中国の旅/華僑飯店
上海駅でわたしたちを迎えてくれたのは、ガイドの馬訳進さんと乞食の子供たちであった。
“乞食”というのは差別用語かもしれないけど、ほかに簡潔な言いかたを知らないので、ここではそのまま無視してしまう。
馬さんはわたしたちを友誼商店に案内した。
この店が、このツアーで最後の土産を買える場所になるということだったけど、あきらかに外国人観光客から最後の1円までふんだくるための店だったから、わたしは馬さんに感謝しない。
そんなことよりさっさとホテルへ案内してくれて、夜遊びでもする時間をつくってもらったほうがどれだけよかったか知れやしない。
友誼商店に行くまえに、ごみごみした上海市内を走る。
わたしはバスのなかから、今夜夜遊びにいく場合、タクシーの運転手に指示する必要があると考え、おもしろそうな場所を発見するたびに、その付近で目印になりそうな建物を記憶しておくことにした。
たとえばなんとかいう電影院(映画館)のあたりはだいぶにぎやかである。
そのうち窓外に外白渡橋がちらりと見えた。
“外白渡橋(Garden Bridge)”というのはその名のとおり、外国の白人専用の橋という意味で、この橋のたもとの公園に、戦前は「犬と中国人は入るべからず」という看板が立っていたそうである。
中国人にとっては屈辱と不名誉を記念する歴史的名所で、看板は撤去されたけど橋はいまでも残っていることは知っていた。
「ふたりの人魚」という映画で、ヒロインが飛び込んだのがここだ。
橋の名称についてウィキペディアにはべつの由来が書いてある。
しかしこの記述は欧米人にとって都合のいい偏見が感じられるので、わたしが初めて見たころには上記のような言い伝えがあったとか、わたしの空想の産物だと思われてもかまわない。
わたしと愛ちゃんは友誼商店を飛び出して、ふきんを歩いてみることにした。
ちょっと歩くだけでまた露店のならぶ通りがあった。
だいたいこれまで見てきたような店ばかりだったけど、ひとつだけガラクタを扱う古物商があって、おやじがひとり、地面にゴザをしいて品物を並べていた。
わたしはもちろんこの店の前でぴたりと足をとめた。
店のおやじが、斧の形をした中国の古銭を示して、どうだ、買わないかという。
いくらかと訊いたら100元だという。
これはそうとうに吹っかけてあるなと思ったから、わたしはおおげさに、トンデモナーイという顔をしてやった。
しかるのち別の古銭を手にとって、いくらと訊いてみた。
今度はおやじも慎重になったとみえて、25元だという。
20元にまけろとわたしはいう。
すんなりまかったところをみると、これでもそうとうに吹っかけてあったのだろう。
しかし何度もいっているように、この料金のなかには、現地の人とやりとりをする楽しみも入っているのだから、あまりしみったれるのは賢明じゃない。
わたしの中国での土産は、この斧の形をした古銭と、中国側から記念にいただいた切り絵と急須ということになった。
自分で金を出して買ったものがひとつしかないのが壮観といえば壮観である。
上海市内には戦前に列強の共同租界だった一画があり、そこには昔の丸の内を思わせる石造りのビルが建ち並んでいる(冒頭の写真)。
この通りは租界時代に外灘(わいたん)=BUNDと呼ばれ、黄浦江にそった中山通りにある。
変化の激しい上海のなかでは、景観保存地区に指定されていて、その古色蒼然とした景色は戦前とほとんど変わっていない。
建物のなかにはジャズの演奏で有名な和平飯店もあり、現在では河の対岸に、特徴的な東方明珠のテレビ塔がそびえているから、まず上海第1等の観光名所といっていいだろう。
わたしは雑誌のグラビアなどで見て、ぜひそれをじかに眺めてみたいと思っていた。
このツアーの最初の日は、空港からレストランに寄り、そのまま駅へ直行したので、この第一等の名所を見る機会がなかったのだ。
友誼商店のあと、とうとう写真で見たとおりの古いビル街が前方にあらわれた。
しかし時間がないのでバスのなかから見るだけにしますと、馬さんは非情なことをいう。
わたしはバスのなかで地団駄を踏んだ、バタバタと。
彼が語るところによると、戦前に上海の租界に住んでいて、いまでもこの地を訪ねてくる日本人がけっこういるという。
そういわれると、なんとなく東京行進曲のころの、東京丸の内を思わせる景色である。
わたしのように戦前の上海を知らない人間でさえ、どことなく郷愁を感じる街並みなのだから、ここで一時期を過ごした人にはたまらないだろう。
わたしにはニンジンを目の前にぶら下げられた馬の気持ちがよくわかった。
わたしたちは「華僑飯店」というホテルで夕食をとることになった。
このホテルも戦前からある古いホテルのひとつで、人民公園のわきにあってよく目立つから、その後上海に行くたびになつかしい気持ちでながめたものだ。
