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2023年10月

2023年10月31日 (火)

中国の旅/泥人形工場

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バス道路にそって歩き続け、ふたたび「宝界橋」を渡る。
橋の上から眺めると、そのあたりの岸壁にはいく叟かの船がつながれ、どの船の中にもそれぞれ家庭があるらしかった。
船上生活者らしい女性が船べりで食器を洗っており、エンジンをばらして整備している男たちもいた。
その向こうの湖のほとりはなにかの養殖場になっているらしく、養殖場を管理する家だろうか、湖畔にぽつんと1軒の家が建っていた。
シックイ壁の家だから欧風のおもむきがあり、ヨーロッパの絵画にでも出てきそうな景色である。

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「宝界橋」を渡った先は十字路になっていて、そのあたりにもメリーゴーランドのある大きな遊園地がある。
これは「太湖楽園」というらしいけど、閑散としていて客の姿はほとんどなかった。
太湖のあたりが風光明媚な観光地であることはわかるが、なんでわざわざ風光をこわすようなものをつくるのかと思う。
ほかにもこの近くには、瓦屋根をもつ3階建てくらいの「◯◯休暇村」とかいう大きな建物があった。
これもホテルだそうで、この近くの「湖浜賓館」よりいくらか安いというけど、高層ビルでないだけ、雰囲気はこちらのほうがいい。

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さらに少しバス路線を行くと、無錫の観光名所「蠡園(れいえん)」になる。
中国の庭園に興味のないわたしは無視と書こうとしたけど、いつも無視ばかりでは読者に気のドクだから、イヤイヤながら写真を載せる。
ただしこれはわたしが撮ったものではない。
あとで書くように、わたしはミスをして、このあたりの写真はないのである。

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空腹になっていたわたしは蠡園まえのレストランで食事をしていくことにした。
ここには道路をはさんで、2軒の大きなレストランがあり、べつに理由もないけど、「蠡園菜館」という店のほうを選んだ。
蠡園菜館は1階が土産もの売場になっていて、わたしが入っていくとさっそく背の高い中年男性が話しかけてきた。
彼は日本語を知っていて、わたしが食事をしたいというと、2階に案内してくれた。
2階はレストランであるものの、えらく殺風景な店で、客がひとりもおらず、従業員たちがひとつテーブルに集まっていた。
わたしがみなさんの写真を撮りたいというとたちまち熱烈歓迎である。
歓迎はいいけど、暖房があまり効いておらず寒い。

ここでビールと料理を3品くらい頼んだ。
エビはいいとして、ドジョウを説明するのに絵を描いて説明しなければならなかった。
まさか柳川鍋はないだろうけど、わたしは以前から中国のドジョウ料理を、日本のそれと比較してみたかったのだ。
ドジョウの絵を見た従業員の女の子は、部屋のすみの水槽を指してアレかという。
水槽に入っていたのはウナギだったから、わたしはもっと小さいやつと指でサイズを示してみた。
女の子はうなづいた。
出てきた中国のドジョウは、骨ごとぶった切りにしてあるので、ひじょうにガンコで食べにくかった。
白飯も頼んだけど、上記の料理だけで腹いっぱいになってしまったのでキャンセルしてもらった。
だいたいにおいて中国の料理は量が多すぎるので、小食のわたしはどこでも、注文をしすぎないよう注意しなければならない。

食事を終えて1階に下り、みやげ物売場で先ほどの日本語のわかる男性と話す。
ノートが混乱してはっきりしないけど、男性の名前は“邵”さんだったと思う。
なかなか親切な人だった。
日本では大地震がありましたが、知っていますかという。
まだインターネットはない時代だったけど、日本の情報はすぐに中国に伝わっていたのだ。
あれは関西で、わたしは関東に住んでいますから“没関係”ですと、わたしはまた同じことを繰り返した。
土産もの売場には、日本語を勉強していて、やがて訪日する予定だという娘さんが2人いた。
2人ともまだ18歳ぐらいのかわいい娘である。

歩き続けてだいぶくたびれたので、「蠡園」からまたバスに乗った。
バス・ターミナルへもどるつもりが、やけに時間がかかるなと思っていたら、無錫駅まで行ってしまった。
このころから次第に雨が強くなり、駅前でタクシーは簡単につかまらない。
業をにやしたわたしはリキシャでホテルにもどることにした。
リキシャはふだんはオープンカーなんだけど、雨が降るといつのまにかビニールシートなどで幌をかけている。
リキシャはちゃんとホテルの玄関に横づけしてくれた。
タクシーで出かけた日本人観光客が、帰りは粗末なリキシャで帰ってきたので、ホテルの女の子もおどろいたかもしれない。

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ホテルでわたしは自称“日本の有名カメラマン”らしからぬミスを犯した。
35Tiのバッテリー警告サインが点滅を始めたので、フィルムを電池を使わずにに緊急巻き戻しをしようとしたんだけど、そのためには下面にある小さなボッチをボールペンの先で押せばいいはずだと思った。
ところがどこを間違えたのか、フィルムは巻き戻らない。
わたしはバッテリーをはずし、また取りつけてみた。
これでカウンター表示がゼロにもどってしまい、なにがなんだかわからなくなってしまった。
最初から新しいバッテリーに交換するだけでよかったものを、オール自動のカメラが電池切れにおちいった場合を想定してなかったわたしは、パニックになって、フィルムをなんとか取り出すことだけを考えた。

マニュアルはどこだ。
いまならどんなマニュアルでもインターネットのなかにある時代だけど、当時はそんなわけにはいかなかったから、わたしは冊子になっているそれを中国に持参していた。
ところが上海でまだヤボ用が残っていたので、不用な荷物は龍門賓館のフロントに預けてきて、マニュアルもそのなかに入れっぱなしだったのである。

しまいにヤケになったわたしは、裏ブタを開けて(フィルム一本を無駄にするつもりで)、強引にフィルムを取り出そうとした。
しかし強引も通用しないのである。
最新式のカメラのバッテリー切れは恐ろしい。
わたしはついに無錫での35Tiの使用はあきらめるしかないと考えたくらいだ。
それでもどこをどうしたのか、じたばた悪戦苦闘したわたしは、なんとかフィルムを引っぱり出したけど、フィルムはパトローネの寸前で、見るも無残に切断されていた。
せっかく蠡園菜館で撮った、日本語を勉強しているという2人の娘の写真は永遠に失われてしまったわけだ。

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この日のホテルの喫茶室には、例のおかっぱの許小姐とはちがう娘が働いていた。
彼女の名前は“麗艶”さんで、名前のとおり、口もとにホクロのある艶なタイプの娘である。
あなたは結婚しているのと訊くとイイエという。
それじゃ恋人はいるのと訊くと、にっこり笑って、このホテル内にいますという。
許小姐の写真が出来ていませんかと訊くと、ハイといって机の引き出しから出してくれた。
中国の現像所は日本のそのへんのDPより仕事が丁寧だ(日本では最近どこのDPでも自分のところで現像と焼きつけをするようになったものの、そのかわり仕事がじつにお粗末になった)。
ただしこちらではフィルムをきちんと裁断する習慣がないのか、ネガは36枚が長いままとぐろをまいていた(その写真は、翌日許小姐に見せたらネガごと取られてしまった)。

夕方、雨が小降りになったのをみこして、ホテルのまえにある「景山泥人形工場」を見学に行く。
門前の守衛に、ひとりなんですけどいいですかとことわって、べつに問題なく入ることができた。
ちょうど男ばかり数人の日本人観光客がガイドに案内されてやってきたので、わたしは彼らにくっついて、見学コースをガイドつきで見てまわった。

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泥人形は無錫の名産でなかなかきれいなものである。
粘土を自然乾燥させて彩色しただけで、焼いたものではありませんから濡れると溶けますとガイドはいう。
粘土は無錫だけに産する特殊なものだそうだ。
粘土でかたちを作るところから彩色まで、すべてかなり熟練が必要と思われる繊細な作業で、日本のこけし作りに似ている。
ただしこけしは濡れても溶けない。
女性、男性、まだ中学生ぐらいの男の子までが、細い筆で人形の顔の造作を仕上げていた。
見学する日本人に対して、作業中のひとりの少年が不機嫌そうな顔をしていた。
だれだって動物園のパンダみたいに見物されていい気分のはずがない。
この少年の作業台の上に英語の教科書があったので、キミのものかと訊いてみた。
うなづいたから、わたしは紙に「要努力」と書いてみせた。
彼はようやくニッコリした。

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工場を抜けるとみやげ物売場である。
展示されている絵画をじろじろ眺めていたら、男性の店員が日本語で話しかけてきて、墨一色で描いたササの葉について説明してくれた。
同じように見えるササの葉でも、これは風に吹かれているところ、これは雨に打たれているところと、みな微妙に異なっているのだそうだ。
そういわれてみると、たしかにナルホドと思う。

そのうち商品のひとつを持ってきて、こういうものは日本でも売れませんかと訊く。
その商品というのは、2枚のガラスにネコを描いた刺繍がサンドイッチされており、その図案が表と裏では形がちがって見えるという、不思議さをウリモノにした飾り物である。
うーんと考えたけど、日本人ならこういうものは機械プリントで作ってしまうだろう。
いくら手間ひまかけた手作りの刺繍でも、たんなるインテリアでは価格が見合うとは思えない。
中国人はいまだに家内工業にこだわっている。
手間と時間をかけた民芸品は、日本でも衰退する運命なのだし、特殊な工芸品ならともかく、工業製品として世界をマーケットにするのはぜったいに不可能ではないか。

話しているうち、べつの売場の女性がやってきて、アレッとすっとんきょうな声を出した。
たまたまいっしょになった日本人観光客がみな帰ってしまったので、わたしひとりが取り残されたと思ったのである。

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二重基準

ウクライナ戦争ではロシア非難のデタラメSNSが蔓延した。
日本人の多くがウクライナに同情的だから、ウクライナが有利だというデタラメをふりまけば、世間が喝采してくれて、チャンネル登録も増える。
それでプロダクションを経営し、社員を雇えるくらい儲かったのだ。
一方でそういう無責任なSNSが、戦争を長引かせて、兵士の死者を積み上げもした。
罪はけっして軽くない。

そんなところにイスラエル戦争の勃発だ。
ウクライナの場合はロシアをけなしさえしていればよかったけど、こちらはむずかしい。
日本にも世界にもパレスチナに同情的な人が多いからだ。
うっかりイスラエルを支持すると、侵略が悪いという論調でロシアを非難してきた手前、ガザ地区に侵攻したイスラエルはいいのかというダブルスタンダードになってしまう。
おまけにイスラエルを支援してきたアメリカもけなすことになってしまう。
これはマズイと、今朝のNHKなんか、イスラエルよりクマが出ましたというニュースのほうが優先されていた。

というわけで、イスラエルはメシの種にはなりにくい。
SNSで無責任なことをほざいて、金儲けをしていた連中が路頭に迷うことを、わたしは願ってオリマス。

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2023年10月30日 (月)

子供たち

イスラエルが二度とホローコストを体験したくないというのはわかる。
それにしたって過剰防衛だよな。
自分たちを憎む者を一掃しようとして暴力を振るえば、それはそのまま、またみずからの頭上にもどってくるだけなのに。

アメリカが落ち目だ。
イスラエルは将来、自分たちだけで国を守らなければいけなくなる。
それでもオレたちには、いざとなったら核兵器があるというのかも知れないけど、核兵器は究極の防御兵器だぜ。
つまり、それを使うのは自分たちがほんとうににっちもさっちもいかなくなったときだ。
全人類を道連れにする兵器を、イスラエルの一存でおいそれと使用できると思うか。
先のみじかいわたしは安心して見てるけどね。

  砲声の下に死にゆく子らの声
     なぜ生まれたのなぜこんな目に

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中国の旅/亀頭渚

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遮光効果満点のカーテンを少しあけておもてをうかがうと、庭の芝生がぬれているのがわかった。
この日も朝からいつ降り出してもおかしくない天気だった。

朝食は「景山楼飯店」内のレストランで食べた。
モーニング定食で、おかゆと小篭包に漬けもの、ケーキ、ミルクなどがつく。
中国のおかゆはわたしの想像よりうす味だったので、初めて食べたとき、わたしは塩をふって食べた。
そのうちおかゆについている刻んだ漬け物をいっしょに食べればいいということに気がついた。
大発見だと思ったわたしは、帰国したあと友人たちに自慢したら、そんなことはだれでも知っているといわれてしまった。
朝食代は宿泊料金とは別勘定で120元くらい。
ちょっと高いゾ。

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ホテル内の喫茶室でまたコーヒーを飲みつつ、どこへ出かけようかと思案して、駅で買った地図でバス路線を調べてみた。
市内の南西部にバス・ターミナルがあり、その近くから太湖方面へ路線バスが出ていることがわかった。
ほかにあてはないから、まず太湖へでも行ってみるかと思う。

ホテルからタクシーをバス・ターミナルの近くまで走らせてみると、ターミナルのまわりは人間であふれていた。
ここは長距離バスの発着場で、太湖行きはたんなる近郊の路線バスだから、乗り場はどこにべつのところにあるらしい。
わたしはたむろしていたタクシー運転手らしき男をつかまえて、地図を示し、このバスに乗りたいのだと説明してみた。
男はそれよりタクシーを使ったらどうだといったけど、わたしはどうしてもバスに乗るんだと言い張った。
男はオレについてこいという。
親切な男だ。
案内されていくとかたわらに「出租自行車(レンタル自転車)」の看板があるのを見かけた。
自転車を借りることはこの旅のはじめから念頭にあったので、わたしは店の場所をしっかり記憶しておいた。

太湖方面行きバス(1番線)の乘り場は、無錫の最高級ホテルで、日本の東急の資本が入っているという「無錫大飯店」という大きなホテルのわきにあった。
親切な男はあまり親切でもなかった。
乗り場につくと案内料をくれという。
徒歩でせいぜい3、4分の距離だったから、わたしはポケットにたまっていた硬貨を出した。
男は指を1本立てて、にやにやしながら首をふる。
1元を出すと10本指を出す。
ふざけるなといってみたものの、けっきょく5元とられた。

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バスはすぐにやってきた。
中国の路線バスは、ふたつの車体を蛇腹でつないだ長尺のもので、車体はとうぜん前世紀の遺物である。
この日に乗ったバスの運転手は若い女性で、彼女ががりがりとギアを鳴らしてポンコツ・バスを運転するのには感心した。
見ていると、路線バスの運転手は男より女のほうがずっと多い。
長尺のバスだけに、乗車口は前後に2つあり、車掌も前後に2人いる。
切符を買うのはかんたんで、わたしは紙片に「終点」と書いて車掌に見せた。
バスは終点まで乗ってたったの1元(12円)だった。

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やがて郊外に出ると、バスの両側に並木のつづくのどかな農村風景がひろがった。
わたしはこの景色をどこかで見たことがあるなと思った。
それもそのはず、これは初めての中国旅行(江南の旅)のときに通ったことのある道で、そのときわたしたちの泊まった「湖浜賓館」もこの通りぞいにあったのだ。

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やがて道路の片側に湖がひろがってきた。
地図をみるとこれは太湖の一部である「蠡(れい)湖」という湖だった。
“蠡”は画数の多いむずかしい字だけど、中国の故事「ときに范蠡なきにしもあらず」の蠡であるなんてことをブログに書いたことがある。
そんなことをいっても当世の若者にはわかりっこないので、もうちっと説明しておこう。

むかし、日本の南北朝のころだけど、後醍醐天皇という人がいて、敵方にとらわれて屋敷牢に閉じ込められていた。
深夜ひそかに忠臣が忍び込んで、天皇を励ますつもりで、サクラの木に「天勾践をむなしうするなかれ、ときに范蠡なきにしもあらず」と刻みこんで去った。
意味は、「天皇さま、がっかりなされるな。広い世間にはわたしみたいな忠臣もおりますぞ」ということだけど、これにはさらに中国の古典からのもとネタがあって、秦の始皇帝が中国を統一するよりさらに以前、越国に勾践という王さまがいて、彼にも范蠡という忠義の家来がいたという話が由来になっている。
太平記に出てくる有名なエピソードなので、戦前の教科書にはかならず載っていたという。

どうじゃ、この簡にして要を得た説明は。
わからん?
わかるわけないよな、新田義貞も足利尊氏も知らないいまの若いもんには(サジを投げる)。

バスに乗ってからおよそ40分ほど、蠡湖のわきに出てまもなく、バスは「宝界橋」という橋を渡り、終点の「亀頭渚」に着いた。
このあたりの地形には起伏が多い。
わたしは中国をじっさいに見るまで、江南のこのあたりは一面の平野で、山はもっとずっと内陸部へ行かないと見られないものと思っていた。
しかし1回目の中国旅行のときにすでにわかったことだけど、無錫から南京あたりにかけて、けっこう山のような地形は多いのである。
ただしそのほとんどが、日本でいえば狭山丘陵、秋川丘陵ていどの低い山だ。

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亀頭渚でバスをおりると、目の前に「大空界」という大げさな名前の遊園地があった。
遊園地の門の近くに煮込んだ玉子を売る老人がいただけで、彼もヒマで手持無沙汰という感じだった。
つまらないところへ来てしまったなと思ったけど、いちおう遊園地のゲートあたりまで行ってみたら、ゲートのあたりがやけににぎやかで、先方から大勢の子供たちがわっと飛び出してきた。
なんだ、ゴジラかアンギラスでも出たかと思ったら、これはなにかのコマーシャル撮影で、はなやかに着飾った子供たちが、監督の指示でいっせいに両手をかざしてゲートから走り出る場面を何度も繰り返していたのだった。
見ていてじつにアホらしく、撮影隊のほかに観光客なんかひとりもいなかった。

「大空界」を無視し、ふきんをしばらく歩いてみることにした。
雨はほんの少し降り続いていたが、ニットの帽子をかぶせるだけでカメラの保護には充分だった。

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遊園地のわきから坂道を登っていくと、わたしはたちまち前世紀そのものの中国の農村にまぎれこんでしまった。
周囲を灌木のしげる小山にかこまれた、どちらかというと山村のおもむきのある村で、みすぼらしい農家が肩をよせあっていた。
うすよごれたシックイの壁、薄い瓦をかさねた屋根、ぼろぼろに破れた障子、コエ溜めのある畑、ニワトリ、アヒルの走る庭、枯れたツタのまきついた庭木など、そこで見た農家のたたずまいは、おそらく中国の農村が千年以上も保ち続けてきたものにちがいない・・・・とわたしには思えた。

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好奇心とカメラマン本能につき動かされたわたしは、畑のあいだのあぜ道をたどって、農家の庭にまで入りこんでいった。
さすがに家の中まで覗きこむのははばかれたものの、アルミサッシなどひとかけらも見られない。
暗い屋内に、頑丈な板戸や粗末な家具、農具などが見え、玄関を入ったタタキ(土間)の上に年寄りがすわっているのが見えたりした。
わたしが子供のころ、親戚の農家で見た景色と共通するものばかりだ。
ここではまだ柳田国男の“遠野物語”の世界が生きている。
日本の農村ではとっくに失われてしまった、なつかしい生活が残っている・・・・わたしはタイムマシンに乗って、幼いころの故郷にまいもどったような気がした。

ということで、ここに6枚ばかりその村の写真を載せた。

亀頭渚で見た田舎景色は、無錫の田舎でも、とくに古い農村の建物や風景がたくさん残っているところだったらしい。
この翌日、わたしは自転車でかなり広範囲に田舎を見てまわることになるけど、ここほど、貧しい、陰鬱な田舎景色はほかでは見ることができなかった。
ひょっとすると、このあたりはその後観光地として大々的に再開発されたらしいから、土地や家を売り払ったあとで、住人はいまさらきれいにしようという意欲を失っていたのかも。

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農家のあいだをぬけ、いったんバス道路にもどって、こんどは湖の堰堤をぶらぶらと歩いてみた。
堰堤の上に、ひどくやせたイヌを連れた2人の子供がいた。
女の子と男の子で、温かそうな厚手のジャンパーを着ており、たぶん姉弟だろう。
わたしは写真を撮ろうよと彼らに声をかけ、サブカメラの35Tiを見せると、2人はそれをわたしの手から奪い取ろうとした。
ダメだよと叱ると、あきらめた2人はイヌを連れてさっさと走っていき、ずっと見ていると、バス通りのわきにある1軒屋に姿を消した。
そこが彼らの家らしい。
小雨の降る冷えびえとした日だったけど、煙突からたちのぼる煙は、その1軒屋に暖かな家庭があることをうかがわせていて、そういうものに縁のないわたしを、ちょっぴり感傷的にさせた。

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2023年10月29日 (日)

アメリカのいま

ビートルズのジョン・レノンに「ヘルター・スケルター」という歌があり、なにかで読んだ記事によると、しっちゃかめっちゃかという意味だそうだ。
つまりいまのアメリカみたいな状態をいうらしい。

国連でイスラエル問題が取り上げられ、ガザの戦闘を即時停止すべきというロシア、中国の意見と、一時停止させようという米国の意見がガチンコ勝負。
一時停止というのはまた再開もあり得るということだから、紛争の抜本的解決にはならない。
しかしアメリカにいわせれば、即時停止は双方が納得しなければいけないから時間がかかる、それより手っ取り早い一時停止をして、とにかく一般民衆の被害を食い止めるほうが先だということらしい。
ごもっとも。
といいたいけど、昨日のNHKニュースを深読みすると、べつの見方が出来そうだ。

