ってこいとのこと。
儀助は西表島のあと与那国島に行くつもりだったので、船が入ったら連絡するよう、あらかじめ話をつけておいたのである。
しかし、すぐ帰ってこいといわれてもすぐに帰れない場所にいるのだ。
帰るのは明日の朝いちばんでいいだろうと勝手に決め、大有丸には船浮港まで迎えに来てくれるよう折り返し連絡を入れて、儀助たちは鹿川村に一泊することにした。
そこまではいいけど、この当時連絡というのはどうやってしたのだろう。
これまで書いてきたことからわかるように、明治時代の西表島には村と村とをむすぶ道路はほとんどなく、往来はもっぱら舟によるばかりで、いまみたいにインターネット通信があったわけでもない。
糸満人のあやつるサバニが、鹿川村にいる儀助に文書を届けたとあるから、手紙1通を届けるために石垣から小舟でやってきたのだろうか。
それとも石垣から西表の祖納まではトンツー式の無線で、そこから舟がやってきたのか。
よくわからないけど、日本中を通信網でくるもうという明治政府の熱意、そしてそれを忠実に実行する電信会社の努力には感心してしまう。
翌朝の7時、儀助たちは山道を使ってふたたび網取の海岸にもどると、そこからサバニで船浮村の駐在所にもどった。
船浮という部落はいまでもあるけど、西表島の東半分だけにある外周道路のいっぽうのはしである白浜から、さらに連絡船を乗り継がないとたどりつけない、まさに陸の孤島といっていい部落だ。
仕事熱心な儀助はここでまた(明治時代の)船浮村を調査している。
ただし儀助がこの村を訪問するより以前、西表では明和の津波(1771)というものがあり、そのとき船浮村もべつの場所に移転したことがあったという。
災害は忘れたころにやってくるの例えどおりで、台風以外の災害に縁のなさそうな八重山だけど、昭和8年(1933)の大津波といい、けっこう地震や津波の災害は多いみたいだ。
儀助はすこしはなれた場所にあったその旧船浮村についても調べていた。
船浮の北方600メートルぐらいのところだったというから、この地図の〇のあたりのようだけど、現在は藪が茂っておいそれと確認もできない。
民宿のおかみさんたちは、食用の島タケノコを採るために藪にも立ち入るけど、ハブに噛まれるかも知れないから、都会人はむやみに入らないほうがよい。
蛇足だけど、この島タケノコの煮物はビールのつまみに好適。
現在では船浮は竹富町に編入され、村という行政単位はつかないものの、まさにユネスコの自然遺産まっただ中のところで、わたしも何度かここの民宿に泊まったことがある。
そういうわけで現在の船浮を紹介しておこう。
これは戦前の写真(に似せて加工したわたしの写真)である。
船浮の背後の山を越えると、徒歩15分ぐらいで「イダの浜」という無人の砂浜に出る。
わたしがはじめてこの海岸に立ったのは9年まえのことで、その美しさに感動したことは当時のこのブログに書いた。
同じことをまた書くのもナンだから、ここでは別の視点からこの海岸について書いておこう。
いったいイダの浜のどこがわたしを惹きつけるのだろう。
ひとつ思い当たるのは、イダの浜の周囲には人工の建造物がまったくないということ。
しいていえば遠方の岬に小さな無人灯台が見えるけど、あとは後ろをふりかえっても、儀助が見たころのままの亜熱帯の森である。
人間の気配のまったくないという自然環境は、人間ギライの厭世家には大きな安らぎを与えてくれるもので、英国の女性探検家クリスティナ・ドッドウェルも、そんなことを書いていたのを読んだことがある。
天然のままの海岸を愛することでは人後に落ちないわたしのこと、人間の気配のまったくないこの海岸で、カニとたわむれているのは幸せなことだっだ。
思えばわたしの世代は不思議な幸運にめぐまれていた。
わたしが子供のころはまだ郷里には、江戸時代から連綿と続いている素朴なアナログ社会が健在だったし、終活時期の昨今では、江戸時代の農民にはとうてい想像もできないデジタル社会も見ることになった。