現在はどうなっているのかと例によって調べてみると、ネットでホテルの名前を検索した場合、そのまま予約サイトにひっぱられる場合が多いのに、華僑飯店という名前ではヒットしなかった。
名前が変わったのか、宿泊所としての営業はやめたのか、だいたいいまでも同じ場所にあるのかどうか、ストリートビューがあれば確認できるのに、中国ではそれは使えないのである。
ただ、人民公園のわきにあったことと、ホテルの全体像はおぼえているから、ネット上の写真をあさってみて、いくつかそれらしき写真を見つけた。
人民公園は租界時代に競馬場だったそうだから、これに間違いないだろう。
上海にはレトロなホテルだけでページが割けるくらい、その数は多い。
YeuTubeが盛んな昨今だから、だれか上海のレトロホテルめぐりでもすればいいのに。
新しい近代的なホテルはいくらでもあるけど、そんなものはどこで泊まってもいっしょだし、タイムスリップして戦前の上海に泊まれることに価値があるのだ。
わたしのブログでは、情報としては古いものの、そのうちのいくつかをおいおい紹介していくつもりである、乞う、ご期待。
華僑飯店はやはりそうとうに古くて格式のあるホテルで、回転ドアを押して建物のなかへ足を踏み入れると、わたしのような下々の者でも帝国ホテルの客になったような気分だった。
エレベーターの扉などは金張りでまばゆく輝いていた。
レストランに入ると、やあっと元気な声がかかって、無錫で別れた画家の小川荒野さんが手をふっていた。
レストラン内はごったがえしていて、団体なのか、個人なのか、さまざまな人種が食事をしており、欧米人の顔もたくさん見られた。
わたしと愛ちゃんは小川さんの隣りに座って、お互いの報告をし合った。
小川さんは友人とともにツアーを抜け出して、上海のホテルに滞在したまま、あっちこっち出歩いて絵を描きまくっていたのだという。
その成果であるいくつかのイメージスケッチを見せてくれたけど、そのなかに、ジャズバンドが演奏している絵があった。
上海バンスキングを知っていますかと小川さんは訊く。
もちろん知ってますとわたしは答える。
銀座の博品館ホールでこのミュージカルが上演されているとき、わたしはぜひ見にいきたいと思ったものである。
小川さんが泊まっていたホテルには、夜ごとにジャズを演奏するクラブがあって、まさに上海バンスキングの世界だったという。
ということは彼は外灘にある和平飯店に泊まっていたのだろう。
うらやましい話だ。
どうです、ホテルに着いたらジャズを聴きにいきませんかと小川さんはいう。
それはいいと、わたしと愛ちゃん、そしていあわせた人々がみな賛成した。
問題はなかなか食事が終わらず、いつになってもホテルに着かないということなんだけど。
華僑飯店のレストランの壁にはずらりと書や水墨画が展示してあった。
これももちろん売り物である。
わたしたちが食事をしているあいだにも、いくつかの絵が商談成立して運び去られた。
売れるものならなんでも売るのが中国人だ。
わたしはべつの機会に中国の街で、博物館みたいなところへ入って貴重な骨董品を眺めていたら、もしよければお売りしますよとささやかれたことがある。
食事のあと、もう暗くなりかけていたけど、出発までまだ時間があるというので、わたしはまたホテルの近所をぶらつくことにした。
ひとりで雑踏のなかを歩き出すと、すぐに小さな子供がまとわりついてきて、いくらか恵んでくれという。
手にクシャクシャの紙幣をにぎっているくせに欲張りなやつだ。
ダメだよ、ダメだよと断りながら歩き続けると、しまいにこっちの足をひっぱたいて逃げていった。
大きな音がしたので、そばを歩いていた中国人女性がびっくりしてわたしを振り返ったくらいだ。
華僑飯店のまん前に「人民公園」があり、その外壁にショーウインドーがあって、なにかの写真がずらりと掲示されていた。
灯りで照明されていてよく目立つので、デパートの商品でも展示されているのかなと近づいてみたら、これはすべて役所や工場で表彰された優良従業員の写真らしかった。
中国の人たちでさえこんなものを立ち止まって眺める者はいない。
公園のなかではアベックが抱擁しており、近くにはマクドナルドもある。
想像していた中国とは違うなあと思う。
わたしが一巡して華僑飯店の近くまでもどってくると、小さな豪傑がまた性懲りもなくまとわりついてきた。
今度はわたしも閉口して、ちょうど蘇州のみやげ物屋で、店の若奥さんにもらった一銭硬貨があったから、それを与えてやった。
子供は礼もいわずにすぐ立ち去った。
あとで知ったけど、こういうときはとにかく、1銭でも2銭でもいいから恵んでやることだという。
それだけでも彼らはたちどころにいなくなる。
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