中国の旅/寒山寺
これまで無錫や南京で泊まってきたホテルはいずれも高層ビルで眺めはよかったけど、蘇州の南林飯店のわたしたちの部屋は4階で、窓のすぐ外がひさしになっており、そこに安っぽい電飾灯がならべてあって、朝になってもたいした景色が見えるわけではなかった。
めずらしいことにこのホテルは新館なんか出来ておらず、いまでも30年まえの場所にそのままあるらしい。
蘇州もかっては城壁にかこまれた都市だった。
地図をながめると、堀にかこまれた四角い部分があって、これがもとの城壁のあったところらしい。
城壁にはいくつかの門があり、司馬遼太郎の「街道をゆく」にも「盤門」という門の詳しい描写がある。
ただ、城壁そのものはおおかた破壊されてしまったようで、わたしはこのときの旅ではいちども城壁を見ていない。
朝食をすませて、なんとかいう庭園(拙政園だったかも知れない)を見物に行く。
暑い日ばかりでみなグロッキーぎみなんだけど、この日も天気予報が暑くなるといっていますとガイドの蒋クンはいう。
庭園には中国人の観光バスもたくさんやってきていて、そっちは窓を明けっぱなしで、乗客がみなうらやましそうにこちらを見ていた。
見ただけで熱中症になりそうな日あたりのいい駐車場から、バスをおりてぞろぞろと運河にかかる橋を渡る。
この橋の上から眺める両岸の建物の風情は、水に古ぼけた白壁が影をおとすというやつで、素晴らしく絵画的である(水は汚い)。
本場のベニスだって、近くで見ると汚いに決まっている。
蒋クンが、むかしはもっときれいだったのですという。
そうかも知れないけど、いまの中国にきれいな川なんてあるのだろうかと思ってしまう。
どうもいちゃもん居士のわたしも困ったものだけど、わたしは有名人や有名観光地だからといって、お世辞を並べるのがキライなのだ。
ぼうっと見とれるわたしの足下を、モーターボートが爆音をあげてくぐり抜けていった。
歩道のあちこちに汚らしい布団のワタ(布団ではなく、中身のワタだけ)が干してあった。
愛ちゃんが聞いた話では、このへんの人はワタにじかにくるまって寝るんだそうで、ひどい話ねえと愛ちゃんはいう。
拙政園の門はこの橋から2、30メートル行った先にあった。
門までのわずかな距離に、みやげ物屋がずらりと並んで、売り子たちが口々にわたしたちを呼びこもうとする。
見物に来ているのは日本人だけではないので、わたしたちは大勢の観光客にまじって園内に入った。
園内にも掘や池が多いけど、明治神宮や新宿御苑ほど大きいわけではなく、ようするにかっては個人の大金持ちの邸宅にすぎなかったそうだから、コースにしたがってぐるぐる見てまわれば、30分ほどで入口にもどってしまう。
堀に浮かんだ舟の上で、ゴミでもすくっていたのだろうか、女の人が長い柄のついた網でなにかをすくっていた。
池にはハスが茂っており、いくつかきれいなピンク色の花が咲いていた。
園内の建物の趣味の悪さについては、これも「街道をゆく・江南の道」に、その理由がふれられている。
つまりこれらの庭園は、かっては1代成金といわれた地方行政官の邸宅である場合が多く、行政官というのはいったんその地位にのぼりつめると、給料以外の実入りで、孫の代まで食っていけるほど贅沢ができたそうである。
だから彼らのすべてが精神的修養をつんだ人というわけではなく、出世のための勉学をつめこんだだけという人が多かった。
こういう人の趣味を反映したものであれば、どうじゃ、オレもとうとう出世したぞと見栄をはりまくり、過剰装飾をほどこした悪趣味な屋敷になるのもむべなるかなということらしい。
園内のあちこちに、えたいの知れない彫りもののような、白っぽい庭石が置かれていた。
これが太湖の底から産出する太湖石らしい。
日本の枯山水の庭石に影響を与えたというけど、建物と同じように悪趣味だ。
わたしたちはバスにもどった。
涼しくてひと息つける場所はバスのなかだけである。
つぎの目的地は有名な寒山寺だ。
いくら有名でも、宗教ギライのわたしにはあまり関心のないところなんだけどね。
目的地よりも、わたしにはそこに至るバスの外の景色のほうがずっとおもしろかった。
蘇州の街並みはもうとにかくゴミゴミしていて、車窓にはけっして気どったところのない、中国の人たちの普段の生活をふんだんに見ることができた。
