みんな運命さ
もうあまり安倍もと首相のことには触れたくなかったけど、この事件を振り返ると、いまのウクライナ戦争につながる不思議な因縁を感じてしまう。
統一教会がどうのこうのいう人もいるけど、政治家というやつはつねに支持者を欲していて、選挙の票につながりそうな相手なら素性なんか選ばないのだ。
今回はたまたま銃撃事件があって、この腐れ縁が表沙汰になってしまったけど、教会にダニのようにくらいついていた政治家の、与党野党を問わずなんと多いこと。
あらかじめことわっておくけど、わたしはもと首相の功績を認めることでは他人にひけをとらない。
しかし右翼左翼の論争にまきこまれるのはまっぴらなので、そんなものには関わらないのだということは、このブログを連続して読んでいる人にはわかってもらえるはず。
不思議な因縁ということはこういうことである。
もと首相を射撃した犯人の手製の銃を見たけど、鉄パイプをテープでぐるぐるまいた、子供の手作りのオモチャのようなものだった。
あんな照準もつけられないような銃で、犯人はほんとうに標的を殺せると思っていたのだろうか。
もちろん当たりどころが悪ければ死ぬ場合もあるから、殺意があったことは否定できないけれど、もういちど同じ銃でだれかを殺してみろといっても、ゴルゴ13でさえゼッタイにという約束はできなかったに違いない。
つまり安倍もと首相は運がわるかった、というより彼はあそこで死ぬ運命だったのだ。
わたしみたいな無神論者が “運命” を持ち出すのは違和感があるかもしれないけど、しかしそのへんの◯◯教や☓☓教とやらを馬鹿にしているだけで、わたしは人間の人生を左右する不思議な力まで認めてないわけじゃないんだよ。
スタンリー・キューブリックが「2001年」を作ったとき、彼もそのへんの世俗の宗教より、人類を導くもっと壮大な宇宙の力のようなものは信じていたはず。
このブログでも触れた作家のポール・セローだって、行き先々で牧師や慈善団体をからかってばかりいるけど、おのれの人生をふりかえって、なにも感じないことはなかったと思う。
なにも感じない人間がいたとすれば、自然のなかで何万年も同じことを繰り返してきた野生動物と変わらないではないか。
安倍もと首相が生きていればプーチンと直談判をして、戦争以外の解決方法を見つけたかもしれない。
しかし彼はそうするまえに死んでしまったから、ウクライナで敵味方の将兵が死ぬのも、動かしようのない運命だったのだ。
ホント、歳をとると人間は信心深くなるらしいけど、アンタどう思う?
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