中国の旅/Shanghai
英語のShanghaiには、ポッと出の田舎者が薬かなんかで眠らされて、気がついたら遠洋航路の貨物船の罐焚きにされていたというような意味があるらしい。
まだ上海が魔都といわれていたころの造語である。
今回はわたしも一歩まちがえば罐焚きの運命だったかも知れないハナシ。
ひと晩ゆっくり寝て、すこやかに目をさましたわたしは、今日もいちにち歩きまわるぞーと張り切って銀河賓館を出た。
すぐに2人の中国人が話しかけてきた。
ワタシたちはもうすぐ日本に行く予定です、コーヒーでも飲みながらお話しできませんかだって。
こいつら、ポン引きじゃないか。
わたしがまず思ったのはそういうことだった。
このころの上海には、日本人をカモにしようという手合いがうじゃうじゃいると、どんなガイドブックにも書いてあったのだ。
しかしここが考えどころだ。
ポン引きでもなんでもいいけど、通訳がいないことには、わたしは前日同様、いちにち歩きまわるだけで終わってしまうかも知れない。
こいつらを通訳代わりに使えれば昼メシぐらいは安いものだ(92年当時、中国の物価は日本とは比べものにならないくらい安かった)。
ひょっとすると中国の売春業界の実情も教えてもらえるかも知れない。
そこで話をすることになったけど、用心深いわたしは彼らの案内する店ではなく、銀河賓館のロビーでコーヒーを飲むことにした。
こんなふうに絶対に相手の案内する店には行かないことが、カモにされないコツである。
2人のうち、ひとりは口もとに腫れもののある貧相な男性で、とりあえずポン引きAさんと呼ぶけど、こっちのほうがよくしゃべった。
もうひとりはポン引きBさんと呼ぶけど、中学校の体育教師みたいなタイプで、そんなに悪い人間には見えなかった。
日本に行ってなにをするんですかと訊くと、ポンAは絵の教師をしますという。
あのねえ、日本じゃだれでも簡単に教師ができるわけじゃないんですよと、つい余計なお節介をいいそうになった。
ポンBは日本に行くためにもう30万円を払い込んでいるという。
こいつはサギに引っかかっているんじゃないかと、日本の実情を知っている人間なら誰でも思うところだ。
いまと違って、景気のいい日本に中国人の密航者が大勢押し寄せていて、「蛇頭」なんていう密航組織が中国人を食いものにしていた時代である。
わたしはいくつか忠告してみたけど、野望に燃える彼らにそれ以上余計なことはいわないことにした。
彼らは男だから、苦い体験をするにしても、本人の努力と幸運さえあれば、かならず悪い目が出るとはかぎらない。
ポンBは妻と子供がひとりいるそうで、ポクシングの心得があるから、ヤクザでも怖くないという。
そのうちボンAが、南浦(なんぽ)大橋を見に行きませんかといいだした。
南京の長江大橋より大きいですという。
なんで橋なんか見せたがるのかとあとで調べてみたら、この橋の完成は1992年の12月で、このときのわたしの旅のほんの数日まえだった。
開発が進む浦東地区と上海市をむすぶ自動車専用の近代的な橋で、どうりで上海人が自慢したがるわけだ。
バスで行けるのかいと聞くと、タクシーですぐですという。
そんなものに興味はないけど、とりあえず街まで出るきっかけにはなるので、行ってみることにした。
タクシーはたまたまホテルで客を下ろしたものを、そのままわたしが捕まえた。
これなら彼らがあらかじめ示し合わせた仲間の車でないことが明らかだから、誘拐されて罐焚きにされることもないだろう。
すぐといったくせにやっぱり時間がかかった。
踏切で待たされたり、堀割りのわきを抜けたり、高層アパートの前を走ったりして、わたしにはさっぱりわからない道をちょこまかと走った。
市場のまえを通ったから、野菜や果物について質問してみた。
貧相なポンAがよくしゃべって、バナナはもっと南のほうから運ばれてくるなどと教えてくれた。
彼はまた、ロシアのエリツィンはだめな大統領だなどという。
