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2023年9月23日 (土)

中国の旅/日本租界

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外灘(中山路)をずうっと南下して、「豫園(よえん)」が近くなったと思えるあたりで、裏通りへ入り込んでみた。
たしかこっちのほうだろうと、ずるずる歩いていくと、めずらしく人民服を着た交通整理のおじさんに呼び止められた。
写真を撮ってくれという。
人のよさそうな顔をした人で、なにかしきりに話しかけてくるんだけと、残念ながらまだ中国語の不勉強なわたしにはわからない。

豫園の近くの雑踏のなかで、いきなり口論が始まった。
男の自転車が3人連れの女性のひとりに接触してしまったらしく、双方ともものすごいけんまくで怒鳴り合いはじめた。
すぐに周囲に人だかりができる。
女性が若い、きれいな娘だったので、わたしも野次馬に加わった。
感心なことにこういう喧嘩ごしの口論でも、中国人は決して手を出したりしないらしい。
それにしても若いきれいな娘が街なかで大声とは。

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まもなく「豫園」の門の前に出た。
豫園は明代の高官の庭園だそうで、現在では上海市内の有名な観光名所になっている。
しかしむろん、そんなものにわたしはまるっきり興味がない。
橡園の裏のほうに「十二舖市場」という、上海最大の市場があるはずで、わたしはそれを探していたんだけど、肝心のそれは見つからなかった。
豫園の周囲には、レストランやみやげ物屋がごたごたと軒を接していることだけを確認したあと、わたしは人ごみをかきわけて豫園を脱出した。

近くにひと口肉マンを売ってる店があったので、4個ばかり買ってみた。
店の女性は髪を赤く染めた、ちょっと中国人ばなれしたあだっぽい女性だったので、肉マンよりそっちにひかれたのかもしれない。
熱い肉マンをはふはふとほおばると、肉汁があふれて、これはなかなか美味しかった。
なんか日本でタコ焼きをほおばる外国人観光客みたいである。

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外灘を北上して、外白渡橋まで行き、橋を渡って、もと日本租界があったという虹口地区のほうへぶらぶらと歩いていった。
橋を渡った先に「上海大厦」という茶色いレンガ造りの巨大なホテルがある。
これは租界時代の象徴のような威圧的な建物で、ここから外灘を見下ろすには絶好の位置にある。
同じツアーの母娘が教えてくれたところによると、ホテルの従業員にチップを渡すと、写真を撮るのに好適の部屋へ案内してくれるそうだ(ここに載せた写真はわたしが撮ったものではないけど、たぶん上海大厦からのながめ)。
見上げると建物のてっぺんに、日本のアイワ電気の広告がついていた。
このころはまだ日本も景気がよかったのだ。

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しかしわたしは上海大厦には寄らず、そのまま虹口地区へボウフラのようにさまよいこんでいった。
すぐに四川北路という通りにぶつかって、交差点のかどに「新亜大酒店」という、租界時代の建物を利用した古風なホテルがあった。
このホテルは縁あって、その後上海に行くたびに何度か宿泊したことがあるんだけど、ま、その話はおいおいと。

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虹口地区というのは租界時代に日本租界があったところである。
日本は欧米のようにあこぎではないから、日本租界は英国やフランスのようにはっきりした境界があるわけではなく、中国人の街に日本様式の建物がまぎれこんだみたいで、住んでいる日本人も、中国人ととなり近所の付き合いをしている人が多かったらしい。
2階建ての木造家屋が多く、2階もテラスのある廊下でつながっていて、どこか遊郭を連想させる。
日本人にはいよいよなつかしさを感じる独特の雰囲気をもった民家ばかりで、それらをゆっくり眺めながら歩くのは楽しかった。

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虹口地区もごたごたしていて、あまり清潔とはいえない。
しかしこうした下町的な雰囲気の通りにこそ、中国最大の概光資源が存在するといって過言ではないだろう。
ひどい言い方かも知れないけど、わたしは文明の対極にあるような、貧しい市民生活と古い町並みこそ、中国の最大の観光資源であると考えているのだ。

