中国の旅/上海再訪
1992年の12月、2度目の中国へ飛び立つ日がきた。
ほんとうは上海に到着したときから書けばいいんだけど、わたしの旅がどんなものかを知ってもらうために、あえて家を出るところから書く。
9時に家を出て、10時に新宿から成田行きのリムジンバスに乗った。
オフ・シーズンらしく、バスはすいていたが、乗車するとまえの席に韓国人らしいグループがいて、ニンニクの臭いがしたのには閉口した。
彼らのうち、ななめ前に座ったごつい男性は耳がつぶれていた。
その前にはClAのスパイのような米国人がいる。
そしてわたしのま横の席には2人連れの日本人らしい女性がいて、やたらになにかほうばっていた。
片方は美人だから、女優とマネージャーか、令嬢とお付きのような関係に見えた。
こんなふうに、わたしの旅は出だしからハードボイルド作家になったような気分なのである。
成田空港につくと、高速道路のゲートで最初の検間がある。
乗客全員がいったんバスを下りて、長机をはさみ、10人ほどの係員の前に立つ。
パスポートを見せてというから、ありませんと答えた。
パスポートは空港内で旅行会社の係員から受け取ることになっていたのである。
身分証明書はありますかとというから、これもありませんと答えた。
ふつうなら免許証でも見せるところだけど、中国でそんなものが使えるわけがないから、紛失を恐れたわたしは家に置いてきてしまったのだ。
このつぎからはなにか持っていて下さいと係員は不満そうである。
旅行の日程表を見せてなんとか放免された。
今回は団体旅行ではなく、まったくのひとり旅だ。
初めての海外旅行だった夏の旅では、フラストレーション100パーセントで、マグマ溜まりが極限にまで達したわたしは、やっぱり自由に行動するには団体旅行はダメだという結論に達し、自分であちこちの旅行会社にあたって、ようやく理想的なツァーを見つけたのである。
それは「上海4日間フリープラン」というもので、料金は7万7千円、往復の飛行機とホテルは旅行会社まかせ、ただし現地ではすべて本人の自由行動というものだった。
まだ海外旅行に不慣れなわたしには、理想的な旅のスタイルである。
夕ーミナル・ビルの中を横切って、かって知ったるHカウンターに行くと、カウンターの中の女性がわたしの搭乗券引換証をチェックして、あそこで荷物のX線検査をして下さい、それが終わったら12時半にウンターの横へ集まって下さいという。
わたしは本屋で雑誌を買ってきて、読みながら時間をつぶすことにした。
国際空港で本を読んでいると、それだけでなんとなく国際的ジャーナリストにでもなったような気分である。
12時半になってカウンター横へ行ってみると、(わたしが申し込んだ近畿日本ツーリストではなく)JTBの女性係員がやってきた。
スリムできれいな娘だけど、彼女が中国まで添乗してくれるわけではない。
成田空港は第2ターミナルが完成直前で、帰りは新しい夕ーミナル・ビルから出ることになりますなどという説明を聞いただけだった。
搭乗券を見るとわたしの席は喫煙席になっていた。
タバコは吸わないんですがねえと係員に苦情をいうと、あ、そうですかといって、彼女はすぐ新しい券と替えてきてくれた。
それでわたしの席は窓ぎわということになった。
出国審査場のカウンターの前にならんで、ひとりづつパスポートや搭乗券の有無をチェックされる。
手荷物のX線検査場では、いかめしい顔の男性点検係が、わたしのダウン・ジャケットを袖の先まで揉んでみて、ふっくらした羽毛の中になにか隠していないかと検査した。
むろんわたしは爆弾を隠し持っていなかったから、なにごともなしにパスして、ようやく旅客待合室にたどりついた。
出発までにはなお1時間以上ある。
わたしはソファに座ったり飛行機の発着をながめたりしながら、14時の出発時間を待つ。
中国東方航空の飛行機はすでに目の前に停められて、貨物の積み下ろしをおこなっていた。
料金が安いのだろうか、1日1便のこの飛行機は、安いツアーやわけ知りの旅行者に愛用されているらしく、わたしの前回の旅行も東方航空だった。
そのおりに写真を撮ったスチュワーデスはいないかと、搭乗したあと目で探してみたけど、いないようだった。
やがて出発時刻がきた。
この日の成田空港は時おり日のもれる曇り空だった。
飛行機が離陸すると、しぱらく雲の上の単調な飛行が続く。
雲はまだらで時々海面がのぞいていて、海面に島のようなものが見えたけど、それは雲の影だった。
