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2023年8月20日 (日)

中国の旅/無錫へ

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この日のわたしたちは夕食後、ただちに列車で無錫へ向かうことになっていたので、食事を終えたあと、ぞろぞろとすぐとなりの上海駅に向かった。
わたしたちが案内されたのは軟臥(1等車)専用の待合室で、ありがたいことに、ここにはエアコンが効いていた。
中国の一般大衆用の待合室は大混雑をするところで、言葉の不慣れな外人にはとても切符を買うことなどできないところだという。
むろんそっちにエアコンなどあるはずがない。

列車に3時間も乗れるというのはわたしの楽しみのひとつだったけど・・・・それはひどいものだった。

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時間がきて、わたしたちはかざりっ気のないがらんとしたコンクリートのホームに上がった。
じろじろと観察してみたところでは、線路は広軌で、まくら木はコンクリート製である。
ホームの長さはかなり長く、待っていた列車もおどろくほど長かった。
くすんだ緑に黄色のストライプの、鉄のかたまりのような無骨な列車で、窓が全開である。
ということはエアコンはついてないようだった。

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この晩わたしたちが乗ったのは、一般大衆の乗る硬座車(2等車)というものだった。
わたしたち一行は〇番から〇〇番までと指定された席に座った。
そこには中国人が座っていたけど、彼らはしぶしぶと別の車両に移っていった。
敏捷な愛ちゃんはたちまち窓ぎわの席を確保した。
こういうときいくつになっても子供みたいな彼女を便利である。
ところがそこはあいにく指定された席ではなかったので、出遅れたわたしと彼女は、仕方なしに通路側で、同じツアーの男性2人の横に座るはめになってしまった。

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座席は向かい合わせでゆったりしており、窓の桟は木製で、厚くニスが塗られ、古びてテカテカと光っている。
窓のすぐ下に小さなテーブルがついていて(写真参照)、その上にお茶の入ったガラス瓶が置いてあった。
備えつけのものかと思ったら、すぐ別車両に移った中国人が取りにきた。
彼らにとって旅の途中でもお茶は離せないらしく、つねにその容器を持ち運んでいるらしい。

座席のシートには白い布製のカバーがかかっていたものの、走り出してまもなく、背中を動かすうちにはずれてしまった。
カバー自体もけっしてきれいではないのに、その下から汗と脂で黒光りした、おそらく製造されて以来、いちども洗浄されてないと思えるシートがあらわれた。
あわててカバーをもとにもどそうとすると、それはホックやボタンでとめてあるのではなく、たんに小さな釘にひっかけてあるだけだった。
ひっかけるにしても工夫も細工もなく、カバーの上から直接釘を打ちこんだだけらしい。
わたしも決してマメな人間ではないけど、横着というか、乱暴というか、驚きをとおりこしてじつに感動的である。

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わたしたちの席は車両のいちばん後ろに近く、便所と隣りあわせだった。
ときどき前のほうから中国人がやってきて、わたしのわきをすり抜けて便所に入っていく。
わたしの周辺にはつねに異臭がただよっていた。
後学のためにと、無錫へ着くまでにわたしも便所へ行ってみたけど、狭くて、ペダルを踏むとパタンと便器の底に小さな穴があき、穴から線路が見える・・・そういう便所だった。
わたしが幼かったころ、日本でもこういう列車に乗った記憶がある。

窓を思いきり開け放って(便所のことを考えると、あまり賢明なやり方ではないけど)、列車は20時56分に、夜の闇のなかを走り出した。
街を1歩出ると、極端に灯りが少なくなる。
線路のすぐわきに、あまり背の高くない針葉樹の並木が黒々と続いていて、周囲はいちめんの水田らしい。

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走り出してまもなく服務員(車掌)がお茶を運んできた。
外国人にはどんな列車でも必ずお茶のサービスがあるらしいけど、暑いときに熱いお茶もけっこういいものである。
ここで供されたお茶は、わたしにとって初めて体験するものだった。
急須を使わず、お茶の葉は蓋つきのお茶碗のなかでじかにお湯をそそがれる。
これをしばらくおき、お茶の葉が下のほうに沈澱したころをみはからって、おもむろに上澄みを一服するのである。
飲み終わったころに服務員がお湯をつぎ足しにやってきた。

服務員のサービスはお茶だけではなく、彼らはつぎに絹製品や掛け軸の販売にやってきた。
販売のしつこいところをみると、売り上げは彼らの臨時収入になるらしい。
外人専用の列車で、国の恥になるようなインチキ商売を、国家公務員である服務員がやるとは思えないから、品物に間違いはないのかも知れない。
だからといって旅の始めに、畳2枚分もあるような絹のテーブルカバーを買う人間がどこにいるか。

