中国の旅/蘇州
わたしたちが蘇州の駅に着いたときには、もう影がだいぶのびていたものの、まだ明るかった。
蘇州の駅前もだだっ広い。
有名な観光地らしく、駅前にたくさんの観光バスが停まっていて、やはり駅前に大勢の人たちがたむろしていた。
駅には蒋越慶クンというガイドが待っていた。
蒋クンは名前はいかめしいけど、目がつぶらで、まだ少年のような顔をした若者である。
彼はあとでまた出てくるから、さて蘇州。
冒頭に載せたのはわたしが1994年に再訪したときの蘇州の駅だけど、その後この歴史のある街を観光都市として売り出すべく、中国政府は大改造したようだ。
現在の蘇州駅はこのすぐあとに出てくるから、見ておどろくな、たまげるな。
蘇州は市内にたくさんの運河が交差し、その美しさから東洋のベニスと称される街である。
素晴らしいところだといっても、わたしみたいな素人のいうことなんか信じないのが日本人だから、ここでは司馬遼太郎の「街道をゆく・江南のみち」からの一節を引用しよう。
“民家は運河のふちに密集している。どの民家も白壁に暮らしのも膏(あぶら)がしみついていて、建てられて何百年も経ている家も多いだろうと思われた。古びて陋屋になりはてた家ほど美しく、その美しさは水寂びともいえるようなにおいがある”
ちなみにこのとき作家に同行していた挿絵担当の須田剋太画伯は、パリの壁より美しいとさえいっていた。
わたしはこの本のこの部分が好きで、理屈ぬきに蘇州だけは見たかった。
レストランで夕食をすませたあと「南林飯店」というホテルへ入り、わたしたちはこの夜もあわただしく、夜の蘇州へ探検に出ることにした。
この夜のメンバーは・・・わたしと愛ちゃん、例の女子大生ふたり、男性が3人、おばあさん2人、老画家とその娘さんに薬剤師の老夫婦などで、全員で13人になった。
街へ繰り出したときにはもう21時ごろになっていた。
ホテルの門の前に掘割り(クリーク)があり、小さな橋を渡った先にあるT字路を左折してぶらぶらと歩いてみた。
あまり広い道路ではなく、両側にプラタナスの並木と民家や商店が並んでいる。
中国のプラタナスは、並木なのだからまっすぐに育てればいいものを、みな横に枝をひろげた木ばかりである。
上海に到着したばかりのころ、わたしはトラックがこの枝を引っかけて立ち往生したのを見た。
蘇州は運河の街なので、この夜わたしたちが歩いた通りも、民家のすぐうらが幅4、5メートルの掘割りになっていた。
掘割りは街を縦横に走っているから、なかには船が往来できるような大きなものもある。
ネット上にも運河の写真は氾濫していて、借用するのに不自由しないんだけど、その後中国政府はメンツをかけて、蘇州の運河をきれいにしたらしい。
最近の写真をみると、けっして不潔ではない。
つぎの3枚の写真は、わたしが1994年に行ったときの運河のようすで、汚いのがはっきりわかるけど、そのときついでに民家の白壁まで塗り替えたらしく、この街の歴史もきれいにぬぐいさられてしまった。
歩いていると歩道の上で、男性が水を汲んでいるのに出会った。
おかげで歩道のまん中に井戸があるということがわかってしまった。
それと知らなければ見過ごしてしまいそうな、せいぜい50センチほどの、丸いみかげ石の輪の中心に穴がぽっかり空いていて、そこから紐のついたバケツをたらすのである。
そのまま飲めるとは思えないけど、かっての蘇州城で籠城に備えたものなら、沸かしてそのまま飲まなければいけない理由もありそうだ。
道路の両側には土産もの店が多かった。
列車のなかで服務員が売っていた水墨画は古くさいものばかりだったのに、ここにはかなりカラフルでモダーンな絵もあった。
版画にもかなりおもしろいものがある。
絵がほかの品物に比べると高いのは当然のことと思うけど、これはなんとかいう大家の絵ですといわれても、予備知識のないわたしにはさっぱりわからない。
当時のわたしは(いまも)絵を飾るほどでっかい家に住んでないから、いくらステキな絵でも買うわけにはいかない。
わたしたちが歩いていると、店からかならず呼び込みの声がかかる。
ほとんどの店でカタコトの日本語が通じるようだった。
絵以外でわたしか関心を持ったのは、印鑑用の石材だった。