アメリカはアフガニスタンから撤退したあと、中東からアジアに軸足を移した。
ところがウクライナで余計なことをしたために、アジア以外にウクライナで紛争を抱え、ここでさらにイスラエルのゴタゴタを抱えることとなった。
アメリカとしては、いったん移した軸足をまた中東にもどさなければならず、準備に時間がかかる。
というのがNHKニュース。
一時停止というのは軸足を移すための、ただの時間稼ぎじゃないのか。

そしてバイデンさんは、かってブッシュIIが犯したあやまちをまた繰り返そうとしている。
ハマスを支援するのはイランだということで、そんなことはしていないというイランに、なんとか因縁をつけようとしているのだ。
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IIも、イラクのフセインに大量破壊兵器を製造しているという因縁をつけ、イラク戦争を始めて、そんなことはしていないというフセインを抹殺した。
相手がしていないといっても、アメリカがしてるといえばしていることになってしまうのだ。
いまではおおかたのアメリカ人が、イラク戦争は間違いだったと思っているのに、バイデンさんは、なんとか国際世論の支持があるいまのうちに、イランを叩いてしまおうという計算だ。

もちろん陰ではイランがハマスを援助していることは事実かも知れないけど、米国がずっとイスラエルを支援してきたことも事実だ。
おおっぴらにやるのはよくて、陰でこそこそするのはワルイ!
自分がやるのはよくて、他人がやるのはワルイ!
ヨルダンのラニア王妃がいったように、ダブルスタンダードじゃないか。
おかげでケンカ好きなアメリカは、ウクライナや台湾以外にイスラエルにまで手を広げ、同時に3方向に問題を抱えることになってしまった。
こんな状態で中国とトラブルを起こすのはマズイというので、いましきりに中国にゴマをすっているところ。
方針があまり支離滅裂なので、日本も面食らってしまうわな。

中国もロシアもなにもしてないのに、アメリカだけがG7を巻き込んで慌てふためき、これぞまさしくヘルター・スケルター。
ところで上川のおばさんはイスラエルに行ったのか。
そしてあくまでイスラエルの支援を続けるなんて、時勢を読めない外務官僚のつくった原稿を読まされてんのか。

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2023年10月28日 (土)

中国の旅/景山楼飯店

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ホテルを替えてくださいと頼まれ、おとなしくそれに従ったわたし。
雨のなか、タクシーで走っていくと前方に山があらわれた。
山というほどの山でもないけど、このときまでわたしは、天候がわるいこともあって無錫市内に山があることにぜんぜん気がつかなかった。
山の上には7層になった寺院の塔が見える。

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新しいホテルは「景山楼飯店」といい、最初のホテルから通景西路をまっすぐ走って、「錫山」という山にぶつかるあたりを左折したところにある。
青く塗られた3階建てのペンションふうの建物で、それほど大きい宿とはいえないけど、ガードマンのような制服の守衛もいるし、フロントには可愛い娘も働いていた。
またスケベ根性を発揮して、わたしは一も二もなくこの宿に泊まることにした。

簡単な中国語と英語でフロントと交渉する。
宿泊料は200元というわけにはいかなかったけれど、上海のホテルに比べればやはりだいぶ安い。
部屋を見せてもらうと、ベッドは2つ、冷蔵庫もついており、バス・トイレもきれいで、欠点があるとすれば(あとでわかったけど)湯の出が悪いことくらい。
わたしの部屋は1階のはずれで、窓の外は宿の裏庭である。
裏庭にはカラオケ・バーがあったけど、昼間は従業員の着替え所に使われているようで、早朝から従業員が出入りしているのを何度か見た。
カーテンをあけておくと、向こうからもわたしの部屋の中がまる見えだ。

ここでもわたしは荷物を置くとさっそく近所の探索に出た。
さいわいもう雨はほとんどやんでいた。

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ホテルの裏は、あいだにせまい住宅街をはさんで、先ほど見た「錫山」という低い山になっていた。
錫山にそって歩いていくと、ものの5、6分で『錫景公園』という大きな公園に着く(この写真はべつの日に撮ったもの)。
公園の門前にはいくつかの露店や食堂が店を出していた。
ただし公園そのものは、この時間にもう閉まっていた。

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公園のまえの広い通りを横切ったところに京杭運河という大きな川がある。
わたしはその河畔に立った。
この運河は基本的には無錫の町の西方を南北に流れていて、地図を見ると人間の血管のように複雑に分岐している。
中国の川は西から東に向かって流れるということわざがあり、黄河も長江もそのとおりである。
中国では古来より大河が、人員や物資を移動させる道路の役割を担ってきた。
しかし人間の往来は東西ばかりではなく、南北もある。
そのさい大河は交通や通商のさまたげになるから、これらを南北につらぬく運河を造れば便利というのは、凡人のわたしでも思いつくけど、あいにくわたしにはそれだけのパワーも財力もない。
隋の時代の皇帝・煬帝(ようだい)がそれを実現した。
京杭運河は黄河や長江を横切って、北京と杭州をむすぶ2500キロの大運河で、万里の長城に匹敵するような難工事だったけど、詳しい説明はまたウィキペディアにリンクを張っておいたから、それを見るヨロシ。

煬帝は、中国の皇帝としてはめずらしく芸術を愛好する皇帝だった。
しかしその最後は悲惨なもので、彼は部下の裏切りに遭い、虜囚となって移送中に殺された。
わたしはしばらくぼんやりと、たそがれのせまる運河を眺めていた。
まったくこの国の歴史は測りが知れない。

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ホテルに帰ろうとぶらぶら歩いていると、とある交差点の分岐近くにCOFFEEという英文字が目に入った。
コーヒーショップとは珍しいので、ちょっと寄ってみることにした。
この店は「新薫珈琲屋」といい、素っ気ないくらい簡単な店で、ボックス席が4つほどあるだけ、客はアベックがひと組いただけだった。
すみのカウンターの中に、日本でも山手線に乗ればかならずひとりか2人は見かけるような、えらく親しみやすい顔をした娘が立っていた。

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娘は“符”さんといい、まだ学生で、喫茶店とつながっているとなりの部屋でコンピューターの勉強をしているという。
彼女と言葉を交わし、コンピューター室ものぞかせてもらった。
NECならぬNCCというコンピューターが並んでいて、ほかにも数人の若い男女がいた。
みんな室内でもジャンパーやオーバーを着たままである。
それでもパソコン元年とされる1995年に、すでに中国にコンピュータを勉強する学生がいたことは特筆していい。

彼らから、日本ではでっかい地震があったみたいだけど、大丈夫なんですかと訊かれた。
そういわれても本人がのんきに無錫をうろうろしてるんだから。
あれは関西ね、わたしは関東だから問題なしと返事しておいたけど、彼らの頭のなかの、小さいと思っていた日本が意外と大きいという事実を気づかせる契機になったかも知れない。

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ホテルにもどるとロビーのかたわらにある喫茶室の娘が目についた。
おかっぱで可愛らしい顔をした娘なので、ここでまたコーヒーを飲む。
彼女の名前は“許”さん。
顔はおさない少女のようだけど、歳は30で子供がひとりいるという。
18くらいに見えますねというと、満足そうな顔をしていたから、中国でも女性はやはり若く見られるほうが嬉しいらしい。

写真を撮りながらいろいろ話をする。
この喫茶室は何時から何時までやっているのと訊くと、7時半から23時までだという。
明日デイトしませんかというと、ダメといわれてしまった。
写真は来年もってきてあげますというと、そのころにはもうワタシはここにいないかもしれない、明日無錫で現像すればいいのにという。
ワタシが現像に出しておいてあげるというので、出来上がりを早く確認したいわたしは、試しにそうすることにした。

このときわたしは写真を撮るのにちょいと小細工をした。
レンズのまえに女性のストッキングの切れ端をかぶせて、ソフトフォーカス効果を出してみたのである。
おかげで許小姐(“小姐=シャオチエ”というのは中国語で若い娘のこと)のなかなかいい写真が撮れたんだけど、いちばんいいものはあとでネガごと彼女に取られてしまった。
ここに載せたのは、そのときあらためて撮らせてもらった写真だ。

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こんなことがあったものだから、そのうちわたしを日本の有名なカメラマンと誤解した噂が飛び交って、ホテルの従業員の娘たちがみんな、わたしも撮ってと騒ぐ。
赤い服の女の子はそういう従業員のひとりだ。

相手が若い娘というので、ここぞとばかりに撮りまくったから、フィルムが足りるかどうか心配になってきた。
35Tiはパトローネのバーコードを読み取って、自動的に感度を設定する機能をそなえている。
はたして中国のフィルムにもバーコードがついているものか、わたしは試しにそのへんでフィルムを1本購入することにした。
フィルムはホテルの並びで売っており、ちゃんとバーコードもついていた。

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また雨が降ってきたので、ホテル内のレストランで夕食にしようと考えたけど、結婚式のパーティをやっていて満員で入れない。
中国でも結婚式は年々ハデになる傾向があるという。
宗教儀式の排除されている国だから、結婚式イコール・パーティということになるらしい。
やむをえずホテルのすぐまえにあるレストランへ飛び込んだ。

このレストランの名は『◎瑰園西餐庁』といい、レジに、中国女性の好むもじゃもじゃヘアースタイルで、西洋人のような大きな口をした女性が座っていた。
店の名前の◎の部分はあまり見かけない字だったから、わたしはメモ帳にへんやつくりを記録しておき、帰国してからそれが漢語林の一連番号4658の文字であることを突き止めた。
当時は無理だったけど、いまはパソコンでも表示できるようになっていて、これは“琨”という字だったから、この店の名は「琨瑰園西餐庁」というのだった。
ついでにいうと、“琨瑰”の意味はハマナスのことらしいから、この店はハマナス園レストランということになる。

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口の大きい女性は、お化粧が濃く、水商売っぽい女性である。
ほかにも質素な感じの娘が店と厨房を出入りしていたけど、こちらはひとことも口をきかなかった。
わたしは紹興酒とマーボ定食ほか3品ほどの惣菜を注文して、ちびりちびりやることにした。
食事をしながら給仕にきた水商売っぽい女性と筆談をする。
彼女の名前は“肖”さんで、なかなか愛想がいい。
わたしはさっそく彼女の写真を撮っていろいろ話をした。
彼女も歳は30だそうで、聞きもしないのに自宅の電話番号まで教えてくれた。
食事を終えて勘定を頼むと、120元だけど、ワタシたちは友達だから90元でいいわという。
ウソつけ。

なんだか今回は女の子漁りみたいな記事になっちゃったけど、残念ながらこのうちのただのひとりともデイトしたわけじゃないから、うらやましく思う必要はない。
わたしはまじめでカタブツで、娼婦や関係をもった女の子が出てくるのは、まだずっと先である。
この日はほとんど1日雨もようで、だんだんわかってきたけど、中国では雨の中を歩きまわるとズボンが泥だらけになる。

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外務省の亡霊

上川のおばさん、イスラエルに行くんだそうだけど、大丈夫かい。
なんかイスラエルもウクライナも区別がついてないみたいなんで、嘆きの壁のまえで、プーチンのガザ侵攻はケシカランなんて失言をしなけりゃいいが。
エッフェル塔のまえで、うれしがって記念写真を撮った政治家(オンナの人)もいたよな。
外務官僚にとってはこういう人が大臣でいてくれたほうが、注文にうるさい政治家よりも具合がいいんだろうねえ。
大臣のほうだって、原稿を読んでいればいいんだから楽なものだし。

それにしても外務省もバカばかりなったみたいだよ。
もちろん語学だとか、専門の仕事じゃエキスパートなんだろうけど、人のこころを読むとか、政治の動きをフィーリングでもって理解するようなことはぜんぜんダメっぽい。
いまアメリカの権威が失墜して、ウクライナもイスラエルも、もう米国は頼りにならないと気がつき始めているようにみえる。
ゼレンスキーさんはそろそろ和平をというアメリカのいうことを聞かないし、イスラエルもブリンケンさんと7時間も話し合って、いま爆撃なんかされちゃアメリカも非難されるという言い分に耳も貸さなかった。
会談終了後のブリンケンさんの顔を見たか。
目の下がたるんで、頬がこけて、憔悴感がありあり。

たしかにいまの世界は何かが変わっていると、わたしでさえ思うんだけど、日本の優秀な官僚たちにはわからんらしい。
そりゃ任命責任者からして頼りない人なんだから、無理もないけど。

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2023年10月27日 (金)

ハマス

たとえばイスラエル建国。
ふつうに暮らしていたアラブ人が、ここは今日から外国の土地になったといわれ、いきなり住まいを追われる。
日本人は第二次世界大戦のユダヤ人虐殺はよく知っているくせに、このときイスラエルがかなり強引なこと、文句をいうパレスチナ人の大量虐殺をしたことは知らない。

あなたの妻と子供が爆撃で理不尽に殺されたとする。
あるいは家を追い出されて、砂漠をさまようしかなくなった。
ここまでされれば復讐をちかう人間もいるだろう。
イスラエルの行為を蛮行と思うのは当然で、アラブ世界全体が同情してパレスチナに味方した。
第1次アラブ戦争、第2次、第3次、第4次とイスラエルへの攻撃が続いたけど、相手は2度とホロコーストは体験しないぞと誓い、世界最強の国アメリカに支援され、自らも核兵器まで備えた軍事強国だ。
イスラエルは強すぎて、まともな戦争をしても勝てっこない。
挙げ句の果てに、あなたは危険分子ということでせまいガザ地区に押し込められる。

“ガザ地区を実効支配するハマスという言い方がよく使われるけど、それはアメリカと西側が使い始めた言葉だ。
実効支配するハマスには、国家としてのなんの権限もない。
ガザのパレスチナ人は外国旅行も出来ないし、税金を払ってそれをインフラ整備や教育に使うこともできない。
個人の自由はないし、外国と通商をすることも、国家としての権利もなく、牢獄に閉じ込められた終身犯と同じ扱いだ。
訴えて聞いてくれる人がいるなら話もわかるけど、そのまま現実が固定され、他のアラブ諸国からもあきらめの声がもれる。
ガザのパレスチナ人の中にも、あきらめてユダヤ人と共存する者も出てくる。
しかし肉親を殺された者の中には、あきらめきれずに抵抗する者もいるだろう。
彼らがテロ(ゲリラ攻撃)に走ったとして、それのいったいどこが悪いのか。
だれが殺された肉親のかたきをとってくれるのか。
ゲリラ攻撃以外に彼らにとれる手段はあっただろうか。

悪いことはいわない。
どっちに味方しようとあなたの勝手、しかしハマスを一方的に悪くいうのはやめるべきだ。
ウクライナ戦争でもそうだったけど、あまりに相手の立場を理解しない日本人が多すぎる。

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中国の旅/おことわり

無錫に到着した日に見た光景の続き。

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どうでもいいんだけど、ここでお断りを。
わたしはこのブログをしょっちゅう見直して、マチガイ、カン違い、勢いで書いてしまったことなどがないかとチェックしている。
写真や画像を追加することもある。
だから更新直後はまだ最終稿ではないことを了解してほしい。
4日、5日たてばだいたい最終稿になるから、そのころもういちど読んで・・・・
といったって、アホいってんじゃない、おまえのくだらないブログを、そんなに何度も読めるかという人がいるかも知れない。
ああ、そうですよ、どうせわたしのブログなんざということはよく心得ているから、これはあくまで興味を持っている少数の奇特な人へのお断りざんす。

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大発展している中国では、この写真のような景色はもう見られなくなっているだろう。
これは30年まえの、二度ともどらない失われた過去の記録だ。

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2023年10月26日 (木)

中国の旅/無錫到着

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「無錫」は中国語の簡体字で書くと「无锡」、発音するとウーシーという。
3年まえの団体ツアーで来たとき、ガイドさんがウーシーです、ウシシシと冗談をいっていた。
名前の由来は、むかしこの街で錫が採れたのに、いまは採れなくなったからだというんだけど、最近では錫よりレアアースだもんね。
中国ってむかしからいろんなものが採れたんだねぐらいは感心するけど、あんまりわたしには関係のない話で、関係がなければ気にしないことにしているのだ、ワタシゃ。

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無錫に着いたときは今にも降り出しそうな天気だった。
列車を下りて、売店でまず地図を一冊買う。
ひとりで下り立ったのは初めてなので、わたしは無錫の地理についてまったく明るくない。
駅から眺めると、駅前をまっすぐ行ったところに「中国飯店」という大きなホテルが見える。
とりあえずあそこに泊まろうと歩き出したら、サングラスをかけた中年女が、タクシーは要らないかと話しかけてきた。
もっぱら中国人との会話に努めることにしているわたしは、タクシーは要らないけど、どこか安いホテルを知らないかと訊いてみた。
女は仲間らしいタクシーの運転手と口を揃えて、ある、ある、200元のホテルがあるという。
200元とはうれしいハナシである。

けっきょくこの運転手の、車名、年式、国籍ともまったく不明で、それでも生意気にメーターはついているという、ものすごいポンコツ・タクシーに乗っていくことにした。
乗るまえに距離を確認しておこうと思ったけど、中国語で「近いのか」というセリフがわからなかった。
しかし「遠いのか=ユエンマ」という言葉は知っていた。
どっちで訊いても同じことだ。
運転手は、いや、遠くないという。
地図で場所を教えろと要求すると、あまり遠くなさそうなところを指でなぞってみせた。
まあいいだろうと乗り込むと、運転手はメーターを入れなかった。
着いてからあんまり高いことをいったらブッとばしてやるぞと思う。

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連れていかれたのは「麗新賓館」という、まあまあ大きめのホテルで、駅からほんの10分で着いた。
場所は、無錫駅から「通景路」を道なりに景山に向かい、「内塘河」という運河の橋のたもとである。
この少し先には「京杭運河」というもっと大きな運河がある。
無錫も蘇州と同じような運河の街なのである。

このホテルはいまでもあるかと調べてみたけど、見つからなかった。
無錫も大発展して、新しいホテルが乱立するようになると、改革を怠ったレベルの低いホテルは、みなその奔流にまきこまれて絶滅したのかも知れない。
こういうときストリートビューがあれば、現地を直接のぞけるのにと思う。

タクシーの運転手はネズミかイタチを思わせる狡猾そうな男だったけど、なかなか親切で、わざわざホテルの中までついてきて、わたしのかわりにフロント係に説明してくれた。
タクシー料金も20元ですんだから文句をいうほどでもなかった。

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フロントには庶民的な顔をしたおばさんがいて、ふたつ返事で宿泊OKだった。
安いのはいいけど、あまりひどい部屋でも困る。
部屋を見せてくれというと、これも親しみやすい顔をしたお姉さんが部屋に案内してくれた。
おばさんもお姉さんもみなジャンパーやオーバーをはおったままだ。
ホテルの中でも暖房はあまり効いてないのである。

このブログでわたしが“おばさん”を乱発することに、失礼じゃないかと感じる人がいるかも知れない。
しかしわたしはウクライナ問題でも、プーチンの場合は親しい友人のつもりなのでつけないけど、たいていは敵味方に関係なく“さん”をつける。
若くはない女性を呼ぶのにほかの言葉があるだろうか。
一説によると、中国でも日本語の「おばさん」は通じて、あるていど図々しくなった中年女性という意味も同じだそうだ。
いまや“おばさん”は世界共通語なのである。

2階の部屋にいくには毛布のような分厚いカーテンをかきわけて、乱暴な動きをするエレベーターに乗っていく。
安ければたいていのことはガマンしようとわたしはおおらかに考えていたけど、部屋を点検すると、トイレはあまりきれいではなかった。
しかしまあ、いちおうベッドは2つあって、シャワーもついている。
窓から見える景色は、となりの建物のベランダの洗濯物と汚い運河だけだったけと、わたしが寝泊まりするのに不便はなさそうである。
200元といえば2400円ではないか、文句をいってはバチが当たらあ。

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わたしは部屋に荷物を置き、サブ・カメラのニコン35Tiだけを持って、ぶらぶらとそのへんの散策に出た。
ホテルの建物はかどが美容院になっていて、そのまえで幼児と女性が遊んでいた。
ホテルのとなりの民家にはおばあさんや子供たちがいた。
わたしはさっそく彼らの写真を撮った。
サブ・カメラとして35Tiを買ったのは正解だった。
こいつは小さくて軽くて、こんな気軽な散策のお供にはきわめて重宝である。

ホテルのすぐ前の内塘河はきれいではない。
きれいな川など中国にあるわけがない。
いったい中国の河が汚いのは、なんでだろうと考えてみた。
もちろん下水道やゴミ処理場など、インフラ整備の不完全さがいちばんの理由に決まってるんだけど、ツバをはいたり、なんでもかんでも平気でそのへんに捨てる中国人のモラルの欠如は、いったいなにに起因しているのか。
中国では、川は広大な平地をゆったりのんびりと、時間をかけて流れているという地形的要因もあるだろうが、それはあまり人間精神の考察材料にはなりそうにない。
考えたって1文にもならないことだから、結論を先延ばしにしたまま歩き続ける。

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運河のほとりにヤキイモ屋が出ていて、わたしが珍しそうにながめていると、親父が食ってみろといって石焼きイモを1個くれた。
見てくれは悪いけど、このヤキイモはひじょうに甘くておいしかった。
なにしろ中国のことだから、正真正銘の有機農業の産物にちがいない。
甘いのはいいけど、親父が軍手の代わりにスリッパを使っていたのはあまり感心しない。

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運河にそって歩き、橋を渡って近所を一巡し、通景路を横切って向こうの通りに入りこむと、そこに自由市場があった。
市場のない中国の町なんてあるわけがないのである。
開放政策のおかげで、中国では誰でもそのへんの道ばたで物を売ることができるようになり、自由市場のにぎわい、そして品物の豊富さを見ていると、ここが共産主義の国であるとは信じられなくなってしまう。

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市場をぐるぐる見てまわる。
日本では見ることのない変わった仕事、奇妙な食べものなど、好奇心の強いわたしにはあいかわらず刺激満点の場所である。
ドラムカンを利用した大釜でセイロが蒸されているし、大きな鍋でオコシのようなお菓子を製造販売しているおばさんもいれば、道路上で鏡のついたモダーンな洋服箪笥を売っている男もいた。
きれいな箪笥だけに、路上で売る神経が理解しにくい。
またオコシと箪笥が同列で売られているのもわかりにくい。

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ある露店では男が大きな中華包丁を使って、肉をこまかくきざんでいた。
わたしが写真を撮ろうとすると、彼は張り切ってさらに激しく包丁を上下させた。
巨大なバカ貝のカラを器用にむいているおばさんもいた。
このおばさんもカメラを向けると、あら、いやだあといって、嬉しそうだった。
まことにもって親しみやすい人々である。

箪笥やバカ貝くらいではおどろかないけど、ある場所では男が、生きたハトの皮をむいでいた。
これは上海の市場でも見たことがあるけど、見ていると両手だけで、くるりくるりとかんたんに羽毛のついたままの皮をむいてしまう。
手ぎわはみごとだけど、ハトは皮をむかれてもまだひくひくと動いているので、文明国の住人には正視にたえない光景である。
しかしこれを軽蔑するわけにはいかない。
自分が手を下さないからといって、手を下す人間を野蛮とみなすのは欺瞞である。
日本人の女性なら目をそむけるだろうけど、そういう彼女だって、割烹で口をパクパクしている活け作りの魚をみてよだれを流しているではないか。
アフリカの原野では今日もライオンが、カモシカを生きたままかじっているのだし、市場の親父が生きているハトの皮をはいだとしても、生物の営みとしては、もっとも素直で自然なものであるのだ!

