中国の旅/南京長江大橋
中山陵のつぎは“南京長江大橋”を見学に行くことになった。
この橋はもともとソ連の協力で作られるはずが、中露の政治上の路線対立から、ロシア人が引き上げてしまったあと、1968年に中国人だけで完成させたものだそうだ。
一種の国威発揚事業、おらが国でもこのていどのものは作れんだぞという宣伝材料なので、団体旅行で南京に行くとたいてい連れていかれるところである(いまでもそうかは知らない)。
詳しいことはまたリンクを張っておいたから自分で学ぶこと。
エアコンの効いたバスで長江大橋まで行くとちゅう、高速道路の橋げたのようなものを建設している工事現場があった。
日本のそれに比べるとずいぶん薄っぺらな橋げただったから、朱さんに、このへんには地震はないのですかと訊いてみた。
そんなものはないという返事である。
そういわれてみるとこれまであちこちで見てきた建設現場の無謀ぶりにも納得がいく。
列車で見かけた建設現場では、鉄筋をほとんど使わず、レンガだけで5階建てぐらいのアパートを積み上げていた。
長江大橋はさすがにデカい。
とはいうものの、わたしは名所旧跡にはあまり興味がないので、橋よりも名にしおう揚子江、つまり長江を見られる期待のほうが大きかった。
中国には世界に名だたる長江と黄河というふたつの大河がある。
わたしが日本で知っていた長い川というと、幼少のみぎりから慣れ親しんだ坂東太郎こと利根川があるけど、そちらが全長300キロあまりなのに対し、長江は6300キロだから桁がちがう。
そんな大きな川は生まれてからいちども見たことがなかったから、これだけはぜひ見たかった。
バスは長江大橋のたもとに停まり、わたしたちはエレベーターで展望台へ上がった。
展望台といってもたいしたものではない。
橋は川の手前ですでに高架になっているから、終点まで上がってようやく、橋上の路面より建物1階ぶんぐらい高いところへ出るだけである。
わたしは長江を眺めた。
太湖と同じようにわたしの想像ほど広くはなかったものの、対岸まで1キロ半ぐらいあって、水はたっぷりしており、河べりの樹木が冠水していたから、いくらか増水ぎみだったようだ。
その後この上流に、世界最大の水力発電所である三峡ダムができるけど、工事が始まったのはわたしたちの旅の翌年からだった。
長江大橋は上下2階建てになっており、わたしたちが見学しているあいだにも、がらがらと音をたてて下段を列車が通過していった。
橋が完成してからこのときすでに25年近い歳月が流れている。
展望台から目で追うと、橋はまっすぐに長江を渡り、向こう岸でゆっくりと右にカーブして、そのまま対岸の景色のなかへとけこんでいた。
規模はたしかに中国人にとって誇り得るべきものだろうけど、しかし彼らに日本の瀬戸大橋を見せたらどんな顔をするだろう。
横浜のベイブリッジでさえ、長さはともかく、スケールは長江大橋より大きい。
ということは橋を見たときに考えたことで、現在は長江大橋の下流に「南京八卦洲長江大橋」というベイブリッジのような近代的な橋がかけられており、さらに川底をくぐるトンネル(南京揚子江隧道)もあるという。
架橋工事やトンネル掘削技術の進化は日本の専売ではなくなっているのだ。
わたしはほかの人たちよりひと足早く駐車場にもどり、被写体を求めてそのあたりをうろうろした。
近くの芝生に馬がいて、これは観光客を乗せて記念写真を撮るもので、中国人のグループが交代で馬にまたがって大喜びをしていた。
わたしは橋げたのあいだに人民軍の兵士がいるのを見て、写真を撮らせてくれと頼んでみた。
暴走族によくいるような顔をした若者2人だったけど、だめだと不愛想にことわられてしまった。
仕方がないから、そのへんに停められていた、BMWのような水平対向エンジンつきのサイドカーの写真でごまかす。
南京長江大橋の見学が終わったら昼食である。
街のレストランに案内され、チーパオ(裾の割れたチャイナドレス)の娘たちに歓迎されたものの、王さんも朱さんもけっして食事には同席しない。
ふたりとも中国人なので、彼らにも外国人のような贅沢は許されてないようである。
チーパオの娘たちのなかにかわいい子がいた。
わたしは彼女が肩ごしに料理を配膳しているとき、おぼえたてのスケコマシ用語で「ニン、クイシン(あなたの名前は)?」と訊ねてみた。
彼女はなんとかかんとかと答えたけど、さっぱり聞き取れなかった。
写真を撮られて平気な娘もいたけど、この子は気位が高いらしく、写真を撮ろうとするとさっと顔をそむけてしまった。
わたしだって当時はまだイケメンで、いまより若かったんだけど。
食事のあと南京駅に向かう。
これで南京見物は終わりである。