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そのうちわたしは、生きもの(これも生鮮食品というのだろうか)を扱う露店がひしめく露地へ入りこんだ。
これは虹口地区の市場らしく、わたしみたいな自称ナチュラリストには、見ていて飽きないところである。

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さすがに生きているウシやヒツジこそいないものの、ニワトリ、ハト、カエル、カニやザリガニ、そしてセロリやナス、ダイコンのようなおなじみの野菜類、米のような穀類もあった。
ハトなんかそれを詰め込んだカゴの上で、羽をむしられ、刃物は使わないのにあっという間に皮をむかれてしまう。
みごとな手腕だなと、わたしは感心して眺めた。
またある倉庫のまえでは、人間のふとももぐらいの太さの冷凍大ウナギを、ユニックに積んで運んでいるのを見た。
わたしはウームとうなって写真を撮った。
まことに途上国の市場というのは、博物館や水族館に負けないくらいおもしろい。

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水を張った浅い容器のなかには数種類の魚がいて、コイやソウギョのような淡水魚が多く、生きたままのスッポンもうごめいていた。
有名な上海蟹は12月ごろで旬は終わりと間いていたのに、ここではまだまだたくさんのカニが売られていた。
甲羅幅7、8センチほどの、ワタリガニの一種である(わたしはこれが上海蟹かと思ったけど、そうではないことがあとでわかる)。

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わたしは最初に中国の食料品市場をのぞいたとき、中国人というのは海の魚を食べないのかなと思った。
市場で売られているのはほとんどが淡水魚で、わたしの知っている海の魚はマナガツオくらいのものだった。
上海は海辺の都市だから、海が遠いわけじゃない。
それなのに海産物としては、ほかにイカ、クラゲ、ウツボのような細長い魚が少量いたくらいだ。
邱永漢さんの本に、魚は生きているうちに調理しないと、魂が抜けて味が落ちると書いてあったから、そういうものかなと思っていた。
しかしネットで情報が世界をかけめくる現代では、これは日本人の影響だろうけど、中国人もマグロやサンマの味を知ることになり、やがて日本人は14億の民との資源争奪戦争にまきこまれることになるのである。

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わたしがカメラを向けると、たいていの人は驚いたような顔をするものの、怒る人はまずいなかった。
わたしが写真を撮るためにちょっと立ち止まると、たちまちまわりに野次馬が集まる。
中国の人たちにとっては、写真を撮られること自体が珍しいようだけど、そういう人々の存在は、わたしにとってちょっとしたカルチャー・ショックだった。
みんな貧しそうな人たちばかりだけど、その視線は決して冷たくない。
ある漬け物屋のおばさんは、血相を変えてなにかわめいていたけど、これはどうやら写真を送ってくれと言ってるらしかった。

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市場というものくらいその国の軽済や生活実態をものがたる場所はないだろう。
かっての物不足のソ連などを知っている人間には、想像もできないくらい、中国ではいたるところに(少なくとも食料品は)あふれかえっている。
そしてここにとにかく、原職業といえるあらゆる業種があるのには感心した。
魚屋、八百屋、立ち食いの露店、洋裁屋、床屋から、自転車の修理屋、プロマイド屋、靴みがき、靴直しなどなど。
カタカナで書くようなモダーンで洗練された店こそないけれど、上海の町かどには昔なつかしいあらゆる店がある。
それらはほとんどがこじんまりした個人営業の店で、1日の稼ぎなんてたかが知れているに違いない。

彼らには、大儲けをしようなどという気はさらさらないのだろう。
みんながささやかに、その日を暮らしていけるだけの稼ぎで満足しているのなら、これはみごとな相互扶助の精神といえる。
ここにもかっての日本人の生活があった。

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