中国の旅/1992年
上海の虹橋国際空港に着陸したのは17時ちょうどごろだった。
着陸寸前に、遠方に上海の街の高層ビルがたくさん見えて、予想通りであるものの、上海はかなり大きな街のようだった。
このとき利用した虹橋空港は、わたしの記憶ではローカル空港の雰囲気が濃厚だったような気がするけど、その後改装されて、新しいターミナルや、隣接して高速線や地下鉄も入っている虹橋鉄道駅が出来て、上海でもとくに巨大な交通の要衝になった(らしい)。
らしいというのは、わたしは1999年を最後に、この空港をいちども利用したことがないから、現在のようすはわからないのである。
国際線としての役割は2000年ごろに開港した浦東国際空港に譲ったものの、いろんないきさつがあって、日本の羽田からも連絡便があり、2023年のいまでも活発に使われているという。
新しく出来た浦東国際空港のほうには、リニアモーターカーが通じていて、それが世界最速という触れ込みなので、わたしもいちどだけ乗ってみたことがある。
しかし市内に行くまえの、変に中途半端なところで降ろされてしまった。
調べてみたら2023年の現在でもまだ市の中心部までは通じてないようだから、この点は市内から近い虹橋空港のほうが利便性は高い。
空港のロビーでツアー客全員が揃った。
わたしたちのツアーは京王観光、近畿日本ツーリスト、近鉄観光などから送りこまれた30名ほどの団体だった。
空港の出口にはこれらの人々を先導する、馬訳進さんと、王さんという2人のガイドが迎えに来ていた。
馬さんは上海だけが担当のガイドであり、王さんはツアーのすべてについてまわる世話役である。
馬さんはいかにもガイドらしく、よく喋る若者で、髪もふつうの若者のようにのばし、服装も今ふうで、メガネをかけたなかなかの好青年だ。
名刺を見ると「東方国際旅遊運輸有限公司」という、長ったらしい旅行会社の社員ということになっていた。
その反面、もう1人のガイドの王さんは、髪を短く切った童顔の男性で、背はあまり高くないが、がっちりした体格の人である。
服装はナウいとはいえず、ガイドのくせに必要なこと以外はあまり喋らない。
その態度や、一見そうとは思わせないものごしからして、わたしはこの人が日本からの観光客を監視するために送りこまれてきた、公安関係の職員ではないかと思った。
しかしその役割についてあとでじっくり考えてみると、どうやら彼は外国人のふらちな行為を監視しているわけではなく、外国からの旅行者が国内でなにか災難にあわないよう、つまりわたしたち一行を護衛することが本来の任務らしい。
ノーテンキな観光団の人々がスパイ行為をするわけもないから、彼が見張り、取り締まるのは、金持ちの日本人をねらうスリやひったくり、日本円が欲しいと我々にしつこくつきまとってくる中国人のほうなのだろう。
同行の人々の顔ぶれを見ると(おいおい知ることになるのだけど)、わたしと愛ちゃん以外に、パンチパーマで恰幅のよいKさんが率いる、女性2人を含む雑多な8人組、絵描きだという老人とその娘に、これも絵描きだという長髪の男性、旅のあいだもしょっちゅう酒びたりのEさん、夫婦そろって薬剤師だという老夫婦ひと組、もう1人の薬剤師で熟年男性のMさん、まだ大学生の若い娘のふたり連れなど。
この中に薬剤師がふた組いるのは、有名な中国の漢方薬を仕入れに来たのだそうだ。
わたしたちは空港に近い近代的ビルの新虹橋大廈で、日本円を兌換券に換えていくことになった。
このあたりまではまだなかなか環境はよく、まわりにはガラス張りの、新しい近代的な高層ビルが建ちならんでいた。
上海はおそろしく暑かったけど、乗り込んだバスにはエアコンがついていて、ガイドの馬さんの説明によると、この日の温度は35度くらいだそうである。
わたしたちはぐずぐずと梅雨の明けきらない日本から、いっぺんに盛夏の中国にやってきてしまったのだ。
そしてこれがこのあと5日間続く猛暑の行軍の始まりであった。
バスのなかで馬さんからいろいろと説明がある。
まず貨幣価値のこと、中国の貨幣単位は元で、この日のレートでは1元が日本の約25円に相当した。
ただし外国人は本国の紙幣をちょくせつ元と交換するわけにはいかず、まず外貨兌換券(だかんけん)という代用紙幣と交換し、兌換券でいろいろ買物をすることになる。
この兌換券は中国の人たちにとっても、現地の金より価値があるらしく、彼らはいちど握った兌換券はけっして手放さず、おつりは必ず現地の金で返してくる。
それも前世紀から使われているのではないかと思うような、しわくちゃで、ボロボロにすり切れたおそろしく汚い紙幣が多い。
バイキンがうつらないかしらと愛ちゃんはいう。
紙幣がま新しくてピンとしているかどうかは、その国の文明度を計る尺度になることをはじめて知った。
交換所で両替をしてみると、日本円1万円で兌換券が400元ぐらいもらえた。