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市場をはずれると、路上にテーブルを置いてポーカーをやっていたり、大きなテーブルを持ち出してビリヤードをしている男たちもいた。
ある場所では子供たちが陶器でできた独楽をまわして遊んでいた。
まわっている独楽を、棒の先についたムチでひっぱたくと、派手な音がして、わたしもやってみたくなってしまった。
べつの場所では、子イヌを入れたダンボールを見張っている少女がいた。
上海あたりでペットを見るのはめずらしいのに、わたしは無錫の旅ではけっこうあちこちでイヌやネコを見た。

このとき撮った写真が多いので、このあとに別項を作ってそれをずらっと並べる。

そのうち小雨が降り出したので、わたしはあわててホテルにもどった。
すると宿の主人らしき男性が飛び出してきて、あわてた様子でなにかいう。
ワカリマセンと答えたけど、紙になにか書いてえらく熱心である。
苦労して理解してみると、ようするに、このホテルでは外国人を泊める設備が完璧ではありません、ほかに安いホテルを紹介しますからそちらへ移って下さいという要請だった。
納得できないけど、警察から外国人を泊めることに対して、なにか指導でもあったのかもしれない。
相手を困らせてもはじまらないので、宿泊料金を返してもらい、タクシーまで呼んでもらって、わたしは別のホテルに移ることにした。

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2023年10月25日 (水)

全体の把握

ウクライナ戦争でもなんでも、つねに時間と空間の全体を把握しておくことが大切だよ。
イスラエル問題でほかがおろそかになっているけど、ウクライナとイスラエルも関連がないわけじゃない。
いまのアメリカ国内はどうなっている?
ヨーロッパはどうなっている?
英国は、ドイツは、フランスはどうなっている?
日本は?
日本は、まあ、NHKも苦労してんなということぐらいわかるけど、このあいだにもウクライナでは兵士の死体が積みあがっているんだ。
ロシア勝てというのは、わたしが戦死者をこれ以上見たくないやさしい人間だからで、ウクライナ勝てという人は、まだまた戦争を長引かせようという残忍な人だということに気がつかないかね。

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中国の旅/西子号

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無錫に出発する日は、朝5時に目覚めてしまった。
部屋は15階だというのに、龍門賓館では地上の騒音がそうとうにはげしい。
やかましいなと思いつつ、窓から見下ろすと、駅のホームが雨にぬれているのがわかった。
この日の天気は雨まじりの曇天だった。

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シャワーを浴びたあと、身支度をととのえ、前日の夜に食事をした駅構内の「上海埔友快餐館」に行ってみた。
この店は日本の立ち食いソバみたいな軽便な食堂で、日本の観光客がぜったいに利用しないような汚い店だ。
食券売場で買った食券をカウンターの上に置き、てきとうなテーブルにすわって待つと、やがてカウンターに注文の品が置かれる。
日本にもよくある方式である。
前夜の食事は、楊州チャーハン(10元)とビール(6元)ですませてしまっていた。
これは日本円で200円ちょっと。
味も見てくれもけっしていいわけじゃないけど、ちゃんと腹はふくれるし、なにより中国の一般大衆の食事のありようを、身近に観察できるのが楽しい。
この朝食は麺とビールで10元だった。

この日は無錫へ行く予定なので、朝食のあと、まずホテル内の切符売場へいく。
切符売場は7時半から営業で、10人ほどが並んでいたけど、あいかわらず係の女性の態度はわるい。
それでも並んでいる人たちは和気あいあいとしていた。
中国ではなにかを買うとき、店員の態度がわるいと怒っていては身がもたない。
それにホテル内のこの売場は1等車の切符しか売ってないので、ここにならんでいる人たちはだいたい金持ちのはずである。
金があれば、たいていの人は和気あいあいとするものだ。

あらかじめわたしは、上海を昼ごろ出て、無錫に午後の早い時間につく列車はないかと、時刻表を調べておいた。
すると「游12」という列車が11時30分に出ることがわかった。
これなら余裕をもってホテルをチェックアウトできるし、無錫には13時半に着くから向こうでホテルを探す時間も充分ある。
わたしはこの列車に決めた。
座席は2等でも3等でもいいけど、この売場では1等車以外は売ってくれないことになっていて、しかもおそろしいことに、外国人は乗車券、指定席券、寝台券、空調費など、すべての料金が一律に倍である。
これについては中国側にも言い分があって、なにしろわたしは中国の鉄道で働く人々より何倍も収入の多い国から来たのだ。

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去年、蘇州に行くのに使った列車もこれだったかもしれない。
そうだとすれば2階建て列車のはずだ。
この列車に2楼はアリマスカ、アリマシタラわたしは2楼が欲シイというと、不愛想な係の女性は少しばかり笑顔をみせて没有といった。
2階席はもう売り切れということだった。

1階でも我慢するとして、切符代は50元(600円くらい)と空調費などがプラス。
これは日本でいうと1等の座席指定にあたる。
外国人は料金が一律に倍と書いたけど、この値段が高いか安いかは日本の鉄道と比較してみればよい。
上海~無錫間は126キロ、これは東京から東海道線の三島あたりまでの距離に匹敵する。
JRで三島まで、1等の座席指定に乗って600円ですむだろうか。

9時ごろ、宿泊料金を精算してもらってチェックアウトをする。
宿泊料金は680元で、服のクリーニング代など、もろもろが加算されて842元になった。
これでは前日に払っておいた押し金(保証金)の1万円で足らないので、20元ほど追加を支払った。

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ホテルをチェクアウトして駅に行ったが、まだ時間はたっぷりある。
列車を待つあいだに、駅前に出来た新しい4階建てのデパートを見物してみることにした。
このデパートは、駅前広場をはさんで上海駅の正面に対座しており、「MP名品商厦」という大きな看板を上げている。
入ってみてその豪華さにたまげた。
店内は全体が大きな吹き抜けになっており、1階には池がしつらえられ、たくさんの噴水が七色の光で照明されていた。
1階が化粧品や貴金属品の売場、2階はファッショナブルな服装品売場であるところは日本のデパートと同じで、2階には日本の“三愛”も入っていた。
しかし豪華なのはせいぜい2階までで、3階、4階はだんだん中国らしいダサい売場ばかりになる。
エレベーターはひとつもなく、エスカレーターは1機が修理中だった。

わたしは赤いボールペンを買ってみた。
ボールペンは2元2角(25円くらい)だけど、買い方は中国流で、たかがボールペンでも、以前上海の本屋でマンガ本を買ったときと同じセレモニーを体験しなければならない。
あちこち走りまわって、なんとか売っていただくという感じだ。
金銭の管理がきびしいのは、店員にちょくせつ金のやりとりをさせると、品物もお金もみんな行方不明になってしまうということだろうか。

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駅前には地下鉄も出来ていた。
のぞいてみたが、まだ1日の本数が8本しかなく、料金も高いようで、とても一般の中国人の足にはなりようがないようだ。
地下通路はがらんとしていて、物見客らしい人々がなんとか地下鉄を見ようと、せいのびして改札口からホームをのぞきこんでいた。
なんとなく冷え冷えとした光景なのは、がらんとした通路のせいばかりではなく、暖房が効いてないせいもあって、改札の女性駅員はボアつきのジャンパーで退屈そうにすわっていた。

地下鉄についていうと、わたしはひょんなことから上海駅前の変貌を順をおってながめることになった。
3年前にひとりで上海の駅前を歩いたときは、そこには戦時に防空濠として使われるという地下商店街があるだけだった。
1年前に来たときは駅前は大々的にほじくり返されていた。
そして今年はそこに地下鉄ができているのを見たのである。
なんだか魔法を見ているようだ。

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上海駅前はだだっぴろい広場になっていて、この日の広場はいつもどおりの混雑だった。
いや、いつもより混雑がはげしいようだ。
今年は1月31日から春節(旧正月)が始まるので、帰省する人々の混雑がそろそろ始まっていたのである。
そうでなくても、だいたい中国の大都市の駅前というのは、どこでもいつでも夜中でも、人間があふれかえっているのがふつうだ。
夏になると暑くて家にいられないというので、用もないのに駅に来る連中もいるから、よけいに混む。

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しかし異国では、人間をながめているだけでもおもしろい。
わたしは人混みの中を、周囲を観察しながらゆっくり歩いた。
うすぎたない大勢の人々が、夜逃げでもするように大きな荷物をかかえこんで、あちらこちらの地面にすわりこんでいる。
集団就職で働いていたらしい娘さんたちのグループも、駅まえで野宿をしたらしく、疲れきったようすで肩を寄せあっていた。
人々の中には、独特の服装や頭巾をかぶった少数民族の姿もみられる。

駅前は混雑していても、1等の旅客には静かな軟座待合室が用意されていた。
ドアひとつへだてたこの待合室は、外国人や金持ちの中国人のためのもので、一般大衆が足を踏み入れることのできない別世界だ。
列車の発車まで1時間足らずというところで、わたしは軟座待合室に入り、今度はそこにある土産もの売場を見てまわった。
なんとなくホコリっぽい売場ばかりで、ある店では大きなあくびをしている店員の娘と目が合ってしまったから、ニヤッと笑ってやった。

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列車(西子号)の指定席に行ってみると、わたしの席は中国人の家族らしいグループに占領されていて、わたしは彼らに頼まれて別の席に替わることとなった。
替わった席は通路側で、となりと正面に不愛想な男性が2人座っていたので、あまり居心地はよくなく、景色もあまり見られなかった。
この列車は蘇州までほぼ満員だった。

無錫の位置をおおまかに述べるなら、まず長江(揚子江)の河口ふきんに発展した街が上海であり、そこから列車で西に一時間ほどゆられたところに蘇州があり、蘇州から一時間ほどゆられた先が無錫である。
蘇州の近くには、雪でも降ったのかとおどろくほど、あたり一画がまっ白になった街があった。
セメント工場があるんだけど、公害はダイジョウブなんだろうかと思ってしまう。

蘇州に着くとほとんどの客が下車して列車はがらがらになってしまった。
車掌がまわってきて、テーブルの上に残された食べものの残骸を掃除していく。
あるテーブルで車掌が飲み残しの紙コップを捨てようとすると、そこにはまだ男性客が座っていて、持っていかれてたまるかと、あわてて紙コップをひったくった。
なにもあんな顔をしてにらむことはないじゃないか。
相手は女性であるし、ここはひとつ微笑みをうかべて、イエ、まだ飲みますとひと言いえばいいのに。
それとも中国では、車掌はいちおう国家公務員なので、一般庶民がお上に抗議するなんてとんでもないことである・・・そういう習性が身に染み込んでいるために、この客もお上のはしくれである車掌に文句をいうことができず、ただ顔と身ぶりだけで抗議の意思表示をしたのだろうか。

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列車ががらがらになったので、わたしは車掌にことわって2階席に移ってしまった。
すいた車内をひとりの少女が走りまわっていた。
写真にかこつけて彼女とすこし会話をしてみた。
家は上海かと訊くと杭州だと答えたから、またえらく遠くから来たなと思ったら、母親がこの列車の車掌をしていて、列車を幼稚園として利用しているらしい。
日本だったら公私混同とえらい騒ぎになるところだ。

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2023年10月24日 (火)

中国の旅/その日に

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成田空港の大型モニターには、阪神大震災のニュースがつぎつぎと飛び込んでいた。
高速道路が崩壊している映像まであって、どうなるかと思ったけど、中国東方航空機は通常通りに飛んでいた。
わたしは禁煙席にして下さいと頼んで、窓ぎわの席の搭乗券をもらった。
新しいシャトル・システムでサテライトビルへ行く。
前回の旅ではユナイト機で、そのときはバスで飛行機まで運ばれたから、すでに開通していたはずのシャトル・システムは使ったおぼえがない。

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シャトル・システムは成田空港の新しい旅客ターミナルの売りもので、空気浮上式の浮かぶ移動システムだそうだ。
たしかにおどろくほど静粛で、高尾山のケーブルカーのように、2台のシャトルが5、6分間隔で、交互にすれちがいながら客を運んでいる(だからシャトルというんだけど)。
ものの2分でサテライトビルについたら、つぎは“動く歩道”に乗って所定の待合室にいく。
こちらでも備えつけのテレビが阪神大震災を報じており、乗客たちが不安そうに画面に見入っていた。
この時点での死者はまだ二百数十名となっていたけど、崩壊したビルや高速道路などを見ると、とてもその程度ではおさまるまいと思えた。

そのうち搭乗が始まった。
今回の東方航空の飛行機は以前のものよりきれいで、機首にどこかぶつけたようなスリ傷もなかった。
塗装をぬりかえただけかもしれない。
わたしの座席は左側主翼の少し後方部分で、まあまあ景色は見える。

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離陸したのは14時05分。
毎度のことながら、わたしは飛行機の窓から外の景色を見るのが好きである。
雲海は雪山を見ているようで、もっこりした雲は蔵王の樹氷群のようだし、そのあいだにただよう雲はまるで地吹雪のように見える。
ただしここではすべてが静止、沈黙していて、ちょっと荘厳な景色である。

上海までの飛行中に機内食が出る。
チキンにするか、ビーフにするかと訊かれるのもいつもの通り。
小食のわたしはこれを見越して空港の食事をひかえていたので、ビーフ弁当をきれいにたいらげた。

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時間つぶしに機内報をながめると、中国の高級ホテルの写真がいくつか掲載されており、これを読んでわたしは、“上海波特曼香格里拉”というわけのわからない文字の羅列が、シャングリラ・ホテルのことであることを知った。
また中国のテレビ局で「三国志」が製作されていることも知った。
写真でみると、湖のほとりに大規模なオープンセットが組まれ、実物大の軍船なども作られていて、さしずめ中国版大河ドラマといったところ。
わたしは中国に滞在中、機会があったらこの番組を観てみたいと思った。

上海まであと15分のアナウンスがあったのは16時35分ごろで、じっさいの着地は17時(中国時間の16時)ちょうどだった。
この日の上海は雲のなかに太陽の円盤がぼんやり見えるていどの天候で、降下するにつれ、わたしの位置から地表は逆光になり、飛行機のあとを追ってオレンジ色の太陽が、クリークや貯水池の中を光りながら移動していった。
1年ぶりに上空から見る上海は想像していたよりずっと緑が多かったけど、これはすべて畑の冬野菜らしい。

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虹橋空港をスムースに出る・・・・以前に上海娘のW嬢がアダルト・ビデオを持ち込もうとして、空港で没収されたことを聞いており、この日のわたしはビデオテープを1本持っていたからちょっと心配だったけど、これについてまったくなんのチェックもなかった。
ツアーでもひとり旅でも、日本人に対する審査はあまいらしい。

空港でタクシーを待っていたら、わたしのすぐ後ろに一見して日本人とわかる初老の男性が並んでいた。
どうせ街まで行くのだろう、相乗りしませんかとわたしのほうから持ちかけると、男性はハァ・・・と答えた。
最初はわたしに警戒心をいだいているようで、無理もない。
上海の空港にはタクシーの客引きや、金を交換してくれという不逞のやからがけっこう出没するのである。
この人はSさんといって、この日のうちに仕事で無錫まで行くのだという。
上海駅のそばの龍門賓館で、取り引き先の人間と待ち合わせだというから、そこに泊まる予定のわたしとドンピシャリじゃないか。

上海駅そばの龍門賓館だとタクシー運転手に中国語で指示すると、中国語できるんですか、エライですねえとSさんはしきりに感心する。
わたしも中国語を勉強して3年であるから、ホテルの名前ぐらいいえるのである。

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高速道路を利用して、上海駅までタクシー代は50元プラスだった。
前回の蘇州の旅(94年)のときは、いちおうセット旅行だったので旅行会社の車が迎えにきて、みんなでワイワイ騒いでいたから、高速道路を走った記憶がない。
そのまえの上海ひとり旅(92年)のときは虹橋空港の近くの銀河賓館に泊まって、ホテルのまわりをうろうろしたけど、そもそも高速道路なんか見たおぼえがない。
いったいこの高速はいつ出来やがったんだと思う。

わたしのポケットには前回の旅行であまった人民元がいくらか入っていたから、わたしが最初に金を出して、あとでワリカンにしましょうというと、Sさんもようやく信用したらしく、いいや、ワタシのほうは会社の出張経費で落とせますからこちらで出しておきますという。
それでは申しわけないので、わたしは持っていた中国紙幣を25元ばかりSさんに押しつけた。

わたしが龍門賓館に泊まるのは2回目である。
去年、仲間たちとツアーでやってきたときは、ホテル代もツアー料金に組み込まれていたから、ひとりで泊まるといくらとられるのかわからなかった。
今回はまったくのフリー旅行なので、ホテルの手配もすべて自分でやらなければならない。
フロントで訊くと、1泊が740元あまりだという。
この日のレートは日本円の1万円が人民元の830元くらい(1元=約12円)、ということはこれは9千円近い金額である。
たまったもんじゃないと思ったけど、翌日さっそく無錫に出かける予定のわたしには、駅から近いということは貴重なので、黙っていた。

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海外旅行で安いホテルをおのぞみのむきには、ドミトリーという方法があるそうだ。
これはようするに共同部屋という意味で、金のない旅人がひと部屋にごちゃまぜに押し込まれる。
中国のドミトリーなら40元とか50元とか、信じられないほど安くてすむらしい。
そういう宿も体験してみたいと思うけど、だからといって、始めから終わりまでそんな安宿ばかりのケチケチ旅行をしたいとは思わない。
ドミトリーやユースホステルは、金のない学生や勤労青年のための宿で、なんとなく自由気ままな旅のように思えるものの、わたしのような性格、わたしのような年令の勤労者にとっては、かならずしもそうとはいえない。
同じ部屋で他人に気をつかうのがまずイヤだし、見ず知らずの人とすぐに仲良くなれるといわれても、わたしはだいたい孤独を愛する人間なのである。
共同部屋ではサイフや荷物からも目をはなせないし、ひとりでのんびり旅の感慨にふけるなんてことも、そばに他人がいてはなかなか落ちついてできそうにない。
こんなふうに四六時中、他人や荷物に気をつかう旅がなんで自由気ままなものか。
5、6千円の出費ですむなら、きちんとしたホテルに泊まって、荷物を部屋に放り出し、手ぶらで街に飛び出せるほうがはるかに自由気ままでいい。
自由に対価を払うのは当然のことだし、旅は幸福なものでなければいけない。
ただし9千円はちと高すぎる。
もっとも外国のホテルは人数ではなく、ひと部屋いくらというのが多いから、2人で泊まれば半額になるわけで、いちがいに高いとはいえないけどネ。

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ホテルの喫茶店でSさんとしばらく会話をした。
この人はセンベイを作る合弁企業の指導のために、日本の製菓会社から派遣されてきたのだそうだ。
センベイって、日本で売るんですかと訊くと、そればかりじゃありません、つまり米不足の騒動がまたあったときの保険なんですなどという。
中国は人件費が安いというので、日本企業の中国移転が華やかだったころである。
はあはあと、あまり得意でない経済の話なんぞしているうち相手企業から迎えが来たので、Sさんとはここで別れた。

