中国の旅/上海のこと
さて上海だ。
わたしがこの旅でいちばん見たかったところである。
無錫や蘇州も素敵だったけど、その魅力は現地でじっさいに見て発見したものだった。
上海はそうではない。
わたしはさまざまな媒体から、近世の上海の歴史を知らされており、ずうっと以前からこの街を見たい見たいと念願していたのだ。
米国映画の主題歌に「上海リル」という曲がある。
これは、似たようなタイトルと雰囲気の日本の歌謡曲もあるけど、もともとは「フットライト・パレード」というJ・キャグニー主演のミュージカルがオリジナルだ。
問題はこういう映画でも、ほとんどの場合上海が、アヘンの煙がただよい、金髪の娼婦が妖しく微笑み、小人や奇形児のグロテスクな見せ物という、オリエンタル・ムードいっぱいの悪徳の都として描かれていたことだ。
なんで悪徳の都なのかというと、ウィキペディアの記述にも
『1920年代から1930年代にかけて、上海は中国最大の都市として発展し、「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれ、ナイトクラブ・ショービジネスが繁栄した』
とある。
悪徳というのはどうも昔から人間をひきつけるものらしく、いまのアメリカが無知な輩から人気があるのもそのせいかも知れない。
上海の近代史はこの町が1842年に、アヘン戦争の結果、欧米列強の租界として割譲されたときから始まる。
租界というのは一種の治外法権地域で、中国人の犯罪者でもここに逃げこめば中国の法律は及ばず、そうかといって居住する外国人にも、本国の法律が適用されにくいという、宙ぶらりんの状態にあったところだ。
中国の法が及ばないということで、清朝政府の圧政に苦しんだ民衆がなだれのように流入した(ついでに日本からも少なからぬ人たちが流れ込んだ)。
せまい範囲に思いきり人間が詰めこまれ、犯罪や快楽、弱肉強食の搾取など、ありとあらゆる悪徳が横行していたわけだ。
こういう傾向は香港やマカオ、青島のような租界・租借地・植民地でも共通していて、当時の清朝政府がいかに中国の民衆にとって過酷であったかがわかる。
租界のなかの治安は欧米列強がつくった租界警察が受け持っていたけど、中国の犯罪者でも警察にワイロを渡し、ゴマをすり、外国人に手を出さないかぎりお咎めなしだったから、青幇、紅幇といった中国版マフィアの根城にもなった。
上海に流入した人々の大半は、けっきょく他人に食い物にされるだけだった。
にもかかわらず、人間というものは未知の世界の自由にあこがれるものなのか。
ほんのひとにぎりの金持ちに搾取されるだけがせいぜいの人たちが、それでもアメリカにあこがれる。
わたしにとって永遠の謎である。
この街の写真をながめると、大きな川に面していることがわかる。
わたしはこれを最初は揚子江(長江)かと思ったけど、じつは長江の支流である黄浦江という川であることがわかった。
黄浦江の河岸はBUNDと呼ばれて、租界時代にこの河岸に西洋式の摩天楼が建ち並び、アジアらしからぬ異様な景観を生み出した。
上海は戦前から東京にもおとらない大都会だったのである。
ロマンとスリルにあふれた、ミステリー小説の舞台にふさわしい大都市が、日本のすぐ近くにあったわけで、第2次世界大戦のまえには、各国の間諜が暗躍するミステリー映画や小説の舞台にもなった。
古い映画では前述した「フットライトパレード」や、M・デイートリッヒの「上海特急」があり、もうちっと最近では「砲艦サンパブロ」にもちょっと上海が出てきたけど、こういうのはアメリカでセットを組んで撮影したかも知れないから、あまり信用できない。
本物の上海が見たかったら、このブログにも取り上げた「ふたりの人魚」が、わたしがまだ熱心に中国に通っていたころの上海を、荒々しく捉えていて印象に残る。
日本からいちばん近い外国といわれた戦前の上海には(韓国は日本領だった)、谷崎潤一郎や芥川龍之介、横光利一、金子光晴などの日本の文人たちも多く足跡を残している。
こうした評判は日本のエンターテイメント業界にも伝わり、岡晴夫(知らねえだろうなあ)の「上海の花売り娘」や、ディック・ミネ(知らねえだろうなあ)の「夜霧のブルース」、さらに「上海の街角で」や「上海夜曲」などの歌謡曲があって、みんな歌詞に上海が出てくるし、銀座の博品館では「上海バンスキング」がヒットしていたこともある。
この魔都といわれた街で生きた無頼漢は大勢いる。
中国の政治家である孫文や蒋介石も、その人生を裏側から眺めれば、けっしてきれいごとばかりではない無頼の要素があり、宋家の三姉妹にまつわる本などを読むと、彼らもギャングの一員ではなかったのかとさえ思えてしまう。
蒋介石さえ操ったとされる本物のギャングの杜月笙や、日本の軍属で阿片王といわれた里見甫(はじめ)もいて、まともな国や健全な街なんぞに興味のない、無頼を自認するわたしが興味を持たないわけがなかったのである。
その一方で誠実に市井に生きた人々もいた。
上海で日本書店を開業して魯迅らとも親交のあった内山完造、戦前の中国を取材した米国の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレー、まだジャーナリズムが公平であったころ、上海で同盟通信社にいた松本重治などなど。
彼らの人生を思うたび、わたしは計り知れないロマンを感じてしまうのだ。
租界から始まって、歴史に翻弄された都市が、いまでは押しも押されもしないアジアでも有数の近代都市になった。
わたしの期待が大きかったのも無理はない。
わたしはとうとう上海にやってきた。
そして結果は、絶望的に期待を裏切られる惨憺たるものでありました。
あらら。
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