雲の上だからむろん頭上の空はまっ青に晴れている。
窓外の景色があまりゆっくりしているので、飛行機が時速800キロに近い速度で飛んでいると信じられない。
わたしはふと、窓の外のどこかそのへんにカモメでも飛んでいないかと思ってしまった。
もちろん成層圏に近いこんな空の上を、鳥が飛んでいるはずはないから、あまり飛行機に乗ったことのない詩人の妄想というべきか。
16時20分にアナウンスがあって「到着まで20分」という。
上海は晴れだとも。
そしてその10分後にとうとう大陸が片鱗をあらわした。
全体に灰色の霞がかった日だったけど、まず河口の砂州のような、皿の形の島がいくつか見え始める。
人家のある島もあれば無数の川が蛇行しているだけの島もある。
ついで一直線にのびた大陸の海岸線があらわれた。
このころには飛行機はかなり高度を下げているから、きちんと方形に仕切られた農地、民家、道路、水路、そして高層ビルなどがもう手にとるように見える。
山はむろんのこと、森や林といったものがまったく見えず、畑ぱっかりで、日本に比ぺると樹木に乏しい景色だなあと思う。
虹橋空港の滑走路に接地したのは17時すこしまえ(中国時間は1時間遅れ)だった。
夏に見た滑走路のわきの雑草は、すべて茶色に変色していた。
ぞろぞろと人々に並んで、ターミナル・ビルまで通路を歩く。
虹橋空港は以前のままで、空港まえの緑地には、初めて見たときこれが共産主義の国かとおどろいた、大きなマールボロの看抜もそのまま立っていた。
7月にはうだるような暑さに開口したものだけど、今回は拍子抜けするほど暖かい。
空港のロビーにはちっちやな女の子のガイドが待っていた。
日本人にもよくいるタイプの、まあ、可愛いといえる娘である。
全員でこの夜のホテル「銀河賓館」に向かうことになったけど、このホテルは前回の旅の最終日に泊まった、わたしにとってはかって知ったる近代的なホテルである。
空港から15分ぐらいマイクロバスに乗る。
銀河賓館に着いてロビーでまた幼稚園の生徒のようにがやがやした。
ガイドさんも大変である。
わたしと同じフリー組は3日分の朝食券だけをもらって、それぞれの部屋へ落ちつくことになった。
わたしの部屋は1911号室。
19階でエレベーターを下りて、右、右と2回廊下を曲がり、さらに左へ曲がったすぐ角の部屋である。
ホテルは近代建築に見えるものの、安普請らしく、まわりの部屋のドアの開け閉めの音がうるさく、19階まで車のホーンもかなりやかましい。
部屋におちついて窓から下を見てみた。
眼下に広いバス通りが見え、それは湾曲しながら高層ビルのそびえるはるか彼方へと消えていた。
よくわからないけど、そっちが虹橋空港、つまり市内と反対側の方向らしかった。
部屋はダプルベッド、バストイレつきで、わたしひとりで占領するには文句のつけようがないくらい広かった。
わたしはイスタンプールに到着した007のように、服をぬいでゆったりとくつろいだ。
盗聴装置はないようだったけど、お湯を入れたポットがなく、バスの湯も出なかった。
ポットは注文するとまもなく持ってきた。
バスの湯が出ないのはわたしのカン連いで、蛇口の栓をまわすだけではなく、栓全体を傾けるのである。
やってきた客室係の女の子に、じつはこれがねえと栓を(なにげなしに)傾けたら、ちゃんと湯は出たので恥ずかしい思いをした。
テレビは5チャンネルくらいあって、CNNもやっていた。
マイケル・ジャクソンの歌番組までやっていた。
あとは中国の国内ニュースや劇映画などだったけど、現在の中国人には外国の情報も不足しているわけではなさそうだった。
別送りにした荷物の間い合わせや、日本円と中国の兌換券(だかんけん)との交換のために、部屋とロビー、フロントを何度か往復していると、エレベーターの中でいろんな中国人に出会う。
部屋で食べるつもりなのか、どんぶりに盛ったゴハンをかかえたまま乗ってくる人もいた。
フロントには日本語のわかる女性がおり、またほとんどのフロント係には英語が通じる。
この目の兌換券の相場は1万円が443元くらい。
1元が約22円で、前回は25円だったから、いくらか円の価植が上がっていた。
フロントやホテルのレストランには美女が多いけど、日本人の目で見たかぎりでは総じて勤務態度がよろしくない。
客の前で仲間同士の私語、談笑はしょっちゅうである。
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