Sさんがいなくなったあと、わたしは大急ぎで、上海娘のW嬢(の友人)に頼まれた仕事のひとつを片付けることした。
仕事というのは、日本に出稼ぎに行ってるその友人の家族に品物を届けることで、もしもSさんと会話なんかしていなければ、とっくに届いているはずだから、相手の家族が待ちくたびれているだろう。
わたしは家族の家までタクシーを飛ばした。
これは私用なので細かいことを書いても仕方がないんだけど、相手の家族の家というのが、虹口地区のもと日本租界にあったので、気がついたことだけ書いておく。

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友人の家は虹口地区の四川北路にあって、“横浜橋”という橋の近くだというのでまずそれを目印にした。
このあたりは日本人がたくさん住んでいたところで、戦前の歌謡曲(夜霧のブルースなど)にはこの地名の出てくるものもある。
わたしの示したノートを見て、タクシーの運転手が「ファンパンチャオ」ですねという。
橋はすぐにわかった。
しかし、じっさいに見てみたら長さが10メートルていどの、ドブにかかるような小さな石橋だった。
いまはどうなってるかと調べてみたら、現在はこの写真のように立派な橋になっていた。
おかしいねえ、わたしが見たものとはだいぶイメージが違うんだけど。
30年ちかい歳月をはさむと、橋も肥満するのか。
日本人が嬉しがるからって、わざわざ日本人のために新しくしたのかも知れない。

横浜橋のそばまで、タクシー代は20元プラス。
ちなみに上海のタクシーの基本料金は14.4元(95年1月現在)。
わたしが利用したのは上海でいちばん数の多いサンタナ・タイプ(中型)で、小型のシャレード・タイプには乗る機会がなかったから、中型小型で料金に差があるのかどうかわからない。

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秋桜

国際報道の別府正一郎サンが立教の学生たちに講義している映像を観た。
学生たちはみんな素直に彼の言い分を聞いているようだった。
ものごとは公平にとか、デタラメ情報にだまされないようにといわれると、わたしなんかどのツラ下げていってるのかと、正一郎サンをどなりつけたくなっちゃうけど、ま、やめておこう。
素直こそ学生たちの特権だし、これから長い人生を経ていくうちに、彼らはいろんな色に染まっていくわけだ。
まちがいがあれば、その責任を負うのは彼ら自身なのだ。
わたしは彼らの未来を警告した。
だれも聞く耳を持たないだろうけど、わたしの仕事はそれだけでいいんじゃないか。

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わが家から自転車で30分ほどのコスモス畑。
花の見物に行ったわけではなく、もしかしたら種が取れるんじゃないかと様子を見に行ったんだけど、まだそれには早かったね。

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2023年10月23日 (月)

中国の旅/無錫へ

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1995年というとなにを連想する?
ウィンドウズ95が発売された年を、かりにパソコン元年とすれば、いよいよパソコン時代の開幕だ。
パソコンはやがてインターネットを生み出し、世界をそれまでとは一変させるほど狭いものにしてしまう。
とはいうものの、インターネットが海外旅行のための強力なツールになるのはまだ先の話で、わたしは情報を得るために自分で研究しなければいけなかった。

わたしはまた中国へ行くつもりでひとりで計画を練っていた。
また中国かい、好きだねえといわれそうだけど、世界をくまなく見るのも見識なら、わたしみたいにひとつの目的地を徹底的に見ようというのも見識である。
どっちがいいかは人による。
だいたいわたしには、世界をくまなく見るほど金がない。
中国はすぐとなりにあって、諸物価も貧乏人のわたしにふさわしいくらい安かった。
安いだけではなく、アメリカやヨーロッパの先進国に比べても、そこははるかに好奇心を満足させてくれるところだったのだ。

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わたしの中国への旅は、1992年夏の団体ツアーによる江南の旅から、同じ年の上海ひとり旅、そして1994年正月の蘇州ひとり旅と、少しづつ距離を伸ばしてきた。
するとつぎは「無錫」ということになる。
なんで無錫なのか。
無錫は江南の旅でいちど行ってるけど、上海や蘇州とちがって農村が多いところで、そういうところを歩いてみたくてたまらなかったわたしは、欲求不満が爆発寸前のマグマ溜まり状態だったのだ。

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現在ならインターネットで飛行機からホテルの予約、それどころかどんなホテルなのか、どんな場所なのかということまで調べられるけど、当時はインターネットもまだ黎明期で、そんなわけにはいかなかった。
出発まえのわたしの調査は、「地球の歩き方」や「AB-ROAD」などのガイドブックの研究から始まる。
それまでの旅では飛行機とホテルは旅行会社まかせ、向こうへ行ってから勝手に歩きまわるのがせいぜいというツアーが多かったけど、今回はまた一段レベルアップして、飛行機とホテルもすべて自分で選んでみることにした。

このころわたしが作った上海のホテルの一覧表がある。
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漢字ばかりでわかりにくいけど、5つ星の“波特曼香格里拉酒店”はシャングリラ・ホテル、“上海静安希爾頓大酒店”はヒルトン、“太平洋威斯汀大酒店”はウェスティン・ホテル等の外資系ホテルだ。
1年まえにわたしがHゴルフの会長さんに連れられていった花園飯店は、租界時代のビルを活用したホテルで、日本のホテル・オークラが運営していた。
わたしの狙うのは3つ星クラスである。

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あっちこっちの旅行会社を比較しているうち、わたしははじめてHISに出会った。
いまでは上場企業になっている(コロナ禍で減資になったみたいだ)けど、当時は格安旅行の専門で順風満帆といった会社だった。
このあとしばらくは、わたしは海外に行くたびにこの会社の世話になった。

HISで格安飛行機と、わたしの財布にふさわしいホテルをみつくろってみた。
蘇州に行ったとき、飛び込みでかんたんに南林飯店に泊まれたことが頭にあったから、最初の晩だけ上海駅の隣りにあって便利な龍門賓館に泊まることにし、その後は現地で勝手にホテルを探すことにした。

ところで無錫だけど、はじめて行ったとき、どうしてこの街がコースに含まれているのかわからないほど、わたしは無錫という街を知らなかった。
その後、日本で流行った「無錫旅情」という演歌があって、これで人気が出たことを知ったものの、わたしは演歌をあまり聴かないし、いま聞いてもカラオケ愛好者ご愛用の歌のようで、とくにいい曲だとは思わない。
歌の歌詞を引用して参考にしようかと思ったけど、著作権がうるさそうだし、固有名詞をちょいと変えれば、どこが舞台であってもかまわないつまらない詩だった。

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わたしがまた中国旅行を企てていることを知ったBさん(前回の蘇州に行った仲間のひとり)が、だれそれがシンガポールへ行ってるんだってよという。
シンガポールも華僑の国で、中国と無縁じゃないけど、すっごくきれいな近代国家らしいので、わたしはぜんぜん興味がないところだ。

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わたしはこの旅に2台のカメラをかついでいくことにした。
1台は以前からのニコンF3に、レンズが24ミリ広角、標準、そして135ミリの望遠を用意した。
もう1台のカメラは暮れに買ったばかりの高級コンパクト、ニコン35Tiである。
本格的な写真はF3にまかせ、35Tiにはスナップていどの役割を担わせるつもりだ。
フィルムは冷蔵庫に入れてあった以前のものを含めて、全部で17本を用意した。
どうでもよくないけど、わたしの旅では、じつは帰国してから現像代だけで馬鹿にならない費用がかかるのである。
まだデジタル・メラも黎明期だったのだ。

そのころ、たまたま八王子に行く用事があったわたしは、アフリカ探検にでも使えそうな頑丈そうな革靴を買ってきた。
まだトレッキングシューズなどが一般的になるまえで、スニーカーでは都合が悪い場所に招待された場合、フォーマルな靴としてごまかせそうな黒の靴である。
これはいいと思ったけど、帰宅してよく見たらメイドイン・チャイナだった。
靴にとっては里帰りになるわけだ。

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ところで1995年というと、もうひとつ忘れられない事件があった。
『阪神大震災』がそれで、こともあろうに、わたしが中国に旅立つその日の朝に発生したのである。
テレビが震災の一報を伝えていたけど、地震があったのはこの日の午前5時46分で、わたしは5時にいちど目をさまし、時間が早いからと、また寝入った直後でぜんぜん気がつかなかった。
しかし気がついたとしても、飛行機のチケットは購入済みで、べつに関西に親戚もないわたしが旅を躊躇する理由にはならなかったはず。
家を出たのは朝8時半ごろだ。

成田エクスプレスのバスの中で今回の旅のスケジュールを予習してみた。
旅の日程は10日間だけど、航空券はオープン・チケットにしてあるから、その気になればビザの有効期限いっぱい(30日)までは日程を延長できるわけだ。
しかしそのまえに所持金が底をつき、会社をクビになるに決まっている。

上海に1泊したあとは、無錫に3泊して、早めに上海にもどり、またあちこちふらつく予定。
じつは蘇州の旅に同行した上海娘のW嬢や、その友人に頼まれた用事もあるので、ふらついてばかりもいられないのである。
なんのかんのといってるけど、ずいぶん贅沢してるじゃねえかという人がいるかも知れない。
しかしこれは家族や家庭を放棄し、まともな人生と絶縁したからこそできることであって、わたしの人生は悲しいものなのだよ。オワカリ?

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成田空港には11時ちょうどに着いた。
わたしの4回目の中国旅行のスタートである。
ここではずらりと女の子の写真を並べたけど、けっしてイヤらしくそういう写真ばかりを撮っていたわけではアリマセン。

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2023年10月22日 (日)

今日の欺瞞

『ウクライナ軍は、ロシア側が占領を続ける南部のドニプロ川の西岸地域で、大規模な作戦を展開しているとみられる』
『集落に部隊を前進させたという分析も出ていて、今後の反転攻勢の足がかりのできるかどうかが焦点になります』
アメリカのシンクタンクは、「ウクライナ軍が集落に部隊を前進させたという分析結果を公表した」
英国BBCは、「集落が確保できれば、ロシア軍部隊・補給路を分断するための作戦が可能になるという見方を伝えている」

これは今朝のNHKニュースの発言を、できるだけ忠実に文章におこしたものだけど、あいかわらず“とみられる”だとか、“できるかどうか”というようなあてにならない表現と、都市や町ではなく、“集落”というもってまわった言い方だ。
反転攻勢をするウクライナ軍の映像も出てきたけど、川を渡るのに、なんとゴムボートだ。
ドイツが供与したレオパルト2はどこへ行ったんだ。
せめて撃たれても空気の抜けない乗り物はないのか。
これじゃパレスチナのハマスのほうが兵器は充実してるかも知れない。
ニュースには、ウクライナ軍が苦しんでいることなど、ひとことも出てこないし、これでもしゃあしゃあとしてウクライナが互角に戦っているというのは、欺瞞であり、兵士の虐殺じゃないか。
ゼレンスキーさんこそICCに告訴されて当然だ。

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ノースポール

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今年の春に伸びてきて、何か所かに分けて移植したホウキグサが赤くなってきた。
今年もまた種が取れそう。

ホウキグサの根元にはノースポールの芽が出てきた。
順調に育てば下の写真のごとくに、来年の春には菊に似たたくさんの花をつけるはず。
問題はそこまで順調に育つかどうか。
なんせ手抜き+ずぼらの庭師だもんで。

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2023年10月21日 (土)

中国の旅/おまけ

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蘇州のおまけだ。
この娘に見覚えはあるかな。
蘇州のまえにひとりで上海へ行ったとき、2人のポン引き氏にひっかかって、かわいい上海娘に紹介されたことがあるけど、今度蘇州に出かけるまえに仲間たちにその話をしたら、上海娘のW嬢が、その娘が働いていた店の名前をおぼえているかという。
わたしは記録魔だからおぼえていた。
W嬢は上海に着くとその店に電話して、かわいい上海娘がまだ同じ店にいることを確認した。

というわけで、わたしはまたこの娘とデイトをすることができたのである。
とはいうものの、こんなことでニヤけていたんでは、この先の紀行記も読んでもらえるかどうかわからないから、写真だけお見せしてそれ以上のことは書かない。
なんだ、それからどうした、彼女と寝たのか、ヤッたのかという人がいるだろうけど、これは恋愛小説じゃないのである。

わたしは2013年になると、目標をロシアに変えて、モスクワやサンクトペテルブルクを立て続けに訪問することになる。
おまえの目的地は中国だとかロシアだとか、いま問題になっているところばかりだなという人がいるかも知れないけど、わたしはもともと先進国よりも、多少は遅れている(とされる)国のほうに興味があるのだからやむを得ない。
わたしの旅はまだまだ続くし、登場する女性も多いから、乞うご期待。

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ここで合理主義者で、無神論者で、カルト宗教ギライのわたしらしからぬことを書く。
モスクワでわたしを案内してくれたのは、かほり君という日露ハーフの美少女だったけど、彼女を見たとき、わたしは上海のかわいい娘が、衣装を変えてまたわたしのまえに現れたかと思った。
ショートヘアとロングの違いはあったけど、両方ともスリムではかなげな印象といい、雰囲気がよく似ていたのだ。
人生とは同じ役者が、設定を変えて何度もあらわれる舞台のようなもの。
そんな哲学的結論を導きだして、蘇州の旅を終えることにする。

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中国の旅/会長さん

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タクシーに乗って、南京路を西に走る。
車中でも会長さんの愉快な話は続き、そのなかにこんな話があった。
東南アジアのどこかの国で、取引先が会長さんの席に娼婦をあてがってきた。
それがまるで孫のような幼い少女だったので、可哀想だから余分にお金をやって帰そうとしたものの、少女はあとで親方にその日の稼ぎをすべて差し出さなければならない。
せっかくの会長さんの好意も、裸にされて身体検査をされて残らず取られてしまうのだそうだ。
それを聞いた会長さんは、一計を案じ、ホテルの庭の立木の下に金を埋めておくから、親方の目を盗んであとで掘り出しに来なさいといってやったという。
いいことをしましたねと、わたしにはめずらしいお世辞をいう。

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15分ほどで、わたしが昼間歩きまわった「上海展覧センター」の近くにある大きな建物に到着した。
わたしは上海市内の地理にはかなり詳しくなっていたから、ははあ、マンダリン・ホテルのすぐ前にあった建物だなと気がついた。
わたしたちが到着したのは「上海商城」という、まだ新しい商業施設で、玄関は大きなアーチになっていた。
鉄柵にかこまれた広い中庭を通り抜けて、建物の玄関に横づけすると、金ボタンのコートを着たドアボーイがさっとタクシーのドアをあけてくれる。
田舎者のわたしは、正直いってどぎもを抜かれてしまった。

この商業施設はいまでもあるのかと調べてみると、建物の写真はいまでもたくさん見つかるから、同じ場所にあるらしい。
マンダリン・ホテルのほうは、その後発展のいちじるしい浦東地区に引っ越しをしたようである。

このあとは文章ばかりなので、文字を数えるのがキライな人はそろそろ撤収すること。

会長さんの案内でエレベーターに乗った。
目指すのは8階にある「上海演歌台」というナイトクラブである。
このクラブはチケット制になっていたけど、会長さんがわたしの分までさっさと買ってくれた。
失礼ですけど後学のために知っておきたいのでと、料金をうかがうと、200元でおつりがくるよという。
チケットには飲物券が2枚ついている。
店内は暗く、チケットを買うと女の子が席へ案内してくれた。
店内にはかなり高級そうなカラオケ専用ルームもある。

わたしたちが入ったとき、ちょうどフィリピンのバンドが演奏中だった。
こちらは和平飯店と比べるとぐっとくだけたロック調の曲が多く、歌手は4人で、男と女が2人づつ、バックに少数のギターなどがつく。
女性歌手のひとりは沢口靖子のようなおっそろしい美人で、もうひとりはまっ赤なルージュの肉感的なグラマーである。
男のひとりは、長髪を後ろでたばねた品のよくない大男だったけど、さすがにプロらしく、かけあいやリレー方式でうたう歌はじつに上手だった。

会長さんは気のおけない人で、ここには馴染みの女の子がいるんだけどなといって、店内をあっちこっち探して歩き、今夜はいないなという。
こんな様子からすると、かっては会長さん自身も他人からここへ案内されて、目をパチクリしたことがあるんじゃないかと思う。
話がうますぎる、これじゃ映画みたいだという人がいるかも知れない。
ズバリで、わたしはシャーリー・マクレーン主演の「スィート・チャリティ」という映画を思い出した。
この映画にも、ニューヨークのしがない娼婦が、金持ちに連れられて豪華クラブを体験するシーンがある。
金持ちにすればべつに娼婦に惚れたわけでもなく、たんなる気晴らしにすぎなかったのだけど、このときの会長さんも田舎者のわたしを連れて、退屈きわまりない日常から気晴らしのアバンチュールをする気になったのだろう。

あとで世話になった礼状でも書きたいから、失礼ですけどお名前を教えていただけませんかと訊いてみた。
会長さんは、いや、そんなたいした者じゃありませんよ、先祖は大名だったそうだけどねぐらいのことしか教えてくれなかった。
地位や身分を明かすことによって、わたしとの関係が堅苦しくなるのを避けているふしがある。
そういえば、日ごろは部下たちが世話をやいてくれて、かえってわずらわしいようなことも言っていた。

そのうちわたしはショーがよく見える位置に椅子の空いているテーブルを見つけた。
座っていたアベックに空席であることを確認して、会長さんを呼んだ。
相席になったアベックの男のほうは台湾人で、いくらか日本語を理解した。
この男性がなにか商社の仕事をしていると知ると、これは商売につながるかもしれないと思ったのだろう、会長さんはさっそく名刺を出して自己紹介を始めた。
じつはこのおかげでわたしは会長さんの素性を知ったんだけど、いやはや、仕事熱心な人である。

そのうちフィリピン・バンドの演奏が終わってディスコ・タイムになり、日本人や台湾あたりの観光客らしい若い娘たちが、ステージの前で踊り出した。
会長さんは、ここではすぐに娘さんと仲良くなれるよという。
わたしが感心して話をうかがっていると、会長さんはわたしに踊ってきなさいという。
いいえ、とてもとてもと遠慮していると、それじゃあワタシについてきなさいといって、会長さん自ら率先して踊り出してしまった。
けっしてスマートな踊りとはいえなかったけど、この人はおん歳60いくつというから、わたしはその若々しい性格にほんとうに驚いてしまう。

ディスコ・タイムが終わると、つぎはファッション・ショーみたいなことが始まった。
薄ものをまとった十数人の美女が、入れ代わり立ち代わり登場してかんたんなダンスを踊る。
西洋や日本ならここはストリップショーになるところ、当時の中国では規制がやかましいので、ファッション・ショーの真似事でごまかしているらしく、主役らしい美女が、ハイレグの水着で踊るシーンもあった。
わたしはこのあとでも中国の地方都市で似たようなものを見たことがあるけど、たいていファッション・ショーを装っていた。

わたしはトイレに行ってみた。
中国語でトイレはどこと訊くと、受付があっちですと廊下の奥を指す。
トイレの場所を尋ねるのは、海外旅行では必須の言葉だから、わたしは優先的におぼえたのである。
廊下の奥にあったトイレのドアをなにげなく開けると、とたんにアレー!という声がして、大勢の女の子がいっせいにわたしのほうをふりむいた。
わたしはまちがえて女子トイレに入ってしまい、そこはショーガールたちの控え室になっていたのだ。
女の子のひとりが、あそこあそこと、廊下の反対側にある男子トイレまで案内してくれた。
トイレもおそろしく立派・・・・

フィリピン・バンドの2回目の演奏が始まるころには0時を超えていた。
会長さんは自分が泊まっている花園飯店のバーでなにかおごろうという。
図々しくわたしもお付き合いすることにした。
花園飯店は上海の最高級ホテルのひとつで、このころ海外から賓客があると、中国政府はみんなここへ泊まらせたものである。
この最上階にあるバーでウイスキーを呑み、会長さんと別れた。
会長さんはホテルの玄関までわたしを見送ってくれた。
反社会的なところのあるわたしは、心情的に政治家や企業の経営者などと相容れないところがあるけど、この夜は完全に会長さんの人柄に魅了されてしまっていた。
どんな分野にもすてきな曲があるように、どんな分野にも魅力的な人はいるものだということを、この晩くらい思い知らされたことはない。

ホテルへもどったのは夜中の2時過ぎだった。
自分の部屋のドアをあけて、一瞬ドキッとした。
ドアにカギがかかっていなかったのだ。
部屋に入ってその謎がとけた。
わたしの帰りを待ちかねた仲間たちとW嬢が、服務員にいってカギをあけてもらい、わたしの部屋でずっと待っていたのである。
どこへ行っていたんだ、心配していたぞと仲間たちはいう。
うかつだった、というか、あまりめずらしい体験をしたので、わたしは仲間のことをすっかり忘れていたのである。

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中国の旅/和平飯店 JAZZ

蘇州を自分の足で歩きまわるという目的は達したのだから、今回の紀行記はここで終わりにしてもよかったんだけど、上海にもどったあと、ひとつだけユニークな体験をしたので、それだけは書いておこう。
ただし、わたしはフィルムが底をついたので、カメラを持って出かけなかった。
したがってビジュアル的にはもの足りないかも知れないから、文章は見るのもキライという人は飛ばしてもらってかまわない。
わたしの旅はまだまだあとがあるのだから。

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上海にもどった翌日はまたひとりで、新大陸にはじめて上陸したダーウィンのように街を歩きまわった。
そして夜になってから、有名な和平飯店へジャズを聴きに行くことにした。
ジャズやってんのか、上海ってけっこうまともな街なのねという人がいるかも知れないけど、戦前の上海にはアメリカ租界もあったくらいだから、べつにおどろくことじゃない。
上海のジャズも米国のジャズも、ギャングが支配していたころに隆盛をきわめたという点は似ているかも。