よくわからないけど、まあ損したわけではないだろうと思う。
兌換券のおもてに、古い表記だけど、“拾圓”とか“壱圓”などと、日本でも通じそうな金額が書いてあって、中国の貨幣単位である“元”が使われてないのが気になった。
中国映画を観ていると、会話などでは1元を1坱(イークァイ)ということもある。
ややこしいけど、ここでは深く立ち入らない。
両替のあとで近所をぶらぶらと歩いてみた。
目の前にも近代的な高層ビルが建っていて、付近を歩いている市民はみな日本人とそれほど変わらない服装の人が多く、女性の服装もけっして流行遅れということはない。
このあとわたしは中国の洗濯事情を、あちこちでかいま見ることになるけど、道ばたで洗濯ダライを使う人がいるこの国で、女性たちがいずれも清潔でこざっぱりした服装をしているのが不思議だった。
理由はこのあたりが外資系を含む、高級オフィス街だったせいのようだ。
わたしはここで数枚の写真を撮った。
自転車に乗ったお父さんと子供がいたから、撮っていいですかと訊くと、妙な顔をしたものの、べつにいやがりもしなかった。
小さな子供たちを連れたおばあさんに訊いてみると、こちらは子供たちが先に逃げてしまった。
こうした反応は日本人とあまり変わらない。
共産主義の中国では、外国人とむやみな接触は禁じられているという説も聞いていたけれど、そんなことはないようだった。
観光地などに興味はなく、わたしが撮りたいのは中国の一般市民とその生活だったので、これは重要な問題なのである。
このあとわたしたちは夕食をとるために、上海駅のすぐわきにある「龍門賓館」に向かった。
駅まで行くあいだに、バスはいよいよ嘘いつわりのない、本物の中国のまっただ中を走る。
見るもの聞くもの、すべて奇観であり、壮観である。
道路はそうとう広く、たいてい両側に並木が植えられていて、なかでいちばん目についたのはスズカケ=プラタナスだった。
このスズカケは日本の街路樹のように均整のとれた樹態をしておらず、交通のじゃまじゃないかと思えるくらいヘンテコな形に枝をのばした木が多くて、じっさいにトラックにぶつけられて枝が折れたものがあった。
ほかにタイザンボクのような花をつけた木があり、これはハクギョクランというのだそうだ。
市内にはやたら車の数が多いけど、よく目立つのはタクシーに使われているフォルクスワーゲンのサンタナで、これはドイツとの合弁会社があるからだという。
日本のダイハツ・シャレードも数が多かったから、これも合弁会社があるらしい。
中国の路線バスには、ふたつのボディを蛇腹でつないだ連結バスが多く、それもひじょうに混んでいる場合が多い。
バスに女性運転手も珍しくないのはロシアといっしょ。
もちろんほかにも車の種類は多い。
それもものすごいポンコツがほとんどで、日本ではひと昔、いや、そうとうに昔のオート三輪などもまだとことこと走っていた。
そのあいだを鼻の出た旧式のトラックが、ホーンを鳴らしっぱなしでわがもの顔で走る。
オートバイ、サイドカーも多く、動力つきや人力の三輪車までいる。
そして自転車がガシャガシャと群れをなして走っている。
この骨董品的交通事情のなかを、人間が遠慮会釈もなく右往左往する。
信号機もあるんだけど、数が少ないこともあって、歩行者はそれを守らず、警察官もなにもせずに立っているだけだった。
これらがみんな交通ルールもなしにてんでに好きな方向へ動きまわるから、その混沌ぶりは日本からきたわたしたちから見ると、衝突する分子や原子の動きを見ているようである(見たことないけど)。
上海駅に着くころには暗くなっていた。
電力節約だとかで、繁華街以外は街全体が暗いところへ持ってきて、車のライトも便所の裸電球のように暗い。
そんななかを駅に到着しておどろいた。
暗くなった駅前広場にものすごい数の人々が群れているのである。
そのほとんどはなにをするでもなく、ただぼんやりと路上にたたずみ、あるいは座りこんでいる。
列車を待つ人や、暑くて家にいられないという人々らしいけど、なんだか地獄の亡者たちが、上海の駅前に集結したような不気味さがあった。
夕食をとる「龍門賓館」は上海駅のすぐとなりにある新築の高層ビルで、食事は中国式というか、回転テーブルに料理がのっかっていて、食べたいものをみなてんでに突っつくというものだった(このやり方はこの旅の始めから終わりまですべて同じ)。
このツアーは毎日3食つきだったから、食費はほとんどかからなかった。
コイに似た魚のあんかけ料理が出たから、なんという魚ですかと訊くと「白魚=バイユ」とかいう返事である。
このころの中国人はまだサンマやマグロの味を知らなかったから、これはどこかの川か池で養殖されている淡水魚のようで、四方八方から突っつかれてすぐにきれいな骨になった。
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