絞めたニワトリを束にして自転車で運んでいる人や、羽根をむしったニワトリを目の前で調理して食わせる露店など、ちょっと日本ではお目にかかれない光景もあちこちで見た。
寒山寺の近くの駐車場から、暑いなかをまたぞろぞろと歩く。
寺の門のすぐ前に運河があり、アーチ橋がかかっていた。
橋のたもとに車両に交互通行をさせるための信号機があったけど、短い橋であるし、あまりきちょうめんに守られているとは思えない。
橋の向こうにレストランふうの建物があった。
古い家だけど、なかなかいい感じで、魯迅の小説に出てくる孔乙己(こういっき)が昼間から一杯やっていそうな雰囲気がある。
橋の上から上流を眺めると、ワラを満載した運貨船がじゅずつなぎに係留されているのが見えた。
寒山寺は張継の詩「楓橋夜泊」によって知られる。
月落ち 烏啼きて 霜天に満つ
江楓の漁火 愁眠に対す
姑蘇城外 寒山寺
夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る
いい詩である。
詩はステキだけど、変にそっくり返った屋根のひさしや、黄色く塗られた塀など、寒山寺もぜんぜんいいとは思わなかった。
ある堂のなかには、金ぴかに塗られたたくさんの羅漢の像があって、どんな人でもきっとこのなかのどれかに似ているなんて解説があったけれど、そんなものは日本でも聞いたことがある。
別の堂のなかに趣味のわるい寒山拾得の像があった。
わたしはこの2人の坊さんについて、森鴎外や井伏鱒二の小説などで読んだことがあるだけで、それ以上なんの知識もないし、無理に知りたいとも思わないのである。
ほかに知りたいと思う人はいないだろうからリンクも張らない。
樹木が多いのだけが取り柄の寒山寺で、境内で燭台にローソクをともしている人たちがいた。
共産党政権下では宗教は迫害されているはずだけど、どうしてどうして、数千年の歴史をもつこの国で、熱心な信仰心はすたれてないようだった。
とけて落ちた古いローソクは下の水桶のなかに溜まるようになっており、赤いローソクなので、それはなかなかきれいだった。
ある場所では動物をかたどったゴミを入れる陶器製の容器を見た。
「街道をゆく」のなかで司馬遼太郎が、変に見せつけようという作為がなく、素朴でなかなかいいとほめていたものである。
これがそうかい、ナルホドねと、わたしもつまらないものばかりに感心している。
文化大革命では紅衛兵たちが全国の寺院で猛威をふるった。
寒山寺も廃仏毀釈の難にあったはずだけど、有名観光地ということで、早々に立ち直ることができたのだろうか。
わたしはこのとき以外の旅で、地方でじっさいに荒廃した寺院を見たことがあるけど、それでも修復作業も始まっていたようだから、観光資源としての古い寺院の価値が徐々に理解されてきたらしい。
よい点は日本を見習えということかも知れない。
かっての中国は中華思想でわかるように、自分たちが宇宙の中心であると考え、メンツにこだわる見栄っ張り主義的傾向があったけど、それがいまでは、いいものは日本のものでも真似ろということになると、その柔軟思考は恐るべきものであるような気がする。
むしろ日本のほうが偏屈な考えにとらわれているような気さえしてしまう。
ぐるりとまわって門の前へもどると、バスにもどるまえにほんの15分ぐらいの時間がとれた。
それっと、みやげ物屋の並ぶ路地の奥をのぞきに行ってみた。
この路地も、両側は古くからある家ばかりだから、スペインの小路にまよいこんだような、なかなかいい雰囲気のところである。
路地を抜けるとヤナギが風に吹かれている河畔に出た。
門前の運河がそこで広い河と合流しており、合流地点にレンガ造りの大きな城壁のようなものが建っている。
3、4階建てのビルくらいある巨大なもので、かなり古いものらしい。
これはようするに橋なんだけど、同時に運河を出入りする船の関所のようなものだったようだ。
入口に料金所があり、見学するにはお金をとられるし、時間もなかったから橋の上までは行ってみなかった。
河畔に立って眺めていたら、地元の子供たちがこの橋の下で水浴びをして遊んでいた。
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