演奏は夜の8時からだというので、外灘をぶらぶらし、時間を見計らって行ってみた。
ジャズを演奏するのは1階のバーで、和平飯店そのものがクラシックな建物だし、客には欧米人も多いから、ちょっと日本ではあまりできないゴージャスな体験ができる。
洋画にはこういうシーンはよく出てくるもので、たとえばハンフリー・ボガートの「カサブランカ」を・・・・と書こうとしたけど、いまどきこんな映画知ってる人はいないよね。
ムズカシイ時代になったもんだ。

わたしはたまに吉祥寺のライブハウスにジャズを聴きに行くけど、こんな本格的なクラブで聴いたことはない。
なんとなく正装でなければ悪いような気がして、この晩のわたしはいっちょうらのコーデュロイのジャケット姿だった。
ネクタイはしてなかったけど、これでも精一杯の正装だ。
ボーイに案内されて空いたテーブルに座った。

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和平飯店のジャズは「和平飯店老年爵士楽団 /OLD JAZZ BAND PEACE HOTEL」というベテラン・プレーヤーたちによって演奏される。
“爵士”というのが中国語のジャズという意味だ。
発音は・・・漢字というのは意味だけをあらわす表意文字だから、勝手にジャズと読めばヨロシイ。

この晩の楽器の編成はセクステットで、トランペット1本に、サックス2本、ピアノ、ベース、ドラムといったものだった。
曲目はわたしもよく知っているスタンダードばかりで、「モナ・リサ」「テネシー・ワルツ」「ムーンリバー」「センチメンタル・ジャーニー」など。
たまに「北国の春」なんぞが混じる。
ほかにサックス奏者が楽器をマラカスに持ち替えたタンゴもあった。
欧米人のなかにはチークを踊る男女も現れる。
夫婦や愛人と外国に行く人は、簡単な社交ダンスをおぼえておくといいなとは、コレわたしの考え。

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演奏者たちを観ていると感慨がある。
彼らは中国の文化大革命をどうやって生き延びたのだろう。
おそらく正式な音楽教育を受け、音楽家として食っていこうと考えていた人たちだろうけど、紅衛兵たちは、他人が自分より高度な教育を受けているだけで気にくわないという無知な若者が多かったから、西洋式の楽器を抱えているだけで生き辛かったはずだ。
(カッコつけて)ウイスキーの水割りなんぞ飲みながら、七転び八起きしたこの国の人々の運命について考えてしまう。

演奏のあい間にボーイがやってきて、相席でもよろしいですかと訊いてきた。
ええ、どうぞと答えると、わたしのまえに日本人らしき老紳士が座った。
わたしは最初、きちんとした服装のこの老人を見て、企業の重役さんでもあるかとか思い、ちょっと苦手なタイプだなと思った。
しかし話を始めるとすぐに馬脚があらわれた。
といってはひどい言い方になるけど、この老人はじつに人間的な話し方をする、親しみやすい人だったのだ。
わたしは本田技研を興した本田宗一郎という人を連想した。
あとで知ることになるけど、この人は「H」という、ゴルフ用具を製造する日本の一流企業の会長さんだったのだ。
仕事で上海にやってきて、部下を先に帰し、最後の一夜を気ままに楽しもうと和平飯店にやってきたのだという。
いや、会長室ってのは死ぬほど退屈でねなどと、えらぶったところのない愉快な言い方をする人だった。

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話をしているうちにわたしのどこが気にいったのか、会長さんは、これからおもしろいところへ案内しようといいだした。
いいんですかといいつつも、わたしもこの人が好きになっていたので、ついていくことにした。
急いで和平飯店の勘定をすませると、スコッチの水割り2杯とカクテルで、270元少々=日本円で3500円くらいだった。
最近の口コミ情報をながめると、上海が発展して観光客が押し寄せるようになり、このジャズバーも料金は値上げ、行列に並ばなければ入れなくなったようだ。
30年まえに行ったわたしは幸運だったのだ。

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2023年10月20日 (金)

言いません

昨夜のNHK国際報道を観たら、ものすごい数のデモ隊が映っていた。
これパレスチナと同じイスラム圏のイエメンの報道だから、多いのは当然としても、いまほかの国でもパレスチナを空爆するイスラエルへの抗議デモが拡大中だそうだ。
完全にウクライナとは立場が変わったな。
ウクライナでは世界中がロシアを非難し、反対意見には耳も貸さなかったのに、今度は世界中がイスラエル(とそれを支援する米国)を非難だ。
いえ、わたしはべつに嬉しがってませんよ。
それよりアメリカが困ればNHKがずっこけるというやつで、国内向けニュースではパレスチナの扱いがめっきり減ったよ(今朝7時のニュースではたったの4分間)。

バイデンさんのまえにブリンケンさんがイスラエルを訪問して、ネタニヤフ首相と会談してたけど、7時間も話し合って、終わったあとはブリンケンさんは目がくぼんで憔悴感がありあり。
ブリが、ガザ爆撃や侵攻をやめないとアメリカまで批判されるといえば、ネタは、なにもしなければオレっちの政治生命も終わりだって、おたがい引くに引けないガチンコ勝負だったんだろうねえ。
それに比べれば北朝鮮を訪問したラブロフさんは、正恩クンと会談が1時間で終わりだって。
1時間じゃお茶飲んで時候の挨拶をして、通訳が入って、そのくらいで、ムズカシイ話ができるわけもないし、ロシアは孤立してないということを証明すればいいだけなんだもんね。

今朝の速報では、バイデンさんが苦しそうな顔をして、議会にイスラエル支援のための緊急要請だって。
米国にだって、アメリカはウクライナのATMじゃないって文句をいう議員もいるくらいだから、いくらなんでもバイデンさんのもくろみ通りにはいくまい。
プーチンと習近平さんは左うちわで、一帯一路フォーラムを継続中・・・・なんてことはいいませんよ。
そんなことをいったら、いまだにウクライナが正しいと、盲目的、あるいはカルト宗教的に信じている人たちに失礼だもんね。

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中国の旅/待ち合わせ

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虎丘の塔を見たあと、もう時間が3時近かったので、仲間と待ち合わせた「寒山寺」へ向かうことにした。
リキシャの運転手は近道をすることにしたらしい。
寒山寺までの道すがら、わたしたちの車は全体がゴミ捨場みたいなおそるべき町を通った。
蘇州の美しさは尋常の神経では理解しがたいものかもしれないけど、このあたりの不潔さだけは、わたしでさえどうにかならないものかと思ってしまった。
民間企業に清掃を委託し、郊外に焼却場をつくればいい。
社会主義の国だからその気と金さえあれば、住民の反対運動など起こりようがない。
私営企業を認可するなら、見てくれのよい企業をたくさん認可するより、清掃会社をひとつ認めるほうがよっぽどマシではないか。
こんなふうに実行力はないくせに、他人の欠点を見つけると、よけいなお節介を焼きたがるのがわたしの欠点なんだけどね。

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寒山寺には3時半ごろ着いたけど、仲間たちはまだやってきていなかった。
わたしは寒山寺を見学したことがあるので、ここには入ってみる気もおきなかった。
門前に堀があり、橋を渡った正面にレストランがあって、そこなら食事をしながら寒山寺の門に出入りする人々を見張ることができる。
時間つぶしと見張りと昼食をかねて、リキシャの運転手とこの店でメシを食うことにした。
このレストランは古い中国式飯店で、2年まえにはじめて見たとき、魯迅の小説に出てくる孔乙己(こういっき)が千鳥足で出てくるんじゃないかと思ったくらい、運河べりのたたずまいがなんとも絵になるところである。
わたしはこの店に入ってみたくてたまらなかったのだ。

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橋をわたってレストランに入ってみると、店内はやはりあまりきれいな店ではなかった。
わたしたちは奥の部屋の窓ぎわに通された。
ビール2本とでっかい魚2匹ほか2品くらいを決め、レストランの亭主にいくらかと訊くと100元だという。
前夜のレストランの夕食が、ビールが1本、ライスとラーメンに料理が3品で43元だから、それに比べるとやはり高いかなと思う。
高いといってもここは観光地だし、日本円で1300円くらいでは文句もいえない。
レストランの亭主は、ワタシは徳島県に知り合いがいるといって、日本人の名刺を出してきた。
日中友好協会のなんとかと書いてあったけど、そんなエライさんは知らないし、わたしの知り合いに徳島出身の者はいないから、あ、そうというしかなかった。

ここでもわたしのお節介が頭をもたげる。
寒山寺のまん前にあって、雰囲気がいい店なのだから、ちょっと改造して長所を伸ばせば、これはフランス料理のレストランとしても使えるのではないか。
わたしに資産も実行力も、そのことを説明する言語能力もないのが残念である。
この店はどうなったのだろうかと、ネットでいろいろ調べてみたけど、寒山寺の門をとらえた写真はたくさん見つかるのに、門のほうからこのレトロなレストランをとらえたものはひとつも見つからなかった。

店でリキシャの運転手といろいろ話(筆談)をした。
彼の名前は曹クンで、若く見えるけど42歳だといい、子供が2人いるそうで、わたしが独身だというと驚いていた。
彼はわたしにタバコを勧めてくれたけど丁寧にことわった。
わたしは高校生のころ試して、いちどで懲りたという人間だから、肺は生まれたときから清浄なままなのだ。

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なかなか仲間たちが見えないなと案じていたら、4時半ごろになってジーンズ姿のW嬢が門前をうろうろしているのが見えた。
飛びだしていって呼びかけると、なんのことはない、全員がしばらくまえから駐車場に停めたバンのなかで待っていたのだという。
バンで来るとは予想していなかったので、わたしはぜんぜん気がつかなかったのだ。
一行はAさん、Bさん、C、Dと、W嬢以外にY嬢というもうひとりの女性を含めた6人だった。
わたしはいったんレストランにもどり、適当なところで食事を切り上げ、曹クンにゆっくり食べてから帰りなさいといって、握手して彼と別れた。

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仲間たちは朝6時に上海を発ち(えらく早いけど、この時間しか列車の切符が手に入らなかったのだそうだ)、蘇州に到着すると、すぐバン・タクシーを借り切って、1日あちこちを見物してまわったのだそうである。
バン・タクシーの料金は360元だったといい、中国娘のW嬢がいるからそれほどふっかけられたわけではないだろうけど、駅で持ちかけられるままに話に乗ったというから、相手にとってはいい商売だったに違いない。
ついでに帰りの列車の切符まで買った(売りつけられた)という。
わたしは駅で長時間並んで切符を買うよりも、多少高くてもダフ屋から買ってしまったほうがいい場合もあるだろうと考え、後学のためにこのときの状況をよく聞いておいた。

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話をもちかけてきたのは私服を着た軍人で、軍人特権を利用したアルバイトだといったそうだ。
先軍主義の中国では、軍人は優先的に切符を買うことができる。
彼らはむろん中国人料金で買う。
それを外国人に倍の料金で売りつける。
外国人にとっては、正規に購入しても倍なのだから、この方法は並ばずにすむだけありがたい。
ただし軍人たちは軟座(1等車)券を買うことができないから、この方法では2等車切符しか買えないという。

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列車の時間まで2時間以上あったから、蘇州駅まえの運河べりにある「第一舫大酒店」というレストランでヒマをつぶすことにした。
この店は2階になっており、なかなかきれいな店で、若いウェイトレスがたくさんいた。
中国のレストランでコーヒーだけというわけにはいかないから、またわたしたちはビールを頼み、つまみ代わりの料理をとった。
ビールを呑みながら、仲間たちにこの日と前日の行動などを聞く。
前日はW嬢の案内で、上海市内の見学をしたというんだけど、外灘や豫園、南浦大橋、楊浦大橋など、名所観光地ばかりをまわっていたようで、あまりおもしろそうでもなかった。
北京ダックを食べたとか、カラオケに行ったと聞いてもわたしはぜんぜん感心しない。

蘇州に来てからももっぱら有名な観光名所ばかりを見てまわっていたようで、北寺の塔に登ったなんていっていたから、路地だとか市場、お寺の裏側ばかりに鼻をつっこむ好奇心旺盛な仲間はひとりもいなかったようだ。
わたしは蘇州のあちこちで見かけたカラフルな下着について、Y嬢に訊いてみた。
ああいうものをあなたもはいているんですか。
彼女は笑って首をふった・・・・

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そのうち夕暮れがせまり、レストランのベランダから運河に映えるきれいな夕陽が見えた。
なかなかいい景色だけど、この景色がいつまで維持されるだろうかと、わたしはちょっぴり感傷的な気分にもなった。
最近の蘇州の街をネットで検索してみると、まるで全体がテーマパークである。
そりゃおもしろい体験をし、美味しいものを食べ、ブランド商品を買うのもいいけど、わたしに限れば、たとえば歴史の中をさまよったり、とっくに死んだ英雄たちと会話しながら旅をしたいと思うのだ。
しかし中国政府は白壁の汚れを洗浄してきれいな街に変え、蘇州を大観光都市として再生させた。
同時に何千年も積み重ねた歴史も洗浄されてしまったのだ。
余計なことをしやがってと思うのは、当時を知っているわたしだけかも知れないけど。

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20時すこしまえの列車で上海へ向かう。
指定席には違いないけど、これは硬座(2等車)で、値段はたったの6元(70円あまり)だ。
でも軟座より庶民的な客ばかりなので、これはこれでおもしろかった。
わたしがひとりで、仲間たちと通路をはさんだ反対側の席に座っていると、そこへ女性ばかりのグループがどやどやと乗り込んできた
そのうちの母娘らしい2人連れがわたしのとなりに座った。
母親はおばあさんだが、娘は30代くらいのきれいな女性である。
わたしは席を交代して、母娘が並んで座れるようにとりはからい、まもなく彼女たちの写真を撮るほど親しい関係になってしまった。
女性たちの中には「サラダ記念日」の歌人、俵万智に似た娘もいた。

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わたしの座った車両は最後尾の車両だった。
列車の後部がどうなっているかと興味があったので、途中でちょっとのぞきにいってみた。
列車の後部は連結部分が開けっぴろげになっていて、デッキから後方の闇の中に飛び去っていくレールが見える。
メガネをかけた老車掌がいて、わたしが写真を撮るのをほほえみをうかべてながめていた。
写真を撮らせてもらうと、彼はあとでわざわざ客室のわたしに挨拶をしにきた。
これが旅の醍醐味というもんだろうねえ。
大勢でかたまって歩いているだけでは、なかなかこういうチャンスはないと思う。

上海の手前で、線路ぞいのまっ暗な街道に、ドライブインのような食堂を何軒か見た。
あたりに民家の少ない場所で、わびしいネオンのともった店のたたずまいを見ると、わたしはいつも「郵便配達は二度ベルを鳴らす」という映画を思い出してしまう。
どうしてなのかわからないけど、わたしはこの小説を読んだことはないのである。

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ということで、わたしの蘇州めぐりは終わりだけど、わたしの旅はいつもだいたいこんな調子だ。
ひたすら歩き続けるだけ、名所旧跡なんかほとんど出てこないし、いまの時代に役にたつ情報があるわけでもないから、おもしろくないと思った人は、この先を読んでもしようがないヨ。
わたしはこれから西安や敦煌や、はるかな新疆ウイグル自治区を目指すことになるけど、先はまだまだ長いので、この紀行記が終点に到達するまで生きていられるかどうかわからない。
それでもわたしは命のあるかぎり、この旅の思い出を綴っていこうと思う。
あまり輝いたことのないわたしの人生が、いちばん輝いていたころを回顧するのは、死にかけたじいさんにとってトッテモ楽しいことであるし、できることならこの文章が、台湾有事だなどと一方的な見方しかしない昨今の風潮を撃破して、もっと広い視野でものを考える一助になってほしいのである。

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2023年10月19日 (木)

ビオラとパンジー

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昨日は昼間花壇にビオラを植えた。
ビオラというのはパンジーを小さくしたような花で、去年もためしに植えてみたら、手入れも肥やしもやらないのに、だらだらするずると4月まで咲いていた。
わたしみたいにずぼらな人間にはうれしい花であるし、なにより値段が安い。
ひと鉢が100円もしないので、うれしがって10鉢も買ってきてしまった。
さらに今日また追加で10鉢買おうと出かけてみたら、昨日入荷した分はすべて売り切れになっていた。
仕方がないからすこし高いパンジーを4つばかり買ってきて、それらをすべてを花壇に植え替えたのである。

タダで花壇を管理しようとさもしい考えのわたしは、今日は近所でオシロイバナの黒い実も集めてきた。
大切に育てようというわけではなく、この実を50個ぐらい花壇にバラまいて、そのうちの3つか4つでも育てばいいという天然自然主義。
考えてみると自然界でほとんとの植物はそうやって命をつないできたのだ。
ほんの少数の種を蒔き、生えてきた苗を後生大事に育てるなんてのは、わたしの性に合わないのである。

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昨日のNHK

NHKのニュースを観ていると、素朴な疑問を感じることがある。
ウクライナ戦争が始まってからは、よくモスクワ支局長の権平さんという人が出てくるんだけど、彼はいったいどこから報告しているのかってこと。
昨日はプーチンにくっついて北京から報告ということだったけど、彼がいうことはいつでもロシアをけなすことばかりだ。
これが外交官ならとっくにペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)ということで追放されているだろう。

権平さんの映像をよく観ると、本人と背景のあいだに違和感があるから、たとえば後ろにクレムリンが映っていても合成なんだろうと思う。
ロシアをけなすために、うっかりポロリと本音が出ると困るから、発言は日本のNHKと綿密に打ち合わせているはずだ。
すると電話代がバカにならない。
キエフならまだしも、まさか東京のNHKのスタジオから放送しているわけじゃないよね。

NHKにとってはウクライナより難しいのがパレスチナ問題だ。
日本でも判官びいきでパレスチナに同情的な人が多いから、日本の公共放送といえども簡単に米国に追従して、露骨なハマス批判はできない。
わたしにとってはウクライナより安心して見ていられる状況だね。
SNSにはもっともらしい顔をして、いろいろいう人がいるけど、ハマスを単純なテロ組織だとか、ギャングだという気にはなれんよ。
彼らの多くが、もとはイスラエルの空爆で家や家族を失った一般市民なのだ。
そうでなければ圧倒的な軍事力をほこるイスラエルを相手に、どうして差し違えてでも抵抗しようと思うのか。

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キンモクセイ

今夜も往復4キロの散歩に行ってきた。
毎日夜の10時半ごろ出発して、杖をつきつつよたよたと歩いて、帰宅するのは0時をまわっている。
いつも同じ時間に出かけるものだから、月の満ち欠けや木星の動きもよくわかる。
弥生や縄文のころはいまよりもっと星はきれいに見えただろうから、夜空を見上げていた大昔の人は、月や星の動きが規則性を持っていることにすぐ気がついたに違いない。
最初は神秘的ということで、宗教の迷信に活用されることが多かったとしても、中には科学的に、合理的に考える人もいただろう。
そうした人々の中からコペルニクスやガリレオが出てくるわけだ。

彼らに及びようもないけど、今夜のわたしは月がないことに気がついた。
何日かまえには美しい満月に感動した夜もあったのに、今夜の月は地球の反対側にあって、朝になるころ上がってくるのだろう。
そんな散歩道でキンモクセイの香りがした。
はてねとまわりを見まわしたけど、近くにキンモクセイの木はない。
ようやく川の向こう、都立高校の生垣がキンモクセイの並木になっているのに気がついた。
香りが川をまたいで漂ってきていたわけだ。
そこで一句。
  金木犀 匂う 月なき散歩道

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2023年10月18日 (水)

今日の報道

今朝、テレビをつけたら、カナダ軍機と中国軍機が異常接近というニュースが飛び込んできた。
あいかわらずケンカを売る報道は止まないな。
いちおう国際領域と断っていたけど、いま日本と揉めている尖閣諸島の近海らしいから、中国からも遠くはない。
そんなところを無関係なカナダの軍用機が飛べば、中国軍機が様子を見にくるのは当然じゃないか。
日本だって近海を韓国の軍艦がうろうろしているので、様子を見にいって、レーダー照射されたことがあるぞ。
それに比べればまったくなんの問題もない通常業務なのに、いちいち針小棒大に騒ぐから、わたしにケンカを売ってると思われるんだよ。

また今日も親切なNHK発のブログネタ。
浜の真砂は尽きるとも、げにNHK発のネタは尽きまじっていうか。

中国がアジア競技大会にシリアのアサド大統領を、下にも置かぬもてなしをしたというネット報道もあった。
アサド大統領といえば自国民を大量虐殺して、また(すぐに振りまわす)アメリカの制裁をくらっていることで有名だ。
ケシカランというのは、これも全部こちら側の主張で、あちら側から見れば、アメリカに支援された反政府ゲリラを抑え込んだ救国の英雄ということになる。
イラクのフセイン大統領を殺したら、かえって国内が混乱して、アメリカはあらためてフセインの有益さに気づいたってこともあったな。
馬鹿のひとつおぼえのように、独裁はいけないなどという人がいるけど、すぐに銃をぶっ放す国民をかかえた多民族国家には、独裁が必要な場合もあるんだよ。

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2023年10月17日 (火)

今日のNHK

今日から北京でプーチンも出席する中国の一帯一路政策フォーラムが開かれる。
NHK国際報道ではもうなりふりかまわずそれをけなしていた。
パキスタンやネパールなど、すでに政策に参加している国の国民のぼやき節をならべて、一帯一路はうまくいってないという。

