中国の旅/外灘へ
朝、目をさましたのが8時ごろ、ということは中国時間で7時である。
朝食は中国時間の6時から9時までだということで、まだ時間は充分あったけど、それでもわたしは飛び起きた。
外国に来てまでグータラじゃいられない。
外は雨こそ降ってないものの、あまりいい天気ではないようだった。
シャワーをあびてレストランヘ行く。
このツアーには朝食だけが料金に含まれているのである。
ホテル内にはハイクラスのレストラン、エコノミークラスのレストラン、そしてバーと、3つの食事処があった。
あっちですといわれ、わたしはエコノミークラスに入った。
受付に「ニンツァオ(おはよう)」といって席に行き、とりあえずコーヒーを注文した。
座ったままコーヒーを飲んでいると、従業員の女の子がやってきて何かいう。
意味がわからないから首をかしげていると、女の子はじれったそうにわたしの腕をつかんでテーブルからひっぱがした。
つまり朝食はバイキング方式なので、自分で欲しいものを取ってこいというのである。
テープルにぼんやり座っていたのでは、わたしはいつになっても食事にありつけないのであった。
あとになってわたしは、いまでは外国でも大半の国が朝食はバイキング方式であることを知ったけど、このときはまだそんな事情を知らなかったのだ。
中央のテーブルに、お粥のある中国式の朝食と、トースト、ジュースなどの洋式の朝食が用意されていた。
わたしはトーストとフルーツとジュースだけで済ませることにした。
もともと食が細いほうなので、いちばん最初に嬉しがって取りすぎて、地球規模の食品ロスに気がついたあとは、あまり欲張らないことにしてるのだ。
まもなく同じくツアーのフリー組である母娘がやってきたから、ここへどうぞとわたしのテーブルに招いた。
彼女らと話をしながら食事をした。
お母さんは太った愉快な人で、娘は20代後半か30代くらいの、メガネをかけた聡明そうな子である。
前夜は隣りの虹橋賓館で夕食をとったそうだ。
わたしのほうはどこで食事をしたか話さなかった。
ワタシはむかし南京や上海に住んだことがありましてね、とお母さんはいう。
開戦前に日本に引き上げたのだそうで、今日は当時通った小学校を訪ねるのだという。
以前の中国旅行では南京にも行って、自分が住んでいた家を見てきましたともいう。
南京にはひどい戦禍があったはずではありませんかとわたしは訊いてみた。
よく言われていますけどねえとお母さんは答える。
わたしは日本軍の南京における殺戮について訊ねたんだけど、お母さんはちょっと予想外のことをいった。
戦前の南京は城壁にかこまれた小さな田舎町でしてねえ。
まわりは畑ばっかりで、ワタシが知っているかぎりでは、とても日本軍によって殺されたとされる、30万人もの人間が住んでいたとは思えないんですよ、というのである。
そんなものかも知れないなとわたしは思った。
ヒトラーの殺したユダヤ人も、日本軍の南京虐殺も、カンポジアの大量処刑も、真実の数字は公表値の3分の1くらい、いや、それ以下とみるのが正解かも知れない。
もちろん日本軍のやった犯罪行為が、それで軽減されるわけではないけれどとわたしは考える。
朝食をすませ、中国時間で10時発のシャトルバスに乗り、わたしたちは街へ出ることにした。
シャトルバスはホテルのもので、上海の繁華街にある「友誼商店」というデパートまで無料で送ってくれる。
路線バスにも乗ってみたかったけど、まず最初はシャトルバスを利用することにした。
バスの車内から街を眺めていると、英語のOKという文字のはいった看抜があちこちにある。
母娘のうちの娘さんが、あれはカラオケと書いてあるんですという。
看抜には『✖️拉OK』と書いてある(✖️の文字は上と下という漢字を組み合わせた、日本にはない文字)。
ありがたいことに現在ではパソコンもグローバル化が進んでいて、“卡拉OK”という文字も表示できるようになったけど、パソコンの黎明期にはこんな文字は表示できなかった。
バスで終点まで行き、わたしと母娘とは友誼商店のまえで別れた。
友誼商店は、もともと土産なんかに興味のないわたしは自然に足が遠のいてしまったので、いまでもあるのかどうかわからない。
場所的には外白渡橋から外灘に向かってまもなくの、ほとんど外灘のはずれといっていい場所だったから、和平飯店までも徒歩2、3分だ。
いまではそのあたりに、豪華な5つ星ホテルの半島酒店(ペニンシュラ)があるらしい。
香港のペニンシュラならわたしも入ったことがある。
いや、泊まったわけではなく、売店で名物のマンゴープリンを食べるためだった。
このあと、わたしはまず上海一の名所といっていい外灘(わいたん)を散策することにした。
戦前に欧米人、つまり租界の主人からBUND(バンド)と呼ばれていた中山路には、租界時代からの古い大きなビルが並んでいることはすでに書いた。
外灘の黄浦江側は、夏に見たときはまだ整備のための工事中の部分があったけど、今回はきれいに整備されて、川にそって長く伸びる「黄浦公園」とよばれる公園になっていた。
中山路は車の往来が激しいので、黄浦公園まで行くためには、中山路の下にある地下の遊歩道をくぐらなければならない。
この新しい公園で、大勢の観光客が黄浦江を眺めていた。
日本人や欧米人もいるけど、ほとんどは中国人の観光客である。
わたしも人々にまじって黄浦江を眺めた。
水は濁っており、向こう岸まで300メートルくらいあって、汽船やはしけ、タグポートなどが往来していた。
わたしは以前から独特の帆をあげたジャンクという船が見たかったけど、ここには1隻も見えなかったから、この様式の船は上海ではすでに過去のものになっているらしい。
ここですぐに目についたのが、川の向こう岸で建設中の大きな塔だった。
これこそ、その後の上海のランドマークタワーになる「東方明珠」のテレビ塔だったけど、わたしが見たときはまだ半分くらいしか出来上がってなかった。
いまでこそこのテレビ塔の周辺は高層ビルに埋もれてしまっているものの、まだそんなものもほとんど建ってない時代の話である。
東方明珠のそびえる浦東新区は、もともと畑ぐらいしかない殺風景な原野だったものを、中国政府は歴史的遺産の数多く残る上海市の再開発より、こちら側に新空港を建設して、巨大な新都心をつくることにしたのである。
その後の浦東新区の発展は目がくらむほどだ。
ふたたび地下道をくぐって、租界時代の古い建物をなでるように、わたしは外灘をゆるゆると南下した。
ジャズの演奏で有名な和平飯店は、あらかじめ興味を持っていたので、すぐにわかった。
建物のなかに赤い星のマークがついたものがあって、これはもとは香港上海銀行で、いまは上海市人民政府の庁舎として使われているらしかった(この当時、人民政府の建物はまだ外灘にあったけど、その後は人民広場のまえの新築のビルに移転している)。
この建物のわきでは、3人の男女が太極拳をやっていたから、写真を撮ると、リーダーのおじいさんがニヤッと笑った。
それにしても上海を歩くのは楽しい。
わたしは同じような摩天楼のそびえる、ニューヨークの街をうろつく自分を想像してみたけど、あちらはどうも乾いたイメージで、上海のようなうるおいのある景色は想像できない。
わたしみたいな人間がぼうっとして歩いていたら、米国ではたちまち拳銃強盗にでも遭って、身ぐるみはがれてしまうのではないか。
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