彼らが持ってきた水墨画の掛軸について、パンチパーマのKさんがどうせ安物だろうというと、服務員は血相をかえて箱の底の落款を示していた。
しかしとわたしはいうけど、落款なんぞいくらでも模造できるし、そもそも落款でわかるような有名作家の作品を、列車のなかで売るのかどうか。
売り込みは激しく、ときには喧嘩ごしにもなるようで、この勢いにおされてとうとう掛軸を買わされた人もいたようだ。

どういうわけか、わたしたちの席に2人だけ、中国人の夫婦がまぎれこんでいた。
中年の細君がわたしのすぐ斜めまえで居眠りをしていたから、彼女をじっくり観察してみた。
けっして魅力的だったからではなく、彼女は鳥のガラみたいに痩せていて、電線したストッキングをはいていた。
中国ではまだストッキングは貴重品なのだろうか。
そういえば共産圏では日本のストッキングを餌にすると、女がくどき放題なんて噂も当時はあったっけ。

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列車は闇のなかを疾走する。
遠くにぽつんぽつんと灯りが見え、時おり駅舎に裸電球のともった、がらんとした駅を通りすぎる。
交差する街道を、暗いライトをつけた車がよたよたと走っている。
立体交差が多く、たいていは道路のほうが線路の下をくぐっている。
これがひとり旅だったらそのノスタルジーはすてきに詩的なものになっただろう。

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無錫には23時20分に着いた。
駅には無錫が担当の、若い男性ガイドが迎えにきていた。
まゆ毛の濃い、闊達な若者で、名前は、諸葛孔明の名前のひと文字をどうのこうのといっていたようだけど、すぐに忘れた。
わたしたちはエアコンの効いたバスで、「湖濱飯店」というこの夜の宿に向かうことになった。

だいたいわたしはそれまで、「無錫」という地名を知らなかったので、なんでこの街がツアーに含まれているのか不思議だった。
あとで聞いたら、なんとかいう日本の歌手が歌った演歌に「無錫旅情」というものがあり、それで日本でも有名になったのだそうである。
歌のほうはいま聴いてもべつにいいとは思わないけれど、翌日にじっくり見てまわって、あたりの農村風景はおおいに気に入った。

宿までの道すがら、バスは暗い夜道を走る。
こんな時間でもまだ路傍にスイカ屋が店を出しており、まだまだたくさんの自転車が往来して、若い娘さんも平気で走っていた。
治安がいい証拠ですとわたしはいう。
困ったことに彼ら彼女らは、自動車なんか眼中にないといったようすで、おかまいなしに道路のまん中を横切ったりする。
バスはやたらにホーンを鳴らして彼らを威嚇する。
しかし人々はまるでなにかバスに恨みでもあるのではないかと思えるほど、車の直前をいつまでも避けようとしないので、見ていてひやひやすることが何度もあった。

ひとりの人間を轢き殺すこともなしにたどりついた「湖濱飯店」は、どうも郊外の湖のほとりにあるらしかった。
じつはこの湖というのが有名な太湖で、夜なのでまわりの景色はよく見えないものの、ホテルも文句のつけようのない立派な高層ビルだった。

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調べてみたら、このホテルはいまでもあるらしい。
ただし、その後変なかたちの新館が増築されて、蠡湖(れいこ)風景区や、メリーゴーランドまである蠡湖公園に隣接したモダーンなホテルになっていた。
それよりもおどろいたのは、ホテルの背後に高層ビルが乱立していたことで、この30年のあいだに無錫も繁栄のおすそわけに預かったことがわかる。
ホテルのまえで湖に張り出していた赤い茶亭だけはそのままだった。

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わたしの部屋は725号室、ということは7階ということで、エレベーターでそこまで上がった(この2枚の写真は当時のものではありません)。
部屋をチェックしてみると、冷蔵庫がないけど、テレビはあった。
ためしにスイッチを入れてみたら、画面にいきなり、うすものをまとって水浴している女性たちが現れた。
おっ、中国でもアダルトをやってますよと叫んでしまったけど、その女たちを悪人らしい男たちがのぞき見をし、そこへ正義の味方らしい男が登場してやっつけるという、日本でもむかしよくあった安っぽい時代劇だった。

窓から外を眺めると、湖の上にぼんやりと月が出ている。
はるけくも遠くに来たものかなと、海外旅行初心者のわたしはしみじみ思う。

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