中国は支援はするけど内政干渉はしないという立場だから、問題があるなら受益国の責任だし、この報道のすぐあとに、当のNHK自身が、これらの国はほかにも問題を抱えているからといっていた。
どうせ一帯一路をけなすのに都合のいい映像ばかり集めたんだろう。
支援してすぐに結果が出るものなら、日本がやってもアメリカがやっても苦労はしない。
G7からゆいいつ一帯一路に参加したイタリアも、抜けるといってまだ踏ん切りがつかないようだ。
それでも中国とインドのあいだにくさびを打ち込めるんじゃないかと、御用解説者に中国・インドの問題点ばかりを強調させるNHK。
そういえばIMFは西側先進国ばかり面倒をみているといった報道もあったな。

ラブロフさんが北朝鮮を訪問するそうである。
これもNHKは、北がロシアに軍事支援をするんじゃないかとあげつらう論調。
しかしいまだに北から軍事物資がロシアに送られたという確かな証拠はない(あるのはまた米国か英国がソースのプロパガンダ情報ばかりだ)。
だいたいベラルーシからでさえ、ちょくせつ支援を仰いでないロシアが、なんで北のようなレトロ兵器の支援を受けなくちゃいけないんだよ。
北のミサイルなんかもらっても使い道はないし、使えるのは鉄砲の弾ぐらいだろう。
でも鉄砲の弾だって銃を選ぶんだぞ。
朝鮮戦争のころの機関銃の弾が、最新のロシアの火器にいまでも使用可能なのか、そういうことをきちんと検証してるのか。

逆にロシアのミサイルや衛星技術を北に提供する?
そういう先端技術だって、今日提供すれば明日から使えるというものじゃないんだよ。
世界のどこよりも時代遅れの火器にしがみつき、ただただ核兵器でハッタリをかまそうという正恩クンにそんなものが使えんのか。
ちっとは考えてからいえ。
ああ、ネタの宝庫のNHKさま。

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おーい

おーい、スロバキアやポーランドの選挙はどうなったい。
SNSにもぜんぜん報道が入って来ないじゃないか。
NHKが報道したがらないってことは、またウクライナに都合のわるい結果だったって解釈してエエのか。

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2023年10月16日 (月)

中国の旅/虎丘

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見学を終えて盤門の城壁のわきの道を下りると、「蘇州南門総合市場」という食料品市場の一角に出た。
中国の市場はどこも似たようなものだけど、こういうところがわたしは大好きである。

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あいかわらず路傍に白菜が山積みされていたり、アヒル、ニワトリ、魚などが売られているのを眺めながら、ぶらぶらと市場のなかを歩いてみた。
山積みにされた野菜のなかには表面がしおれかけているものがあるし、イカやクラゲなどの海鮮物も日なたに並べられている。
冬だからまだいいけど、暑い夏だったら品物は24時間でイカれてしまうだろう。
中国の人たちが、どんなものでも必ず火を通して食べるのはこんなところにも理由があるにちがいない。

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市場の背後には瑞光寺の塔がそびえていた。
いったい蘇州にはいくつの塔があるだろうと考えてみた。
いちばん有名なのは「虎丘の塔」で、旧城内には、わたしが前日に見た「北寺の塔」もあり、行ってみなかったものの、双塔院というところにも塔があるらしい。
瑞光寺の塔も七重くらいあって、かなり高かったけど、もちろんわたしは無視。

市場を出て、地図をながめた。
ガイドブックによると、「広済橋」「新民橋」という二つの橋が、いかにも蘇州を象徴するような運河景色だという。
わたしはそこを見たかったけど、さすがにもう疲れていた。
通りかかったリキシャの運転手と交渉し、12時半から4時まで拘束していくらかと訊いてみた。
やっこさんは百元でいいという。
どうせふっかけた金額だろうが、日本円にすると1300円だから、これで夕方まで歩かずにすむなら安いものだ。

街中をゆるゆるとリキシャに乗っていくあいだ、信号で停車中に、となりのリキシャに乗っている美人にカメラをむけてみた。
彼女ははじめビックリ、あとでにっこりした。
市場も好きだけど、わたしは美人も好きなのだ。

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リキシャに乗っているとき、故事にちなむ「胥門」を見た。
この門はまえに書いた史記のなかの伍子胥(ごししょ)にちなむ門で、復讐の鬼と化した伍子胥が、自分の目をくりぬいてかけろといった門である。
街なかにアーチ型の城門が残っていたけど、いまでは交通のじゃまとみなされているようで、盤門ほどあたりの景色がよく保存されていない(ただし現在ではやはり貴重な観光資源ということで、だいぶ様変わりしているようだ)。
胥門の前の運河にかかる橋も、新しい橋なのでおもしろくなかった。

このあと、金を両替したいから華僑飯店まで行ってくれとリキシャの運転手に頼んでみた。
すると彼は、工商銀行まで行けば、個人の両替商から両替してもらえるという。
わたしが疑い深そうな顔をすると、リキシャの運転手は自分のリキシャのボディを指さした。
そこに番号を打った小さな金属板がとりつけてある。
リキシャの鑑札で、これをおぼえておけば問題があっても大丈夫だということらしい。
そこまでいわれりゃわたしも文句のつけようがないので、1万円で800元だぜと念を押して行ってもらうことにした。
あとでもっとふっかければよかったかなと思った。
工商銀行につくと、どこで連絡したのか、おもてに風体のよくない男が待っていて、わたしの金を無造作に両替してくれた。
なんだかギャングの取引のようだったけど、相場はわたしの言い値どおりの800元ぴったりで、リキシャの運転手に手数料まで渡していたから、公定の相場よりヤミ相場のほうがいいらしい。
ひょっとするとニセ札でもつかまされたかなと思ったけれど、その金はなにごともなしに全部使ってしまったから、真偽のほどはわからない。

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「広済橋」「新民橋」と見てまわる。
このふたつは名所でもなんでもないけど、ガイドブックによると、東洋のベニスといわれる蘇州らしい写真を撮るのに絶好の場所だそうである。
確かにその通りで、せまい運河の両側に、民家がごたごたと並んでいた。
よく写真で見る蘇州の運河風景はこのあたりで撮影されたものだろう。

あとは特に目的もない。
リキシャの運転手のいうままに、「留園」と「西園」を見物した。
べつに庭園なんか見たくないけど、ほかに行くあてがないのである。
「留園」ではリキシャを下りたとたんにレストランの親父が飛んできて、メシはどうだと誘われた。
いらないといってチケット売場にいくと、親父がくっついてきて、この人は外国人だと余計なことをいう。
黙っていればはした金の人民料金で入れたものを。
20分もかからずに見学を終えて、待機していたリキシャの運転手に「不好」という。

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つぎは「西園(西寺)」である。
ここではしらばっくれて人民料金で入ってしまった。
よけいなことを言わず、「一票」といって金を出せばいいのである。
西寺の黄色い土塀は寒山寺などと共通のものだけど、黄色になにか意味があるのだろうか。
門上に「蘇州仏教協会」という看板があった。
宗教を禁止しているはずの共産主義国でも、中国はおうようなものだ。
中庭には赤いローソクに火をともしている信心深い人たちがいて、若いきれいな娘さんもいた。

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この寺の本堂は、色が少々派手なのと、屋根のそりがいくらか大きいことなどを除けば、日本人にもまずまず受入れやすい形をしている。
正面から見ると、ひとまわり小さくした東大寺のようである。
門の両わきと本堂の中には、金メッキされた大きな仁王像があった。
この金ピカはいい趣味ではないけれど、日本の東大寺の大仏も、古くは金メッキされていたらしい。

見学を終えて門の外に出ると、そのあたりにごたごたしたミヤゲ物屋や雑貨店が並んでいて、観光客が群れていたから、わたしもそこに加わってみた。
たいしたものを売っているわけではないけれど、人間を見ているとおもしろい。
わたしはここでフィルムを1本購入した。
パッケージが中国文字で書かれたフジフィルムで、値段は20元(260円)だった。

リキシャの運転手が案内するのは観光名所ばかりである。
となればつぎはとうぜん「虎丘」ということになる。
虎丘にはピサの斜塔のように傾いた塔があり、これが蘇州観光のひとつのハイライトになっている。

虎丘に向かう途中に鉄道のガードがあって、わたしはそのあたりの景色に見覚えがあった。
第1回目の中国旅行のとき、休憩をとった大きなレストラン兼みやげ物屋が、このガードすぐわきにあったのだ。
時間があったにもかかわらず、猛暑のせいで店から一歩も出られず、ほぞを噛んだ場所である。
そのとき虎丘も見学したんだけど、べつにおもしろくもなんともなかった。
なにしろ猛烈な暑さだったので、閉口して、塔を中庭から遠望しただけで退散してしまったのである。

今回はすぐ近くから見物してみるかと、あまり気乗りしないまま、わたしは虎丘の門前でリキシャを下りた。
有名な観光名所らしく、門のまわりはミヤゲ物屋がいっぱいで、大勢の観光客がやってきていた。
虎丘の入場料は外国人8元である。
リキシャの運転手は、門の前で、ここで待っているからという。

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虎丘はまわりを堀でかこまれている寺なので、小さな橋を渡って境内に入った。
このあたりにカゴかきが待機していて、観光客に声をかけてくる。
ひとかつぎ20元だそうだ。
なるほど、虎丘はちょっとした山登りだったけど、しかしわたしはむろん歩くのである。
坂道を登っていくと、池のある広い庭に出る。
足もとは大きな岩盤で、岩場を平らに拓いたようだ。
ここでは傾いた塔を背景に写真を撮ろうという観光客が、よい場所を確保しようと順番を待っていた。
塔までは、ここからさらに石段を登らなければならない。

虎丘の塔は近くで見るとなかなか重厚なもので、細部の装飾まで、すべてレンガを積み上げた石の塔だった。
木造の塔しか見たことのない日本人には、壁の厚みがおそろしく重量感を感じさせる。
床は積年の人間の歩行により、踏み磨かれてくぼみが出来ていた。
登ってみたかったが、現在は塔の中へ立ち入るのは禁止だそうだ。

塔のまわりは、どうせ中へ入れないというので、大半の観光客は中庭から引き返してしまうらしく、比較的人影が少なかった。
塔のある庭はこの登山の最頂部になっているから、裏手にまわると蘇州の郊外が遠くのほうまで遠望できる。
わしは斜面の途中にあるベンチで休憩した。
あたりにウメの木があって、紅梅がまだつぼみだった。

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2023年10月15日 (日)

中国の旅/網師園と盤門

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南林飯店の防音設備は、上海の龍門賓館よりはるかによろしい。
14階まで車のホーンがうるさかった龍門賓館に比べると、蘇州ではわたしは朝の8時ごろまでゆっくり寝た。
目をさまして窓から眺めると、北寺の塔ははるかにかすんで見える。
せいぜい3キロぐらいのはずだけど、あらためて自分が歩いた距離の長さに感銘を受けた。

前夜買っておいた菓子パンを食っただけで、わたしは朝食をすませてしまった。
地図を見て、今日いちにちの計画を練る。
この日は午後4時に、あとから日帰りでやってくる仲間たちと、寒山寺の門前で落ち合うことになっていた。
さて、それまでどうやって時間をつぶすか。

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わたしは中国の寺や庭園にまったく興味がないんだけど、それらを無視して歩くだけでは、16時までとても間がもちそうにない。
前日に標識だけを見た「網師園」という庭園が近いので、とりあえずそれを見に行くことにした。
興味がないから目も通してなかったけど、ガイドブックによるとこれは南宋時代に建てられた名庭園だそうである。
南宋でも北宋でも庭園なんぞに興味はないし、ウィキペディアの解説は英語だから翻訳するのがメンドくさい。
興味のある人は、いるわけないからリンクも張らないでおく。
ただ、地図で見ると網師園の庭園内にまで運河が引き込まれていたので、ひょっとするといい写真スポットになっているかもしれない。

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南林飯店をあとにして、前日に歩いた道をふたたび歩いた。
民家の壁に描かれた網師園の標識はすぐなので、矢印にしたがって、また白壁にかこまれた露地に入ってみる。
露地をぐるっとたどって、網師園の入口はすぐにわかった。
名庭園といっても入口はさえず、白壁の建物にがっちりした木戸があるだけである。
むかしの中国には強盗が多かったから、それの予防のために入口を狭くしてあるという。
入場料ははした金でも、この当時の中国では外国人は一律に中国人の倍と決められていたので、わたしは倍額をとられた。

内部については、わたしには偏見があるかもしれない。
中国の庭園の趣味の悪さについては、その理由が司馬遼太郎の「街道をゆく・江南の道」で触れられており、わたしはその部分を熟読していた。
ようするに低俗な成金趣味なのである。
偏見にとらわれてはイカンぞと気をつかいながら、ひまつぶしだと思って、我慢して見学して歩き、あまり観光客が興味をもちそうにない建物の裏側などを重点的にのぞいてみた。
園内の塀で仕切られた庭では、ずらりと鉢をならべて植木の栽培をやっており、そんな中で子供を遊ばせている親がいた。

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ぐるっまわって出口に近づくと、みやげ物をならべた1室を通らないわけにはいかないようになっている。
ここでは水墨画などを売っていた。
中国の絵にはいいものもあるんだけど、そんなものを飾れるような家にわたしは住んでいない。

観光地で売っている中国の絵は、どうも大量生産をしているようである。
絵は水彩が多く、近づいて子細に見るとたしかに肉筆なんだけど、複数の職人がいて、流れ作業で作品を完成させているようなのだ。
わたしがこんなことを思ったのは、肉筆であるにもかかわらず、印刷でもしたようにまったく同じような構図・色彩の絵を見たからである。
ひとつふたつならまだしも、そんな絵がどのみやげ物屋にもある。
おそらく基本になる絵を描く親方がいて、その下に木を描く者、水を描く者、建物の屋根だけを描く者というふうに、特定の部分を担当する職人がいるのではないか。
水彩のぼかしの部分にまで担当がいるとなると、こりゃたいした専門技術だ。
こういう絵に資産的価値があるかどうかは疑問だけど、制作方法を知らなければ、わたしでも欲しくなってしまう絵が多いことも事実である。
わたしの家にスペースに余裕のある壁があり、なおかつその絵が3千円ぐらいで買えるものなら、わたしはきっと2、3枚まるめて持って帰ったにちがいない。

こんなふうに自然な気持ちで相対して魅惑を感じる絵が、芸術ではないといいきれるだろうか。
絵画に対する評価はむずかしい。
ダ・ヴィンチやゴヤ、レンブラントだって、弟子たちを使う共同制作だったはず。

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網師園を見物したあとは「盤門」という蘇州城の古い城門を見に行くことにした。
ここは司馬遼太郎の「街道をゆく」に記述があって、蘇州で古い城壁が残っているゆいいつの場所らしかった。
むろんあちこちで、蘇州名物の運河の写真を撮るつもりである。

網師園を見学したあと、どこかでお金(日本円)を両替しようと思い立った。
前日、Bさんに交換してもらった人民元(800元)は、半分以上をホテル代として支払ったから、もう300元くらいしか残ってない。
たまたま通りがかりに大きな銀行があった。
銀行名を見てもどういう種類の銀行なのかわからないけど、入ってすぐにカウンターがあり、その内側に行員が並んでいるのは日本のふつうの銀行と変わらない。
両替できるかどうか、試しに聞いてやれとばかり飛びこんでみた。
事情を説明すると、銀行員たちは困惑したようすで、なかには顔を見合わせてニヤニヤする女性の行員もいた。
わたしとちょくせつ向かい合った行員は、ダメなんですよと申しわけなさそうにいう。
ふたつの銀行で断られてしまったから、一般の市中銀行では外国紙幣の両替をしていないらしかった。

ふたたび南林飯店のまえまでもどり、門前にたむろしているリキシャの運転手たちに、おい、南門まで行かないかと声をかけてみた。
駅から南林飯店まで50元くらいだと聞いていたから、地図上で目測をし、南門は10元くらいと見当をつけた。
博打をやっていたひとりがそれでOKだという。
がさつだが、なんだかわたしに親近感をもっているような態度である。

メインストリートである人民路を走って、「人民橋」という大きな橋のたもとでリキシャを下りた。
ここにはバスの発着駅があり、客待ちをするタクシーやリキシャがたむろしていて、かなりにぎやかである。
運転手は帰りも乗るのかと聞いてきたけど、わたしはあとは歩くといって彼を帰した。

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人民橋のある場所に、かっては蘇州城の城門のひとつである南門があったはずである。
しかし人民橋は新しい大きな橋で、どこにも城門の痕跡はなかった。
わたしは運河のへりに立ってあたりをながめた。
このあたりで運河はかなり幅が広く、運貨船が何隻も行き来している。
地図をみると、ここから歩いていける距離に「盤門三景」という観光名所があるはずである。
わたしは橋の上に立って、運河の上流下流をながめてみた。
運河の水は流れているはずだけど、はっきりわかるほどの流れではないし、注意しなかったからじっさいにはどっちが上流なのかわからない。
すると1キロほど先に大きな眼鏡橋がかかっているのが見えた。
それが盤門三景らしい。
歩いて歩けない距離ではないので、そこまでのんびり歩くことにした。

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小さな橋をいくつか渡ると、やがて右手の支流にも小さな橋がかかっているのが見えた。
これは人民橋の上から見た大きな眼鏡橋ではない。
若い奥さんが洗濯をしている民家の庭のような露地をたどって、その橋のそばまで行ってみたら、橋は通行止めになっていた。
渡ることはできるけど、渡った先の露地が抜けられないので、実質的に通行止めである。
この橋は全体がアーチ型をしていて、雑草だらけだったものの、いかにも古色蒼然とした橋なので、おそらく蘇州城と歴史を共有しているのではないか。
橋の上で写真を撮り、引き返そうとすると、そのへんで近所の子供たちが遊んでいるが目についた。
おい、写真を撮るぞというと、子供たちはみんな尻込みをした。
洗濯をしていた奥さんが声をかけてくれて、ようやくわたしは彼らの写真を撮ることができた。
写真を撮られることをイヤがる子供はめずらしい。

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さらに歩くと、ようやく人民橋から彼方に見た大きな眼鏡橋にたどりついた。
橋のたもとにみやげ物屋が並んでいた。
この橋は蘇州城の盤門にかかる橋で、古い石橋でありながら、今もその下を船が行き来し、立派に活用されている。
渡ってみておもしろいと思ったのは、橋の上に石段とともに、自転車のタイヤを転がすのに都合のよい平滑な部分があることだった。
この橋ができたころ自転車はなかったはずだから、馬車のためのものだったのだろうか。

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橋を渡ると「盤門」だ。
橋の上から盤門を見ると、3階建てのビルぐらいありそうな、黒い城壁がそびえているのが見える。
かっての蘇州城の城門城壁で、完全な姿で残っているのはここだけらしく、それだけに有名な観光名所になっているようで、あたりにはみやげ物屋が多かった。
わたしはアーチ型をした城門のトンネルをくぐって、盤門の上にあがることにした。
トンネルの途中にある二重の壁に囲まれた空間は、敵を導き入れて壊滅させるためのものだという。
盤門の歴史とそのあたりの光景については、司馬遼太郎の「街道をゆく」に詳しいから、読んでみたい人は図書館に行けばよい。
この本が置いてない図書館はまずないはず。

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わたしは公園になっている盤門の上でしばらく休息をした。
ここからは二重になった運河や、近くの民家の屋根などを見下ろすことができる。
眼下に見えるセンベイを重ねたような民家の屋根が、粗末であってもなかなか美的でわたしの琴線を刺激した。
民家に通じる小さな橋があり、わたしがそこによい被写体があらわれるのを待っていると、土手のふちをネコがのそのそと歩いているのが見えた。
城門の上には楼閣があり、そこがみやげ物屋になっていて、若い女性が2人で手持ちぶさたそうに店番をしていた。
もう彼女たちもいいおばさんになっただろうし、盤門のあたりもいまではずいぶん変わっただろう。

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2023年10月14日 (土)

中国の旅/南林飯店

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めざす「南林飯店」に着いたのは14時半ごろだった。
守衛のいる門があり、中庭に木立の繁る大きなホテルだけど、かって知ったる宿なのでずんずん歩いてフロントへ行く。
部屋の予約は拍子抜けするほど簡単だった。
「日本語わかりますか」と訊くと、フロント係が「ワカリマセン」と答える。
英語で、ワタシハ部屋ガ欲シイというと、小さな用紙に必要事項を記入しただけ(パスポートは必要)で、すぐ部屋のキーをくれた。
このころはまだ中国人は国内旅行をするほど豊でなかったので、わたしはこのあとも中国をあちこち旅をして、飛び込みで泊まれなかったことはいちどもない。

あとは勝手に部屋へ行くだけである。
1泊料金は418元、日本円で5,500円くらいだから、ホテルの規模からすればかなり安い。
部屋は608号室で、設備は上海の龍門賓館と似たようなものだったけど、こちらのほうが全体に古く、それだけに落ちつきがある。
木造家具はみがきぬかれたニスでてらてらと光っていた。

百元札の両替をしてもらい、フロントわきの喫茶店で缶ビールを飲んで渇きをいやしたあと、ぶらぶらと市内散策に出た。
南林飯店の門前にはリキシャ(自転車にリヤカーをつけたような乗りもの)がたむろしていて、運転手たちがいつも路上で博打をしている。
わたしの顔をみると、おっ、お出かけですかい、どうですリキシャはと、なんだかえらく気安い口ぶりである。
わたしはいらんという。