見物したところが悪かったのかも知れないけど、南京はつまらなかったというのが、ツアー仲間のおおかたの感想。
みんながいいところだと褒めたのは、無錫と、このつぎの蘇州である。
よくしゃべる女性ガイドの朱さんとはここでお別れ。
駅にはわたしたちのために増結された列車が待っていた。
南京から蘇州までは2時間半くらいの旅で、列車は来たと同じ道を引き返す。
駅で反対側のホームに停まっている列車の中国人たちを見ていると、そのモラルの欠如ぶりに驚いてしまう。
線路にゴミを捨てるのはあたりまえという認識のようで、わたしたちが見ている目の前で、列車の窓からぽいぽいとゴミや食べかすが捨てられる。
夏目漱石の「三四郎」を読むと、主人公が熊本から上京するさいに列車の窓から駅弁のカラを投げ捨てるシーンがあるけど、あれは明治時代の話だから、中国人のそうした意識は日本の明治なみということか。
もっとも捨てる神あればひろう神ありで、ある駅では乗客の捨てたペットボトルを、通りかかった農家のおかみさんが拾い上げ、じっと吟味して、そのまま持っていってしまった。
こういうのもアナログ式リサイクルになるのだろうか。
列車が走り出すとまもなく、日本から紙パックの日本酒を大量にかつぎこんできていたパンチマーマのKさんや、呑ん兵衛のEさんから紹興酒がふるまわれた。
Eさんの紹興酒は現地で仕入れたもので、彼が時々行方不明になるのは、酒を求めてのことだという。
愛ちゃんは、あらまあ、あははと叫んですぐにみんなの仲間入りしていたけど、こういう宴会騒ぎになると、わたしは悩めるゲーテの末裔で、愛ちゃんはノーテンキの見本みたいな性格だから、とうていかなわない。
他人の酒ばかり飲んでいては申し訳ないというので、たまたま停車した駅に売店が出ているのを見つけた愛ちゃんが、酒を買いに下車しようとすると、ドアには鍵がかかっていて開かなかった。
けしからん話だけど、外国人の列車はみな車両の出入口が施錠してあるのである。
買い物をしたいのだと服務員にうったえると、なかの1人が出ていってビールを買ってきてくれた。
愛ちゃんの欲しかったのは紹興酒だったのに、それは売ってないという。
ビールは当然冷えていなかった。
わたしたちの車両の半分は、欧米人のグループによって占められていて、彼らのなかにもKさんやEさんと同じタイプがおり、頼みもしないのに酒をあっちこっちについでまわって、彼我の境界あたりでは思わぬ国際親善の花が咲いていた。
この欧米人グループは無錫で下車した。
わたしは窓から外ばかり見ていた。
同じ道を引き返すのだから、景色もいちど見た景色ばかりで、水郷を思わせるのどかな田園風景だ。
農家の庭先に花が少ないのが気になった。
日本ならどんな田舎へ行っても、農家のまわりにたくさんの花が咲いていて、わたしを楽しませてくれるのに、中国で数時間も田舎景色を見続けていて、わたしが見た花はヒマワリ、ムクゲ、カンナぐらい、それもほんのわずかだった。
社会主義という体制の下では、人々は自分だけの楽しみを見出しにくいのだろうか。
ソ連ではアジア人の花屋が、けっこう成功していると聞いていたので、中国で花屋を始めたら儲からないかなと、遠大な妄想にふける。
この旅のまえのほうで、中国には小鳥が少ないと書いたけど、ずっと列車の窓から農村風景を凝視していて、ついに1羽のカラスも見かけなかった。
ハトはいないことはない。
水田のなかによく、人工のものらしい池がある。
なにか魚を養殖しているようだったけど、あまり面倒見のいい養殖場には見えず、それよりあちこちで池に浮かんだアヒルの大群を見た。
みんなそのうち北京ダックになるのだろう。
そんな池のほとりで釣りをしている太公望もいた。
蘇州が近づいてくると、農家の屋根の両端に鴟尾(しび)がめだってくる。
南京のほうの屋根にはあまりなかったようだから、やっぱり観光地として有名な蘇州のほうが、男がうだつを上げるのに有利なのかも知れない。
建物のほかの部分についてはさほど変化がない。
「街道をゆく・江南の旅」によると、レンガに漆喰という建築様式は、イスラム文化に起源があるといい、わたしたちの目からすると、窓の数はかぎられているようだし、日本の民家ほど風通しがよさそうに見えない。
このクソ暑いのにと思ってしまうけど、コンクリートの地下室がひんやりするように、厚いレンガの壁は閉め切ったほうがかえって涼しいのかもしれない。
平凡な風景ばかりではなく、わたしは無錫だったか南京だったかの郊外で、大きな臼のような形をした建造物を見た。
あれは原子力発電所の煙突ですねと誰かがいう。
線路から7、8キロのところに、そんな危険なものを造っていいのか。
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