橋のまん中でまったく異なる両岸の景色をながめたようなものだ。
くだらないことに感心しているという若い世代は、おそらくデジタル時代しか見ることが出来ず、数値でなんでも割り切れる社会が、人間のこころにうるおいを与えてくれるとは、わたしにはとても思えないんだけどね。
願わくばイダの浜の美しさよ、永遠にというところだけど、そう書いている最中もわたしのこころは逡巡する。
こんなことを書いて、もの好きが殺到したらどうなるだろう。
あの美しい海岸を美しいまま、永遠にわたしだけのものにする方法はないだろうか。
あるじゃないか。
わたしはイダの浜の美しさを永遠に記憶にとどめたまま、あの世に行くんだから、そうか、そうか、案ずるより産むが易しだった。
イダの浜でしばしの陶酔のあと、わたしは船浮集落にもどった。
儀助も船浮にもどって昼メシを食うことにしたけど、彼らのこの日の昼食は、船浮駐在所の川崎という巡査がご馳走してくれた。
彼にいろいろ話を聞いてみると、最初は家族同伴で赴任したものの、2年まえに村の子供が脳膜炎で死んだということがあり、ここはマラリアが猖獗をきわめて危険なので、妻子は鹿児島の実家に帰しましたとのこと。
あなたはマラリアに罹らないのですかと訊くと、わたしはしっかり対策を立ててますからねという。
やはり夜は布団をひっかぶり、汗まみれになって寝るのだそうだ。
ついでに焼酎をあびるほど飲むかどうかは聞き漏らしたけれど、そんなことで蚊に喰われないなら、マラリアなんて恐るるに足らずではないか。
彼は外出するときもかならずいちど沸騰した湯を持参して、生水はけっして飲みませんという。
なーるほどと、登山の最中に川の水を牛飲した儀助が感心したかどうかわからない。
鹿川村から急いで帰ってきたにしてはのんびりしているけど、まだ迎えの大有丸は影もかたちも見えないから、あわてる必要はなかった。
午後になってサバニに乗り込み、船浮を後にして、儀助たちは祖納の役場に帰り着いた。
ここは西表島における調査の出発点で、最初は時計まわり、つぎに反対まわりで、儀助は島の海岸線をほぼすべて見てまわったことになる。
マラリアには罹らなかったけど、虫に刺された足が腫れ上がって、儀助はだいぶ難儀していたそうだ。
翌日は内離島が目のまえなので、もういちどこの島に渡り、廃鉱間近の炭鉱で責任者の三谷氏から話を聞いた。
汽船の燃料コストや、荷物積み込み人夫の給料については、やっぱり赤字だそうて、起業家になるのも楽ではないようだった。
その後、島の最高地点に登ってみると、沖から汽船が近づいてくるのが見えた。
大有丸が約束どおり船浮まで儀助を迎えにきたのである。
三谷氏や案内をしてくれた木場巡査などに別れを告げ、儀助が大有丸に乗り込んだのは明治26年7月28日のことだった。
これで西表島の探検と調査は終わりなので、彼は船のなかでこれまで見てきた島の総括をした。
とはいっても、貧しい農民を苦しめる税法を改革するにはどうすればいいか、開墾地の必要性、人口を増やす方法など、くそまじめな儀助らしい。
現代のわたしたちには役に立たないことばかりだし、興味のある人もいないだろうから、詳細は省くことにする。
荷物の積み込みなどで2日間を船上で過ごしたあと、「水落の滝」で給水をしたのち、7月31日に大有丸はつぎの目的地である与那国島に向かって出航した。
この滝はマングローブの森のとっつきにあり、垂直の岩から水が流れ落ちていて、むかしから島の人々にとっては貴重な飲料水の補給場所だったところである。
儀助が旅をしたころは、ここでクロダイやスズキなどが入れ食いで釣れたという。
わたしもいちど行ったことがあるけど、さすがに現在ではそれほど魚影が濃いようには見えなかった。
この滝を見たい人はシュノーケリング・ツアーにでも参加すれば、寄ってもらえる可能性がある。
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