以前に泊まったときは、宿へ着いたのが暗くなってからだったので、あたりの様子を把握しにくかったけど、今回のわたしは、地図を参考にホテル前の通りを東へ向かって歩いてみた。
そちらに「篈門」という古い蘇州城の城門があるはずである。

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歩いていると、途中の民家の壁に「網師園」という文字と矢印が書いてあった。
網師園がなんなのか知らなかったけど、そこから民家のあいだに細い露地が続いていたから、おもしろそうというので入ってみた。
露地の両側は年代がしみこんだような白壁である。
地面には石畳がしきつめられており、露地は細い回廊のようである。
旧正月中なので、「天地人万物皆春・福禄寿三星竝茂」などと、日本人にもわかるおめでたい文字を書いた赤い紙を、入口の扉に貼った家もあった。
途中の民家のまえに2人の老婆が座りこんでいた。
その頭の上にはたくさんの魚の切り身がヒモにつるされている。
この切り身を干してある光景はあちこちで見たけど、冬のあいだの保存食だろうか。
まさか春節(旧正月)のおまじないではないだろう。

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網師園を無視してさらにぶらぶら歩いていくと、わたしを日本人とみたリキシャの運転手が、つぎつぎに乗らないかと声をかけてくる。
わたしは歩かなければ街の様子はわからないと考える旅人だから、それらをかたっぱしから無視した。
しかしひとりのリキシャ運転手は特にしつこかった。
10元、10元といいながら、彼はわたしにどこまでもつきまとってきた。
顔を見ると、朴訥な顔をした若者で、あまりタチの悪そうな運転手にも見えなかったから、とうとうわたしも根負けして彼のリキシャに乗ることにした・・・・リキシャなら、歩くのと感覚的にそう違うわけではないと勝手な理屈をつけて。

リキシャに乗って街を見物するのは愉快な体験である。
乗りごこちはごっついけど、明治時代に日本へ訪れた博物学者のモース博士が、人力車の便利さ快適さに感心したように、街をじっくり見物しようと思ったら、タクシーよりよっぽどマシだ。
人間を牛馬のように使役するには疑問もあるけれど、貧しい国にあっては、わたしが乗ることによって彼の生計を助けているのだという弁解も成り立つ。

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リキシャはじつに頑丈単純にできている。
むかし豆腐屋が荷物を売り歩いていた自転車のようで、華奢な部分はこれっぽちもなく、複雑な仕掛けはなにもついていない。
運転手が時々またのあいだに手をのばすのは、これはギヤをチェンジしているのではなく、ブレーキを引いているらしかった。
ただし道路はかなり混雑しているから、交通事故にでもあったらコトである。
こんな家内工業みたいな乗り物に、保障なんてあるわけがないだろうから、運転手は片手を上げただけで大胆に方向転換をするのを見て、こちらはひやっとする。

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まもなく広い運河の橋に出た。
河面に船が行き来し、両岸にはびっしりと民家がならんでいる。
蘇州の民家と運河の美しさについては、ふつうの感覚ではむしろ汚いと考える人のほうが多いだろうけど、わたしにはその汚れぶりも、なんともいえない素晴らしいものに写る。
この運河の橋が篈門だったのだけど、すでに城門の痕跡はほとんど残っていなかった。
わたしはこのあたりがかっての城門だとは思わず、運転手にさらに前進を促した。

前進すると幅の広い道路につきあたり、これを右折するとすぐにまた大きな橋があった。
橋の上から左前方に大きな川と、広々とした農地が見える。
農地こそわたしが見たかったもののひとつである。
たいした距離ではなかったから、わたしは運転手にそこまで行ってくれと頼んだ。
橋は全体がゆるやかに弧をえがいたアーチ橋なので、上りが辛いだろうと、わたしはここでリキシャを飛びおりた。

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川の土手の上にはひょろりとした並木がならぶ道路があった。
川の支流には眼鏡橋がかかり、ヤナギが水面に影を落とし、アヒルが浮かんでいて、じつにのどかな風景だった。
まわりは冬野菜の畑だけど、木々の青ばむ5月ごろまた来たいなと思った。
土手を走ると川岸に船が何叟も係留されていて、船のなかで生活しているおばさんたちが洗濯などをしていた。
わたしがカメラを向けると彼女たちは悲鳴をあげたけど、顔は笑っていた。

土手の上の道路は舗装されていない。
こんな道でリキシャをひっぱる運転手も気のドクだし、わたしも薄着で出てきたので寒くなってしまった。
で、このへんでホテルへもどることにした。
そう告げると、運転手はわたしになにかいいたそうである。
ノートを渡すと、彼は“晩上要不小姐”、つまり女はいらないかと書いた。
試しにいくらと訊いてみると、1時間150元(2千円くらい)だという。
この値段をなにに比較したらいいだろう。
わたしがいらないと断ると、彼は100元でもいいと必死の様子である。
このころにはわたしは彼に親近感を感じていたから、ていねいに断った。

帰りは篈門のそばで、車をおろされてしまった。
運転手の言い分はよくわからなかったけど、この時間になると南林飯店の近くはリキシャ通行止めになるといっているようである。
べつに歩いてももうたいした距離ではなかったから、わたしは納得して車を下りた。
料金を最初の約束どおり30元払ったのはバカ正直すぎたかもしれない。

南林飯店のまえを素通りして、ワンブロックを一周してからホテルにもどった。
途中に洋風のパンを売っている店があったから、菓子パンを2個買ってみた。
「多少銭(いくら)」と訊くと、店のおばさんはわたしの顔を見て、ひと呼吸おいてから、目をくりくりっとさせて値段を言った。
ふっかけられたかなと思う。

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ホテルの部屋にもどり、服務員の若者に、駅から南林飯店までのタクシー料金を訊ねてみると、50元くらいをみておけばいいだろうという。
彼もまた日本語を学んでいるようで、他ニ用事ガアリマシタラ何ナリト仰セ下サイとていねいな口ぶりでいう。
ていねいな口ぶりに慣れていないわたしは、彼にチップを渡してしまった。
蘇州のメディア事情も知っておきたかったから、部屋でテレビのスイッチを入れてみた。
チャンネル数は4つで、ひとつはアニメを、もうひとつは洋楽、3番目は英会話(これが国営放送らしい)、4番目でもアニメをやっていた。
アニメは中国語に翻訳してあったものの、どうも日本の作品のようである。

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ひさしぶりに思い切り歩いたのでどっと疲れが出た。
わたしはベッドに横になってひと眠りしてしまい、目をさますともう21時半ごろになっていた。
フロントで訊くとホテル内のレストランは22時までだという。
夕食を食いそびれたわたしは、食堂を求めてまた蘇州の街へさまよい出た。

上海に比べると蘇州はやはり田舎らしく、ホテルのまわりももうほとんどの店が閉まっていた。
「神戸」という英国パブふうの高級そうな店が開いていたけど、わたしには似つかわしくない。
同じ通りの反対側にまだ灯のついた店があったので、ドアを開けて首をつっこみ、食事イイデスカと訊いてみると、いいという。

この店は地方の町の駅前にあるような、ごたごたした、あまり清潔とはいえない店だった。
テーブルが4つか5つで、すみにテレビが置いてあり、壁に大きな南の島の写真がかかげてある。
店内には7、8人の人がいて、子供も混じっていたから、客ばかりではなく、店を経営しているこの家の家族が自宅の食堂として使っているらしかった。
メニューをというと、女性がやってきた。つぎに男性がやってきた。
わたしの中国語が理解できないらしく、そのつぎには聡明そうな顔をした中学生くらいの女の子がやってきた。

椅子にすわるとわたしにも余裕がでて、まずビールを頼み、なにがなんだかわからないメニューの中から、“清蒸鯽魚”と“香茹菜心”というものを注文してみた。
RICEはないのかと訊いてみたが、こんな簡単な英語でも彼らには通じない。
メシだ、コメだと日本語で叫んでみたがやはり通じなかった。
あきらめて注文したものを待っていると、たまたま前のテーブルにすわった人が、肉と野菜の炒めもの、そしてご飯を食べているではないか。
これだこれだと米の飯を指すと、店の人は、ライスは“米飯=ミーファン”というのだと教えてくれた。
そこで米飯と、肉と野菜の炒めものを追加注文してしまった。

感心なことに、この店には紙袋に入ったワリバシがあった。
しかし茶碗はシュールリアリズムの絵のように超現実的にゆがんでおり、出てきたゴハンは粘り気のないポロポロの長粒米だった。
清蒸鯽魚は20魚センチほどの、フナを丸ごと蒸したものであり、香茹菜心はチンゲン菜とキノコを炒めたものである。
これに肉野菜の3品をならべてビールを飲みつつ、わたしはメニューに麺類がないのを不思議に思った。
ついに訊いてみた。
訊かなければよかった。
調理人はおおきくうなづき、奥からひとかたまりの麺を持ってきて、コレかという。
そうだというと、彼は大満悦でさっそくラーメン作りにとりかかった。
わたしはもうだいぶ腹がきつかったので、ただ訊いてみただけなのに。

ラーメンにはほとんど具が入っておらず、ピリリと辛かった。
腹いっぱいのわたしには半分も食べられなかったから、日本人はずいぶんもったいない食べ方をすると思われただろう。
わたしがいくらか引け目を感じながら、料金はと訊くと、43元だという。
支払いにもたもたしていたら40元にまけてくれた。

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店を出ると、スズカケのこずえに月がこうこうと輝いていた。
中国の人たちよ、バンザーイと叫びたい気持ちでわたしはホテルへ帰った。

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2023年10月13日 (金)

兵器の横流し

昨日のNHKにデマに気をつけろという報道があった。
飛び交う情報のなかには、撃墜されるヘリコプターがゲームの映像だったり、イスラエルかと思ったらエジプトの映像だったなんてものがあるらしい。
そんなデタラメな映像のなかに、西側が提供した兵器がウクライナで横流しされて、イスラエルで使われているというものがあった。
それはウソだ、横流ししているのはロシアのほうだとNHKはいうんだけど、兵器のラベルをみればアメリカ製であることは一目瞭然、西側がいつロシアに兵器の支援をしたことがあるのかね。
それは戦場でウクライナから奪ったものだと、苦しい説明をしていたけど、NHKはウクライナがどんな国なのか知らないのか。
アメリカやEUでさえウクライナが汚職大国であることを認めているのに。
今回のパレスチナ戦争ではわからないけど、ウクライナに支援した兵器が、そのうち市場に出てくるのは間違いないと思われる。

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英国の報道

NHKの国際報道に生成AIの活用をめぐってという話題があった。
画面に男性アナウンサーが出てきてペラペラしゃべるんだけど、これはじつはAIがすべて創造した映像なんだそうで、こんなものが実現したらわたしも失職じゃありませんかと、NHKのアナが心配していた。
酒井美帆ちゃんがダイジョウブよと慰める。

まあ、アナウンサーの代役は務まらないかもしれないけど、外務大臣の代わりなら務まるな。
岸田クンが女性重視だってことで起用したおばはん。
米国で演説している映像を観たら、わたしはこう思うという個人の感想まで原稿を読んでいた。
まるっきり外交なんかに興味のないそのへんのおばはんが、まちがって起用されちゃったようで、大丈夫なのか、こんな時期に日本の外交はと思う。
ラブロフさんやブリンケンさんに太刀打ちできるのか。
これで外務大臣が務まるなら、AIにも務まるよな。

ロシアでPTSD(心的外傷後ストレス障害)が蔓延しているという報道もあった。
あ、これ英国国防省の発表ね。
問題があって、西側の多くの報道といっしょで、ロシアをおとしめる報道はやけに詳しいくせに、ウクライナ側のPTSDや、死者数にはぜんぜん触れてないのだ。
だからわたしは何度でもいうんだけど、西側の情報ばかりをあてにするのは危険である。
英国のそれは特にあてにならないということは、英国発のデタラメが多いことであきらかじゃないか。
新疆ウイグル自治区でウイグル人が迫害されているというのも、たしか英国BBCが言い出したことだし、最近では中国の原潜事故も英国のデイリー・メールが発祥ネタだ。

わたしはそういう報道があるたびに、事実がどうか可能なかぎり調べてみることにしてるんだけど、ウイグル問題については、わたしのブログを参照のこと。

原潜事故についても調べてみたけど、デイリー・メール紙が独自に入手した英国の極秘情報だそうで、もうこのへんから確認のしようがない報道だ。
そういうときは視野をひろげて、全方位的に報道を検証してみればよい。
原潜の事故といったら国際的にも大きな問題になっていいはずなのに、ドイツやフランスが騒いでいるだろうか。
いや、独仏はヨーロッパの国だから関心がないのだというかも知れないけど、英国だってアジアの国じゃないぞ。
ほかにもとうぜん騒ぐはずのNHKは騒いでいるか。
ほかのまっとうなマスコミが報ぜず、主張しているのは右翼系サイトのみで、肝心なところは“◯とみられる”とか、“◯だという”と、憶測、推測の記事ばかり。
中国政府が沈黙を守ると、重大な事件だからしゃべれないんだろう、習近平さんがリンゴ園に寄ると、原潜事故から目をそらすつもりだろうと、勝手な解釈ばかりだ。

もういちどいうけど、西側、とくに英国の情報は、自然科学の番組以外はあてにならない。
文句のある人がいたらご一報を。

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2023年10月12日 (木)

中国の旅/蘇州着

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列車は12時30分、ということは中国時間の11時30分(以降の時刻はすべて中国時間)に定刻どおり上海駅を発車した。
座席ももちろん指定席で、あまり混んではいなかった。
わたしの向かいの座席に中国人らしき男性が座っていたけど、わたしとにらめっこをするのがイヤだったのか、そのうち荷物を置いたままどこかへ行ってしまった。
おかげでわたしは窓ぎわに頬杖をついたまま、じっくり外の景色を追うことができた。
2月であるにもかかわらず、この日の天気は春霞がたちそうな好天だった。

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窓の外の景色は2年まえに見たことのある景色である。
10分もすると上海市街をぬけて、列車は運河の多い田舎景色を走ることになり、わたしにとって郷愁をさそわれるような景色がつぎつぎと現れる。
上海近郊の畑はいまホウレンソウなどの冬野菜の最盛期だ。
線路ぎわにブタ小屋が並んでいて、暖房のためか、カマドから煙が立ちのぼっているのも見た。
野菜農家にしても養豚農家にしても、上海のような大消費地をひかえたこのあたりではいい収入になるにちがいなく、農家はコンクリートの2階建てで、屋根の両端に鴟尾をそなえたタイル張りのきれいな家もある。
そうした家がたくさんあるということは、このあたりでは万元戸と呼ばれる裕福な農家が多いのかもしれない。
先に豊かになれる者からなれという、鄧小平の改革解放政策はまずまず順調なようだ。

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上海~蘇州の中間地点で、わたしは進行方向右側に小さな山のある街を見た。
山と丘の中間ていどの起伏だけど、ほかになにもないまっ平らな平野のなかではちょっと目立つ存在で、駅名によるとこれは「昆山」という街らしい。
何本もの煙突が黒い煙をはいており、蘇州までのあいだで街と呼べる集落はここだけだった。

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12時20分、右手に「阳澄湖」という湖が見えた。
“阳”というのは中国語の簡体字で、太陽の“陽”だから、日本語表記では陽澄湖ということになる。
日の部分が月になると、これは“陰”という字になる。
簡体字でもそのまま表記できるのだから、現在のパソコンのグローバル化はありがたい。
このあたりで大きな湖というと、2年まえに船で遊覧した太湖が有名だけど、それは蘇州までの路線からは見えない。

たまに畑のあいだに花輪が放置されているのも見た。
これはそこに墓があって、まだ最近だれかが葬られたばかりらしかった。
日本と同じように畑のかたすみで、作物の肥やしになるように葬られた人々がいる。
この古い国で数千年間、畑を耕し続けてきた農民のものなら、作物の肥やしになるのはきっと本望だろうと思う。

そのうち検札がやってきた。
帰りに乗った硬座(2等)列車ではやってこなかったから、これは軟座(1等)だけの仕事らしい。
わたしの前のどこかへ行方不明の客は、テーブルの上に切符を放りっぱなしにしてあったけど、車掌は主のいない切符もきちんと検札した。
通路をはさんでとなりの席には2人の男性が座り、ひとりは熱心に書類を作成し、もうひとりは週刊文春を読んでいた。
これは日本人らしい。

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13時10分ごろ蘇州の駅に下りたった。
駅の売店で街の地図を買ったけれど、これはたったの1角(13円)だった。
ホテル代を参考にしてみても、上海から1時間半の距離にすぎないのに、蘇州のほうがなにかにつけて物価が安いようだ。

このあたりからわたしの周辺はやたらにぎやかになり、改札を出たとたんに、わたしは殺到するタクシーの客引きにとりかこまれてしまった。
日本語で「コンニチワ」と話しかけてくる相手もいるし、タクシーの運転席から声をかけてくる女性運転手もいた。
いらん、いらん、歩くからいいとわたしは彼らをけちらして駅前広場に出た。
じっさいわたしは蘇州で、以前泊まったことのある「南林飯店」まで徹底的に歩くつもりでいた。
歩かなければ街を実感としてとらえることはできないというのが、西行や芭蕉的な旅を愛するわたしの不動の信念だ。

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蘇州市街(旧市街)は駅の南側に長方形にひろがっていて、南林飯店は市中心部の少し南寄りにある。距離は駅からせいぜい3キロぐらいだろう。
わたしは念のため市内にあるはずの北寺の塔を目で探してみた。
この塔は高さが76メートルもあって、遠くからでもすぐ見つけることができるから、方向感覚を失ったときにいい目標になるし、地図と参照すれば、距離を見積もるのにもいい目安になる。
北寺の塔は駅からよく見えた。
歩いて歩けない距離ではないと思い、わたしは駅前をとりあえず左へ歩き出した。
蘇州駅のまん前に運河が流れているから、右か左へ迂回して、どこかで橋を渡らなければ市内へ入ることはできない。
蘇州は運河にかこまれた街で、地図をみると、この街をとりかこむ運河の形状がよくわかる。

左へ迂回すると大きな橋があった。
これを渡ると、蘇州市内を縦につらぬくメインストリートの人民路へ出る。
この大きな橋は、かっての蘇州城の平門にあたるんだけど、今は幅のひろい近代的な橋に架けかえられていた。

橋を渡るまえに、わたしは手前の公衆便所で小用をすませることにした。
公衆便所は有料で、入口に控えるおじいさんがわたしになにかいう。
大か小かと訊いたのかもしれないけど、手のひらにコインをのせて出すと、おじいさんが勝手に1角だけ取った。
小用を足しながらふりかえると、すぐ後ろに、高さ1メートルほどの壁にかこまれた大用の個室が見える。
扉はないし、高さが高さだから、中で用を足している人の頭がよく見えてしまう。
中国人は便所で個室を使うとき、扉があってもわざわざ開けっぱなしで用を足す人種だから驚くにあたらない。

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平門の橋の両端には唐獅子の石像が鎮座していた。
わたしはこの写真を撮った。
このあたりの運河はかなり幅ひろく、けっこう大きな運貨船も往来していた。
橋を渡れば、いよいよ蘇州の街、かっての蘇州城の域内である。

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橋をわたったところに商店がならんでいて、その中の1軒の海産物屋で、えらくはなやかな服装の女性が魚を売っていた。
「小姐」と呼びかけるとニッコリしたので、彼女も写真に撮った。
はなやかな女性が、バケツに入れた魚を売っているというアンバランスがおもしろい。
また路上で衣服を売っている露店もあちこちで見かけた。
並べてある品物の中には色とりどりの女性用パンティがある。
しかしいくら中国でも、今どきの若い娘がこんなブルマーみたいなものをはくかしらと思う。

北寺の塔のすぐわきを通ったけど、もともと中国のお寺に興味がないし、入場料をとる観光名所になっていたので、通りから写真を撮っただけで通過。
翌日、日帰りで蘇州にやってきた仲間たちは、この塔に登ったという。

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中国の人と話をしてみたいものだから、あちこちでわざと南林飯店までの道を尋ねた。
みな親切に教えてくれて、なかにはわざわざ待機所に招き入れて、紙に書いて説明してくれた守衛さんもいた。

人民路は途中で大々的な補修工事をやっていた。
日本ならこうした現場には、たいてい歩行者のための臨時の側道が用意されているのが普通だ。
工事現場のわきの細い通路へ入ってみると、それは50メートル先で通行止めになっていて、それより先はイヌやネコでも進めそうになかった。
わたしはこんちくしょうと毒づいて通路をもどった。

行程の半分あたりまでは、見るもの聞くもの、みんな珍しいものばかりだから、疲れもあまり気にならなかったものの、もう1時間以上休憩もとらずに歩き続けて、いいかげん疲れた。
山登りなら2時間でも3時間でも歩くけど、カメラ機材をかついで、街のなかの舗装道路というのはけっこうくたびれるものだ。
あとで地図を見ると、この日のわたしは、運河に囲まれた縦に長い蘇州市の、4分の3くらいを踏破してしまったことになる。

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ところでここでショッキングな話。
わたしが蘇州での宿になんで南林飯店を選んだかというと、2年まえの団体ツアーで泊まったことがあるからだ。
あのときは他のツアー客らと夜の街へ繰り出し、さんざん土産物店をひやかしたあと、小さなレストランに入ってザーサイを食べようとしたものの、その場のだれも“搾菜”という漢字が書けず、断念したという思い出がある。
なつかしいからついまた泊まってみようと思ったのだ。

しかしわたしは今回も、飛行機と宿がセットになったパックツアーで、上海の龍門賓館は6泊分をすでに払ってある。
にもかかわらず、この日の蘇州でまたべつのホテルに泊まることにしたのだから、無駄といえばこんなに無駄もない。
しかもわたしは個人参加(=ひとりで部屋を独占)ということにしてもらって、3万円以上余分に払っているのだ。
世間には円高の時期を見計らって海外旅行をするくらい、経済観念の発達した人がいるようだけど、そういう人から見たら狂気の沙汰だろう。
わたしは貧乏人のくせに、経費よりも、いかにして旅の目的を有意義なものにするかのほうに、つねに関心があるのである。

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2023年10月11日 (水)

ガスパイプ

NHKの国際報道を観ていたら、フィンランドとバルト3国のエストニアを結ぶガスパイプが人為的に破損させられたらしい。
これがあるとフィンランドはエネルギーをロシアに頼らずに済むので、それでは困るロシアの破壊工作ではないかという。
アホいってんじゃない。
そもそもロシアに頼りたくないなら、もうあんたのガスは要りませんといえばいいだけじゃんか。
いや、パイプがなくなると、イヤでも頼らざるを得なくなるということか。
でもノルドストリームの爆破以降、フィンランドはバルト海の警戒を厳重にしてるそうだし、いちばん先に疑われるに決まっているのに、プーチンがそんな姑息な方法を使うか。
おおかたパイプが古くなって破損したのを、ちょうどいいや、ロシアのせいにしてしまえというんだろう。

奇襲攻撃というのは最初の1回なら効果があるけど、2回、3回となると、相手に警戒されてあまり効果がなくなるものだ。
また米国か英国が、なんとしても人々の話題をウクライナにつなぎとめておきたいためにやった可能性もあるな。
修理すれば直せるていどの損傷だったらしいし、まさかまたあの国がという人々の盲点をつけば、同じ戦法でも成功する可能性は高いのだ。

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テロ?

