中国の旅/南京の屋台
南京への列車は、オレンジ色の、まだ中国ではめずらしい2階立て列車だった(残念ながらわたしたちの座席は階下だったけど)。
今度はちゃんとエアコンの効いた軟座車(1等車)に案内された。
またお茶が出る、また商品の販売がある。
せっかくだけど、わたしは旅先で土産なんて買わない主義である。
今度は明るいうちの列車だったので、わたしはじゅうぶんに車窓の景色を堪能することができた。
上海から蘇州、無錫を経て南京までのこのあたりは江南地方と呼ばれ、古来より物なりのよい穀倉地帯として知られ、英雄豪傑が覇を競ったところである。
発達した運河のおかげで水郷のようなおもむきもある美しい土地だ。
無錫から南京までの2時間ちかく、行けども行けども平たんな農地ばかりである。
神社や仏閣らしい建物が見あたらないこと、山がないということ、それと建物の様式さえ無視すれば、日本の田舎とたいして変わらない景色だ。
列車の窓からすぐ線路ぎわに農家の庭が見えることがある。
庭には堆肥が積まれ、赤いニワトリやガチョウ、アヒルなどが飼われている。
なつかしい郷愁をさそわれる光景である。
白い漆喰で塗られた四角い箱のような農家は、遠目になかなか美しい。
わたしは日本の古い農家をとてもいいものだと思っているけど、中国の農家もけっして悪いとは思わない。
ようするに自然のなかで、自然と一体になって生きるような生活は、人のこころに訴えるなにかを、必ず生み出すのだろうと思う。
運河の流れに出くわせば、運貨船が往来し、裸の労務者たちが働いていたり、タイヤの浮き輪につかまって、子供たちが水浴びしたりしている。
タイムマシンに乗って、わたしの子供のころにもどったような気がした。
ぼんやりと見とれていたわたしは、いつのまにか自分が、関東平野のどこかの農村を走っているような錯覚にとらわれてしまった。
午後5時ごろ南京に到着した。
南京の手前で窓の外に山が見え始めた。
山といっても丘に毛の生えたていどの山だけど、まだまだずっと広大な平野が続くものと思っていたわたしにはちょっと意外な気がした。
山はひとつではなく、いくつも重なっていた。
1937年にここまで進軍してきた日本の将兵も、きっとあの山を見ただろうなあと思う。
南京というと日本でもいろいろ物議をかもした都市である。
中国にいわせると、日中戦争のおりに30万人が日本軍によって虐殺されたところだそうである。
戦争を始めたという後ろめたさのある日本がだまっているうち、これは世界の常識になってしまった。
わたしはこのときとは別の中国訪問のさいに、上海でむかし南京に住んでいたという日本人のおばあさんに出会ったことがあるけど、彼女は、わたしの知ってる南京はそんな人口をかかえるほど大きな街じゃなかったけどねえと話していた。
ここではもうこれ以上語りつくされた問題には触れない。
わたしが旅したころ、日本人だからといって街でぶん殴られることはなくなっていた。
駅には青いワンピースで、短髪にメガネをかけ、ちょっとそっ歯でよくしゃべる朱さんという女性ガイドが迎えにきていた。
彼女にくっついてバスまで向かうわたしの腰に、かぼそい声をあげて小さな子供たちがまとわりついてきた。
南京にはまだ「乞食」という職業が現存していたのである。
わたしはたまらない気持ちで無視したけど、パンチマーマのKさんがいくらか銭をやったところ、たちまちもっと大勢の子供たちにまとわりつかれたという。
南京の駅前にもあいかわらず大勢の人々がたむろしていた。
この日の夕食は「丁山賓館」というところで、中国旅行社の要人による歓迎晩餐会が予定されていた。
中国の団体旅行では、必ずこうした歓迎会がセットされているらしい。
しかし愛ちゃんがいうような、ドレスアップを必要とするパーティではなかったけどね。
丁山賓館は小高い山の中腹にあり、その庭からは市街地が一望で、建設中の巨大なテレビ塔も見えた。
パリのエッフェル塔や東京タワーのように、鉄骨をむき出しにしたものではなく、コンクリートを多用しているようだった。
歓迎晩餐会は夜の9時ごろまでかかった。
日本語堪能のエラい人が出てきて挨拶をする。
日本にいたこともあるという人で、地区の世話やきおじさんといった親しみやすい風貌の人だった。
乾杯(カンペー)といって、みないっせいに杯を干し、それを何度もくりかえすのが中国式と聞いていたけど、乾杯は1回しかなかった。
晩餐会を終えてわたしたちはホテルへ向かった。
南京市内もこれまで見てきた街におとらず、ものすごい人の波である。
わたしたちのバスはホーンを鳴らしっぱなしで、自転車や人間をかきわけて進む。
この混雑のなかをニワトリやアヒルが右往左往することもある。