けっこう外国の事情にも明るそうだし、よその国のことなら政治的発言もそんなにやかましく規制されているわけではなさそうだった。
南浦大橋まで、じっさいにはメーターで40元以上かかった。
わたしは不愉快になってしまった。
だいたい近代的な橋なんてものに、わたしは最初から興味がないし、車は橋の上では駐車することはできないそうで、どんどん走って向こう岸にまで行く。
橋を渡るにもむろん金を取られるのである。
向こう岸は上海の特別開発区として指定された地域で、橋上から高層ビルや工場のエントツなど、それなり見るべき景色はあるけど、そんなものを見ようとしたら、メーター料金がますますかさんでしまう。
これ以上だまされてたまるかとわたしは思う。
もういい、Uターンしてくれとわたしは向こう岸の展望台の下でわめいた。
タクシーを待たせ、橋の写真を2枚撮り、ポンAと連れションをして、わたしは早々に市内へもどることにした。
南浦大橋は中国で最大の橋だと2人はいうけど、地震大国の住人からみると、やけに平べったい橋で、わたしの見たところでは横浜のベイプリッジのほうが規模ははるかに大きい。
このときの上海市には、南浦大橋に加えて、黄浦江の下流にもうひとつ楊浦大橋が完成ま近だった。
このふたつの橋ができるまでは、黄浦江を渡るには連絡船を使うしかなかったけど、現在の上海には橋やトンネルをあわせると、川を渡る方法が6つか7つはあるようだ。
最近ではトロッコ列車みたいなものに乗って、変幻するイルミネーションの中をいく観光用のトンネルまである。
橋を渡ってもどる途中、橋の下に畑が見えた。
ちなみに“畑”という漢字は日本にしかない文字で、漢字発祥の中国にはないそうである。
わたしは上海でほとんどま近に畑というものを見ていないので、つぎに中国を訪問したら、ぜぴ農地や農家の暮らしも見てみたいものだと思う。
橋のこちら側にもどると、場所はちょうど外灘(中山東路)の南の端あたりだった。
ここで夕クシーを下りて、あとはぶらぶらと中山東路を、物見遊山で歩きながら北上することにした。
ここからポン引き氏2人がいい通訳兼説明者になった
少しでもわたしが興味を示すものがあると、彼らがすぐに説明をしてくれる。
おじいさんの写真を撮りたいというと彼らがすぐに話をつけてくれた。
わたしが小さな病院に目をとめると、2人が中へ入って見学していきましょうという。
かまわないのかいと聞くと、かまいやしませんという。
病院は町の診察室といった規模で、廊下の両側にいくつかの小部屋があり、年寄りたちが診療を受けていた。
内部は暗く、患者にはおばあさんが多くて、このへんは日本とも共通している。
病院を出て歩いているうちに、彼らは小さな商店の前でわたしの足を止めて、ちょっとこの会社の社長さんに紹介しましょうと言い出した。
いくらなんでも見ず知らずの社長さんに紹介なんて唐突だから、そんな無茶なというと、かまいやしません、上海の人はみんな日本人に興味を持っていますからという。
ベつにあらかじめ示し合わせた謀略でもなさそうだったから、わたしは彼らにまかせることにした。
彼らの案内で商店の3階に上がると、そこに屋根裏部屋のような事務所があって、男2人、女1人がいた。
男のひとりが社長で、女は秘書だそうだ。
この秘書は、ちょっと中国人とは思えないバタくさい顔をした美人だった。
ポン引き氏2人がどんな紹介をしたのか知らないけど、事務所の3人はなかなか愛想がよく、わたしにお茶をすすめてくれた。
彼らの説明によると、この店は中国各地の物産を扱う露店の元締だそうだ。
わたしは彼らの写真を撮り、ぜひ日本にもいらして下さいとお世辞をいっておいた。
社長はわざわざ階下まで見送りに来てくれた。
どうも無責任な話である。
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