これは大きさやかたちに種類が多く、ひとつぐらい貯金通帳用に持っていてもいいなと思ったけど、わたしが気に入ったものは気安く買える値段ではなかった。
呑ん兵衛のEさんがホテルでこれを購入したといい、前夜に頼んでおくと、朝までにちゃんと名前を彫っておいてくれるそうである。
わたしたちはあっちこっちの土産もの店で値切り交渉をしながら歩き続けた。
いっしょにいた男性のなかに、始めからいきなり半値にしろなどと強引な値切りをする人がいて、店のほうでは首をふるけれど、それではいらないよといって店を出かかると、たいていは向こうが折れる。
薬剤師の老夫婦はえんりょ深い人らしく、全員が応援するまえに買物をしてしまって、あとで後悔していた。
愛ちゃんはみやげを大量に買いこむつもりで大型スーツケースを引っぱってきたのだから、ここでも品物を物色し始めた。
わたしも値切りに挑戦してみた。
ある店では若いきれいな奥さんがわたしの交渉相手になった。
わたしはキレイですね、美人ですねとお世辞たらたらで値切ってみた。
知らない人が見たらわたしが人妻をくどいているように聞こえたかもしれないけど、わたし自身の買物のためじゃない。
わたしはこの旅でひとつも土産を買わなかった。
しかしあまり相手の立場を無視して、こちらの要求ばかり押しつけたのでは粋とはいわれないから、値切りも一種のお遊びと考えて、適当なところで妥協するべきだろう。
そんなわたしに、若奥さんがショーウインドーのなかにあった小さな硬貨をくれた。
品物を買ったのは別の人だけど、わたしがオ金ガ大好キと冗談を言ったためである。
買物をすませたあと、わたしたちは小さな食堂に入って休憩していくことにした。
できるだけ冷えたビールのありそうな店というわけで、露店は敬遠したんだけど、2階に案内されたその店にもやはり冷えたビールはなかった。
だいたい冷えたビールなどという概念は、中国の一般大衆のなかには存在しないのかも知れない。
なにか食べてみようというので、従業員の若い娘に、手まねでいろいろ注文してみた。
男性ふたりが、そういえば中国に来てまだいちども搾菜(ザーサイ)が出ないねという。
そこで搾菜をということになったものの、わたしたちの誰も搾菜のザーがどんな漢字なのか知らなかった。
メニューを見たがどうも搾菜らしきものは載ってないようである。
いざとなったら絵を描けばいいさとたかをくくっていたわたしも、搾菜なんて描く自信はなかった(帰国してから調べてみたら広辞苑にも載ってなかった)。
ザーサイ!と言ってみても、店の主人は首をかしげるばかりなので、「五色菜」とかいうメニューを注文してみることにした。
よくわからないけど、五色のなかに搾菜も入っているかも知れない。
しかし、やがて運ばれてきた五色菜にも搾菜は含まれていなかった。
いや、あるはずだ、北京かどこかで食べた記憶があるという人がいたけと、搾菜についてはそれで沙汰止みになった。
薬剤師の奥さんがわたしに、蛙のことを中国語でなんというのと訊く。
わたしが南京でカエルを食べた話をしたからである。
奥さんは蛙の置物を集めているのだという。
搾菜は描けなくてもカエルの絵なら描けるから、これこそわたしの出番である。
わたしは紙にさらさらと蛙の絵を描いて渡して、おかげで奥さんは、帰りがけに蛙の置物をかんたんに手に入れることが出来たそうである。
わたしたちはばらばらになってホテルにもどった。
帰路、道路のわきに公衆便所があるのに気がついた。
そういえばこれまでも街を歩くとよく公衆便所を見かけたもので、中国では一般家庭に水洗の設備がないから、おもてで用を足せるように公衆便所がたくさんあるのかと思ったけど、そればかりではないそうである。
一般家庭では便所が不備なために、夜間は小便壺のなかに用を足す。
壺は翌日公衆便所にあけてくる。
するとお役所がまとめてそれを回収する。
これなら1軒1軒をまわる手間がはぶけるということらしい。
あんまり感心しないものの、現在の状況ではやむを得ないことなのだろう。
ホテルにもどったときには深夜の1時に近かったけど、愛ちゃんたちはまだもどっていなかった。
ホテルの門に気がつかず、少し行き過ぎてしまったという。
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