おどろきあきれるわたしたちは、それでも無事にこの夜の宿舎「金陵飯店」に到着した。
このホテルは当時はよく目立つ高層ビルで、調べてみると、いまでも当時と同じ場所にあって、やはりとなりに旧館の倍くらいあるでっかい新館ができていた。
それはともかく、このホテルは市内のにぎやかなところにあったので、荷物をおく間も惜しんで、わたしたちは街へ見物に出ることにした。
同じ団体のなかから、男性が3人、女子大生の2人組、それにわたしと愛ちゃんの7人である。
見物はいいけど、愛ちやんと女子大生は土産物店や服飾店に目がないから、そういう店を見つけるとすぐに引っかかってしまう。
わたしは土産にも服にも興味がないから、ひとりで通りをぶらぶらして、そのうち歩道橋を渡った道路の反対側に、たくさんの屋台が出ている路地があるのに気がついた。
これ、これとわたしは叫ぶ。
こういう場所で現地の人たちとじかに接するのが、わたしの夢だったのである。
屋台の食べもの屋では、コンロにかんかんと火がおこっていて、うず高くつまれた材料のなかから好みの品を注文すると、目の前で調理してくれるシステムだった。
材料の中には、鯉のような魚、20センチもあるような巨大なドジョウ、ザリガニ、カエル、なにかの貝、いく種類かの野菜などがあった。
悲しいことにわたしは健啖家ではなく、どっちかというとその反対である。
それでもなんとかこういう場所で、こういう国際親善を深めてみたいと思ったから、ある店でカエルを食べてみることにした。
わたしがカエルを指さすと、店の調理人はよろこんで中国語でなんとかと名前を教えてくれた。
わたしが首をかしげると、彼がぴょんぴょんと跳ねてカエルを説明しようとしたのには恐縮した。
カエルは頭と腹わたをのぞいてあり、皮もはいであるから種類はわからない。
大きさはそのへんでよく見かけるトノサマガエルのサイズ(せいぜい10センチちょっと)で、食用蛙というには小さい。
たぶんカラアゲかなにかにしてくれるのだろうと考え、わたしが1匹のつもりで指を1本示したら、ここでカエルを1匹だけ注文する客なんていないらしく、彼はひと皿のつもりでOKした。
わたしはとりあえずお粗末なテーブルに腰をかけた。
調理人が調味料の入った小さな皿をふたつ持ってきて、どっちにするかと訊く。
赤いトウガラシの入ったほうはトテモ辛イヨというそぶりなので、わたしは味噌仕立てにしてもらうことにした。
料理ができるまでビールを頼んだ。
出てきたビールはまったく冷えていなかった。
なまぬるいビールを中国の人たちはあたりまえとして飲んでいるようだから、郷に入ったら郷にしたがえというわけで、わたしもおとなしく出されたビールを飲んだ。
わたしのグラスは丸々としたブランデー・グラスだった。
店には調理人以外にも、手伝いらしい若者や娘がいる。
小さな子供たちもいて、家族総出で商売をしている感じである。
オレンジのTシャツを着た若者は、興味深々といった顔で、しきりにわたしのカメラ(ニコンF3)を見つめていた。
そのうちカエル料理が出来上がった。
ほかの具といっしょに油で炒めたもので、あまり食欲をもよおすものではない。
正直いってこの料理は、夕食をすませてきたわたしにはちょっと荷が重かった。
そこへ女子大生2人がやってきて、愛ちゃんたちが見つからないからホテルへ帰りますという。
まあ、いいじゃないですか、ちょっと寄ってカエルでも食べていきなさいよと、わたしはこれ幸いと彼女らを引き止める。
このときのわたしは赤いポロシャツで、遠くからも簡単に発見できたから、まもなく愛ちゃんたちもやってきた。
こういう席ならわたしより愛ちゃんのほうが、国際親善はずっと得意である。
テーブルには先客の中国人が3人ほどいたけど、すぐに愛ちゃんは彼らとビールをさしつ差されつの仲になってしまった。
屋台の店主もたいへんに喜んで、頼みもしないビーフンの小皿までサービスしてくれた。
先客の中国人の1人が愛ちゃんに、そばの電信柱を指してなにか自己紹介をした。
愛ちゃんはわたしに、このヒトは電信会社に勤めている人だってと通訳する(彼女に中国語がわかるはずはないんだけど)。
わたしたちが彼にビールを勧めると、彼はわたしたちにタバコを1本づつくれた。
屋台で気がついたんだけど、屋外であるにもかかわらず、店の灯りにも街灯にもまったく虫が集まってこない。
街はずれに農地は多く、衛生状態もけっしてよいとはいえないのに、いったいどうしてなのか。
ひょっとすると、背筋が寒くなるくらい農薬が使われているのかも知れないと、いささか戦慄した。
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