中国の旅/外灘と南京路
上海という街は租界としてスタートし、租界として発展してきた。
最初は英国のみの租界だったけど、清朝政府が張り子の虎だということがわかると、フランスや米国も乗り出してきて、租界の規模はどんどんふくらんだ。
これは租界の区分地図だけど、中心部をイギリスとフランスが分割し、上のほうにアメリカ租界がある。
遅ればせながら日本もアメリカに間借りして、赤い円でしめした虹口地区というあたりに日本人居住区をつくった。
租界を象徴するのが、黄浦江に面して摩天楼がそびえる外灘(わいたん)である。
外灘というのは黄浦江と並行してはしる中山路のことで、1キロほどの区間に時計台のある江海関(税関)の建物や、半円形のドーム屋根の香港上海銀行、ジャズの演奏で知られた三角屋根の和平飯店などが一列にならんで、当時のアジアとは思えない異質の景観を生み出した。
現在はほとんどの建物が、カフェやブランドショップなど、できたころの目的とはべつの用途のために使われているようだけど、ひとつひとつの建物に由来を記した銘板がついているから、それを読みながらぶらぶら歩くのも楽しい。
詳しいことはまたリンクを張っておくから各自で調べるべし。
わたしはここを歩いてみたくてたまらなかったのに、92年の最初の団体旅行では、ほとんどをバスの中から見るしかなかった。
欲求不満が頭にのぼったわたしは、帰国するとただちに、もういちど上海に出かける準備に取りかかり、同じ年の暮れにそれを実現することになる。
当時の外灘の写真はつぎの紀行記でたっぷり紹介するつもりだ。
団体旅行の帰国前日は、華僑飯店で食事をしたあと、ホテルに一直線のはずが、ガイドの馬さんから提案があって、このままホテルにもどっても、宿泊予定の銀河賓館は街の中心部から離れているので、外出することはできません。
ですからバスで市内を見学していきましょうとのこと。
時刻は20時に近かったし、文句をいうわけにもいかないので、それに従うことにした。
走り出してすぐ、えらく広い通りを行くとき、バスの暗いライトで照らされた路面をながめてみたら、路面がすべて素晴らしい石畳になっていた。
この通りは「人民広場」となっていますが、戦前の共同租界時代には競馬場だったのです、と馬さんがいう。
そのすぐわきでは地下鉄工事をやっていた。
問題はこのあとで、わたしたちのバスは、ふたたび人間と車でごったがえす、市内のもっとも繁華な通りへと突入していった。
上海でいちばんにぎやかな南京路だったようだけど、まるで新宿の歩行者天国なみの混雑である。
しかもそこへバスからトラックから三輪車、オートバイ、人力車まで平気で侵入してくるから、その混乱ぶりは殺人的だった。
この混雑のなかでも、彼らはUターンできるとなったらどこでも平気でUターンしてしまう。
これはじっさいにわたしたちのバスがやったことだけど、ゆるゆると走っているバスが、歩行者の肩をぐいと押してしまったことがあった。
歩行者はコワい顔で運転手をにらみはしたものの、それ以上怒るようすではなかった。
日本だったらそこいら中で、運転手同士や歩行者とのとっくみあいのケンカが始まっていたかも。
現在の南京路はそのほとんどが終日の歩行者専用道路(ホコ天)になって、道路もきちんと整備され、租界のことなどみじんも知らないような若い女の子でいっぱいだ。
派手でにぎやかで、まわりが高級カフェやブランドショップばかりじゃ、わたしみたいなネクラには行きずらいところなんだけどね。
調べてみると、現在の南京路は長さが6キロもあって、世界最大のショッピングモールだという。
たぶん韓国の有名な明洞通りより、南京路のほうがにぎやかだと思うし、こっちには瀟洒な住宅のならぶかってのフランス租界もあり、黄浦江の下を観光列車で抜ければ、たちまち超近代的な高層ビルの乱立する対岸の浦東新区にも行ける。
なによりここには歴史がある。
遊びで行っても歴史に興味を持っても楽しいのが上海なので、知らない人がいたらモッタイナイとだけいっておこう。
上海の宣伝ばかりしてないで、本題にもどる。
バスがまきこまれた南京路は、92年当時はまだホコ天はなかった。
車の数はそれほど多くないんだけど、人がいっぱいで動けないのである。
馬さんが、今日は土曜日だから、ふだんより少し人が多いですねという。
電気節約ということで、ほかの場所ではたいてい街は暗かったのに、ここだけはネオンがきらめき、ウインドーの照明は煌々として、夜景はまぶしいくらいだった。
動かないバスのなかで、すぐわきにあるデパートを見るともなしに眺めていたら、誰かが、おっ、あの女を見ろと叫んだ。
デパートでもクーラーなんか効いてないらしく、そのかわり扇風機が空気をかきまわしていて、ショッピングをしている女性のスカートがふわふわと風にふくらんでいるのである。
あぶなっかしい光景だった。
そのうち地下鉄の上のマリリン・モンローみたいになるのではないかと期待したが、そういうことはなかった。
この程度でおどろいちゃいられない。
中国の女性の大胆さ(というより恥じらいのなさ)については、ビックリさせられることがしょっちゅうあった。
服装は近代的であるのに、まだそれがイタについてない女性が多いというべきか。
路傍で大股をひろげて座りこむなんてのはザラ、愛ちゃんが見た自転車の女性は、暑かったせいか、スカートの裾をひょいとハンドルにひっかけて、さわやかな顔で走っていたという。
この大勢の人間のなかに人民服を着ている人はひとりもいない。
暑くて着られないということもあるだろうけど、馬さんによると、今どきあんなものを着ていたらオカシイ人と思われますということだった。
わたしたちが渋滞を抜け出して、この夜のホテル「銀河賓館」へ向かうころには、時刻はもう22時をまわっていた。
銀河賓館は空港に近く、外灘や南京路からはかなり離れている。
翌日は朝から帰国のために飛行場へ向かうので、わたしたちは上海の夜遊びをあきらめるよりほかはなかった。
上海に到着したとき、絶望的に期待を裏切られるものと書いたのはこのことである。
わたしたちの中国の旅もこれで終わりなんだけど、これでは旅をしているわたしも、これを読まされている人も欲求不満になるのではないか。
わたしは前述したように、この年の暮れに上海を再訪問したので、上海についての詳細はそっちに譲り、ここでは追記というか、初めて見た中国の印象のようなことを書いておこう。
わたしの予想どおり、中国は素晴らしい国だった。
ある作家がこんなことを言っていた。
『わたしは若いころ、日本人であることを忘れたいと思ってアメリカにあこがれた。中国へ行ってみたら、そこは今度は自分が日本人であることを思い出させてくれた』
わたしたちが過去にさかのぼって、かっての自分たちの生活を、いまこの目で見られる国は中国以外にない。
しかしこの国もあと3、40年後には大きく変わってしまうだろう。
この旅行ではそんなことを考えたけど、悲しいことにそれは現実になった。
わたしは2011年を最後にいちども中国に行ってないので、現在のあの国に、まだ郷愁を感じる部分が残っているかどうか保証のかぎりじゃない。
わたしはきりぎりで古い歴史がつながったままの中国を見ることができたのだ。
最後に愛ちゃんだけど、旅行のパンフレットには北京ダックつきと書いてあったのに、それがいちども出なかったといって、帰国したあと旅行会社に文句をいったそうである。あ
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