世界はあちらを叩けばこちらからという、モグラ叩きの様相を呈してきた。
ウクライナのドンパチが終わってないのに、今度はイスラエルで炎が燃え上がる。

これをテロだというのは簡単だ。
しかし今回イスラエル国内に突入したハマスの戦闘員も、イスラエルはぜったいにテロリストと交渉しないから、最後には自分たちも殺される可能性が高いことを知っている。
それでも突入する彼らの怒りはなんなのか。
バイデンさんは一刀両断でテロだといってるけど、彼のいうことはいっさい信用しないことにしてんだよ、ワタシゃ。
さいわい日本はこれまで、(国民の総意としては)パレスチナに同情的だったから、日本政府(とNHK)は頭が痛いだろうねえ。
ザマミロ。

得をするのはロシアだから、ロシアが裏で糸を引いてるんだろうという意見もある。
バカいってんじゃない。
これほど大規模な攻撃はそうとうむかし、それこそウクライナ戦争よりもまえから準備しなけりゃできるもんじゃない。
ロシアと仲のいいイランが糸をという意見もあるけど、アメリカだってずっとイスラエルを支援してるんだから、他人のことはいえないじゃん。

イスラエルはこれまで、ひとりが殺されたら10人を殺すという、ナチスドイツがやったような倍返しの原則でテロを抑えてきた。
そんな力による原則では、パレスチナ人をいつまで抑えておけないことがハッキリしたわけだから、これまでの政策は見直して話し合いに応じるべきじゃないか。
しかし、話し合いで問題が解決するならとっくにやっとるわな。

一般市民を攻撃するのがケシカランという意見もある。
しかしテロリストと名指しされる彼らのなかには、両親を、妻を子供を、イスラエル軍に殺された者もいたはずで、あまり安易にそういうことをいうべきじゃないね。
わたしはポール・セローといっしょに(バーチャルで)地中海をめぐったとき、パレスチナ作家エミール・ハビビの小説を読んで、パレスチナ人の絶望・無力感についてもちっとは知った。
話し合いでまったく相手が応じないから、彼らは最悪の手段に訴えたのだ。

わたしはかってホロコーストに見舞われたイスラエルの立場も知っているから、彼らが過剰に反応する理由もわからんじゃないけど、力で相手を抑えつけるという手段がどこまで続けられるだろう。
ゆいいつ最大の支援国のアメリカが、いまボロボロ皮がはがれているときなので、イスラエルの未来はまったくわからない。
NHKのゲスト解説者にもわからないそうだ。
でもいいのだ。
昨夜も散歩に行ったけど、途中で頭がクラクラして引き返した。
解決策のない問題はみんなわたしが死んだあとにやってくる。

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2023年10月10日 (火)

中国の旅/包子

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上海に到着してすぐつぎの日は、ひとりで蘇州へ行く予定である。
出発まえに日本円を中国の元に替えておこうと、ホテルのフロントに行ってみたら、午後にならないとできませんという。
ふざけやがってと(腹の中で)思いつつ、ひとっ走り駅まで往復して時刻表を買ってくることにした。
手元にはまえの旅であまった兌換券がいくらか残っていたから、時刻表ぐらい買えるだろう。

ところで、ここまであまりわたしの撮った写真がないけど、まだフィルム・カメラの時代だから、やたらに撮りまくると帰国してから現像代がバカにならない。
そういうわけで蘇州に着くまではあまりフィルムを無駄にしないようにしているのである。

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駅まで徒歩で5分もかからない距離だから、ぶらぶら歩いていくことにした。
駅まえはあいかわらずの混雑だ。
まだ朝の7時ごろだったけど、もう食堂の包子(バオツ=小さい肉マン)は美味そうな湯気をあげているし、改札の出口近くでは、おばさんが縁台に雑誌や地図、時刻表などを並べていた。
わたしが兌換券を出して時刻表がほしいというと、おばさんは、兌換券はダメダメという。
じつは中国ではこの年から兌換券を廃止したのである。
わたしがこれしかないというと、まわりの人々が、いいじゃないか、売ってやれ売ってやれと声援してくれた。
カメラをかかえたわたしはいっぺんで日本人とわかるはずだから、中国の野次馬たちはまことに親切である。
とうとうおばさんも折れて、売ってくれた上海の地図と時刻表が、あわせて2元2角(この日のレートは1元が約12円だったから27円くらい)だった。

ホテルにもどって、フロントのわきにあるオープンしたばかりの喫茶店で、今日1日の計画を練ることにした。
コーヒーありますかと聞くと、まだちょっとぬるいけどという。
本当にぬるいコーヒーを飲みながら、わたしは時刻表をめくって蘇州行き列車を拾い出し、都合のいい時間を調べてみた。
蘇州まではせいぜい1時間半くらいのはずだけど、切符がスムースに買えるかどうかわからないから、充分に時間をみておかなければならない。
どうやら11時20分か12時42分、ダメなら13時50分あたりが使えそうだった。

列車のチケットは、龍門賓館の場合はホテルの中で買える。
1階のチケット売場へ行ってみたら、ふたつのカウンターに人が並んでいた。
わたしは行列に並ぶのが大きらいだけど、並ばなければいつになっても蘇州へ着きそうにないから、仕方なしに6、7人の後ろに並んでいると、まえのほうでバックパックを背負った女の子が「地球の歩き方」を読んでいるのが見えた。
日本人かいと声をかけて、話をしてみると、メガネをかけたやせっぽちの女の子で、上海には昨日着いたばかり、これからひとりで抗州へ行くという。
94年当時でもこんな勇気のある女の子がいたのである。

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べつにパスポートの提示もなしに、チケットはかんたんに買えた。
わたしがノートに〔蘇州・軟座・1人・NO.396 11:20〕と書いて見せると、係りの女性はチンテン(今日か)?と訊く。
うかつなわたしは、慎重に考えたにもかかわらず、やはり肝心なことをひとつ書き落としていたのだ。
今日のチケットということを確認すると、彼女はノートの列車ナンバーを 412に、時刻を 11:30分に訂正した。
なんじゃ、これは。
なんとか手に入れた切符は「上海鉄路局」発行の代用票というやつで、10×20センチの黄色いチケットに、1×3センチくらいの青い座席指定券がはりつけてあり、ほかに空調費という券もついてきた。
料金は25元4角である。
日本の金で300円くらいだけど、これには外国人料金と手数料が入っている。

今回の旅では朝食もつかないので、このあとホテル内のレストラでひとりで朝食をとった。
メニューを見るとろくなものがない。
わたしは少食なので、トーストとジュースだけあればけっこうなのにそれもない。
仕方なしにまずいハムエッグを食べ、今度は紅茶を注文した。
中国人はコーヒーを飲みなれてない。
外国からきた文化であるコーヒーは高価だけど、中国にむかしからある紅茶はえらく安いのである。

中国では、列車に乗ろうと思ったら、少なくとも1時間前には駅に行っていたほうがいいというので、わたしはほかの仲間と顔をあわせることもなく、腕時計を見て10時半にはホテルを出た。
ぶらぶらと駅へ向かうと、途中でグループのBさんとばったり出くわした。
駅のあたりを散歩してきたそうで、おもしろいところだねという。
どこへ行くんだと訊くから、これから11時半の列車で蘇州へというと、Bさんはまだ早いじゃないかという。
そういわれて気がついた。
日本と中国では1時間の時差があるので、まだ列車の発車まで2時間あったのだ。

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2人で興味本位に、駅まえの立ち食い食堂みたいなところで、包子を食べてみることにした。
肉包子がなく、アン包子しかなかった。
日本の肉饅頭よりひとまわり小さいくらいで、ひとつが5角(6円ぐらい)だった。
小食のわたしなら20円ぐらいで朝食は間に合ってしまいそう。

時間があることがわかったので、いったんホテルへもどって、ほかのメンバーのご機嫌をうかがってみた。
彼らはこの日はW嬢の案内で市内見物をする予定だけど、CとDは前夜に呑んだ酒が強すぎて2日酔いだそうだ。

わたしは蘇州へ出発する前に、Bさんから1万円分の人民元を分けてもらった。
彼らは前日に、それぞれが、1万円分の日本円をW嬢に両替してもらっているから、わたしに800元を寄こしてもべつに困るわけではないのである。
わたしのほうは不便な兌換券だけで蘇州へ行くのは、あまりうれしくない。

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その後、時間がきたのでひとりで駅にゆく。
プラットホームへ上がるための長いエスカレーターの前には大きな駅員ががんばっていて、わたしの切符をみるとまだ入れないという。
これならべつに1時間前に行く必要もないではないか。
わたしは発車10分前まで、上客(乗客のまちがいではない)専用の待合室でぼんやりしていた。
なにかアナウンスがあるかと思ったのけど、発車時刻がせまってもなにもない。
不安になって10分前にエスカレーターでプラットホームへ上がってみると、大きな駅員は切符をちらりと見るだけでなにも文句をいわなかった。
指定ホームは切符に記入されていて、わたしの列車は9番ホームである。

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上海は多くの列車の始発駅だから、列車はもうホームに入っていた。
車両番号も切符に記入されており、車両にはちゃんと番号がついているから、なにも難しいことはなかった。
汚い車両も連結されていたけど、わたしの乗る1号車はオレンジに塗られた2階建てのきれいな車両である。

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座席を確認してからふと見ると、となりのホームに停車中の列車は、わたしにとって夢とあこがれの、新疆ウイグル自治区行きシルクロード長征列車ではないか。
超長距離列車といってもグリーンに黄色いストライプの、ありふれた汚い列車である。
乗客たちは飲み食いしながら発車を待っていて、食事の残滓は平気で窓から捨てるから、線路の上はあいかわらずゴミだらけだった。
列車の服務員までが、車内のゴミを平気で線路に捨てていた。

ともかくも、わたしは想像していたよりはるかに容易に蘇州行きの列車に乗ることができた。
乗車時間は1時間だから、中国人たちのようにお茶を用意する必要もない。

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2023年10月 9日 (月)

パレスチナ

ウクライナのめぼしい報告が入ってこない代わりに、またパレスチナで騒動だ。
毎度のことなのでふつうなら驚かないんだけど、ウクライナから手を引きたい国にとっては、国民の目をそらすいい機会かも知れない。
みんながパレスチナのほうを向いてしまったらゼレンスキーさんはどうするだろう。

パレスチナの抵抗組織ハマスも、今回は周到に準備して、新しい戦術を考えたのかも。
イスラエルは捕虜を見殺しにする。
少数の捕虜なら殺されてもやむを得ない、たとえ国家の重要人物が捕虜になっても同じだと考えて、これまでまったくハマスに容赦しなかった。
妥協すればテロリストは増長するだけだというのが、イスラエルの一貫した信念である。
おそらく首相が捕虜になっても、イスラエルはどうぞ、おやんなさいというだろう。
ハマスもそれをよく心得ているから、今回は外国人も含めた100人もの捕虜をとって、イスラエルがいつもの容赦しない姿勢をとれば、ほかの国からも非難が殺到するような作戦をとったんじゃないかね。

この先はわからないけど、捕虜になった者が気の毒だ。
イスラエル人なら自国の政府の情け容赦のないことはよく知っているから、捕虜になった瞬間に死を覚悟するだろうし、わたしもイスラエルの姿勢をよく知っているから、もしも旅行でイスラエルに行って、たまたま捕虜になったら、さっさとあきらめて念仏をとなえるしかない。

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中国の旅/歓迎会

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今回は成田空港まで、メンバーのひとりがライトバンを持っていたのでそれを使うことにした。
同僚のAさん、Bさん、CとD(あとの2人に“さん”がつかないのは、年齢的にわたしのほうが年上だから)にわたしの5人が乗り込んで、飛行機の出発は17時25分の予定なのに、成田空港には14時ごろ到着してしまった。
メンバーの中に上海娘のW嬢に頼まれた家電製品をかついできた者がいた。
税金が心配で港内の税関で尋ねたところ、(少なくとも日本国側においては)なんの税金もかからなかった。
あとは出発まで空港内のレストランで最初の宴会である。
メンバーのなかのCは酒豪で、声が大きいので有名な男で、わっはっはと大騒ぎ。
わたし以外の全員が中国は初めてである。

今回は東方航空ではなくユナイテッド航空で、チケットを見たらわたしの席はまた喫煙席になっていた。
前回は文句をいったら窓ぎわの席に替えてもらえたから、また文句をいってみた。
係りの美人がガタガタとコンピューターを打って、即座に座席を変更してくれたけれど、おかげでわたしはほかの4人と離れて座ることになった。
Cがいないと静かでいいけど。

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乗客待合室で出発までしばらく待つ。
ここはガラス張りの円形フロアで、空港と飛行機をま近に見られるから、そういうものの好きな人は退屈しないところだ。
ユナイテッド航空の飛行機はシルバー・グレイの胴体に赤と黒の塗装で、軍用機みたいでなかなか魅力的である。
ところが同じ会社に(古い機種なのか)ホワイトの塗装もあって、こちらはあんまりカッコよくない。
上海行きはホワイトだった。

待合室でえらく待たされて、わたしたちが飛行機に乗り込んだときには時計は18時をまわっていた。
座席に行ってみたら窓ぎわではなかった。
しかし搭乗が締切られても、となりには誰も来なかったから、わたしはどうどうと3座席をひとりで占領した。
これならエコノミーでもなにも文句はないし、機内はがらがらだったから、わたしは離陸後に勝手に窓ぎわに移動してしまった。

ユナイテッドの客室乗務員はおばさんばかりで、あまり美人がいないという印象。
帰国してから読んだ週刊朝日に、アメリカにおけるユナイト航空のおおらかな仕事ぶりが書かれていた。
ある日のユナイト便で、パイロットが来ません、心配していますという機内放送があり、代役のパイロットが馴れていないので目的地の手前の空港に着陸しますという追加放送があったという。
ユナイトのおおらかさについては、わたしにも経験がある。
その後のべつの海外旅行で、わたしは買ったおぼえがないのにビジネス席に座らせられた。
気の弱いわたしがいいんですかと訊くと、女性の客室乗務員から、いいんですよ、得しましたねとウインクされたことがある。
米国の航空会社の競争は苛烈で、空席があって客がいるなら、なんでもいいから載せちまえって精神らしかった。

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ユナイトというと、9.11同時多発テロでハイジャックされ、それが映画にまでなって有名になった。
おかげで客が激減し、企業としてのユナイトには倒産、再建という波乱の社史があり、そのためかどうか、YouTubeに冗談みたいな機内ビデオが上がっている。
この画像をクリックするとそのビデオが観られます。

18時40分になってようやく飛行機は動き出した。
空港の無数にきらめく光のなかを、4機のジャンボが隊列を組んで、しずしずと滑走路へ進行を開始する。
おごそかで、敬虔な光景である。
わたしの過去2回の中国旅行は、いずれも往復とも昼間の飛行だったから、今回はべつの景色が見えるかと期待した。
しかし窓から外をながめても、位置がわるいのか、雲の上の飛行にもかかわらず月は見えなかった。

飛行時間は3時間足らずでも、いちおう機内食が出るから、わたしは成田空港で、立ち食いソバでも食っていこうという仲間を制止した。
ユナイトの機内食メニューには、英語、日本語、中国語が併記されていて、この日の献立は、ビーフ串焼きか広東風チキン、それに野菜サラダとデザート、飲物など。
わたしはビーフ(中国語で“牛柳串”)にした。
おばさんの客室乗務員が、ドリンクはワインかビヤーかと訊く。
この程度の英語はわたしにもわかるからワインを頼んだ。
ところがそのあとに彼女はまだなにかペラペラいう。
首をかしげていると、いらついた彼女はキッチンからボトルの現物を持ってきた。
ワインは赤にするか、白にするかということだった。

くだらない話題で申し訳ないけど、20時50分に海上に船舶の光を認め、21時05分にはべつの航空機とすれちがったのを見た。
上海に近づくとまた雲が多くなり、なにも見えなくなってしまったものの、まもなく雲の下に出て、ようやく上海の暗い夜景が目にとびこんできた。
東京にくらべると街の灯りははるかに少ないけど、わたしにとってはなにかこころやすらぐ暗さである。
翼を大きくゆすり、わたしたちの飛行機が上海の虹橋空港に着地したのは21時41分だった。

空港にはW嬢とその知人たちが、花束を手にして迎えにきていた。
わたしたちは彼女に頼まれた電気製品をかついでいたので、空港の荷物検査でちょっと手間どった。
手荷物を審査する女性係員は、愛想はわるくなかったけど、「電子鍋」が理解できないらしい。
ダンボール箱にはちゃんと品物の絵が描いてあるし、“鍋”という字は中国にだってあるはずなのに、わたしたちはバーベキューだの、スキヤキだのと言葉を尽くして説明をしなければならなかった。

ツアー・ガイドのバンでこの旅の宿である「龍門賓館」まで送られる。
今回のツアーの参加者はわたしたちのグループだけだったので、W嬢はわたしたちの車に便乗した。
空港を出てからしばらくは、郊外らしい空間の多い風景の中を走る。
バンは信号停止がちょっと長いと、すぐエンジンを切ってしまう。
燃料節約のつもりかも知れないけど、いちいちエンジンを再始動するのでは、かえって燃料を食いそうな気がするんだけど。

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「龍門賓館 (LONGMEN HOTEL)」は上海駅のすぐとなりにあって、駅まで歩いてそれこそ2、3分だから、列車に乗るのにこれほど便利なホテルはない。
外国人相手のホテルで、建物もまだ新しく、フロントも清潔で、駅前あたりの喧騒と不潔さからすれば別世界である。
わたしは第1回目の中国旅行で、到着したその晩にここで夕食をとったことがある。

エレベーターは4つあり、指定された14階の部屋まで上ってみると、建物は新宿の住友ビルのように三角形であるらしかった(ふきぬけの部分にエレベーターがあると思えばいい)。
部屋はダブル・ベッドで、机とテーブル、ロッカー、冷蔵庫も備わっている。
冷蔵庫は目立たないようにカモフラージュされているので、わたしは初め、その存在に気がつかなかったけど、呑ん兵衛の多い仲間たちはすぐ見つけたという。

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わたしはひとりで個室を占有するかわり、ツアー料金を3万円ばかり余分に払っていた。
しかしわたしの孤独癖からすれば、その価値は充分ある。
部屋の窓からは上海駅の構内が見下ろせて、夜になるとホームのはずれに“上海”という赤いネオンがともる。

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この晩は荷物をホテルに置いたあと、そのままW嬢の家で歓迎会ということになった。
わたしたちはW嬢のいとこだという屈強な男性の車で、彼女の家に向かった。
夜なのでどこをどう走ったのかわからないけど、家というのは毛沢東時代に建てられたような4~5階建ての集合住宅で、まわりに鉄の柵があったことだけは覚えている。
到着を知らせると、建物から出てきた人が門の鍵を開けてくれた。
あたりが暗いから雰囲気はフィルムノワールそのものである。
魔都とよばれたころの上海なら、わたしたち5人はそのまま拉致されて、気がついたら貨物船の罐焚きにされていてもおかしくなかった。

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無事にW嬢の実家に到着したものの、他人の家を詳しく紹介しても仕方がないので、これについては簡単な説明だけにしよう。
部屋は、ずっとあとになってわたしがロシアで見てきたと同じような、冷戦時代の共産主義国ではスタンダード・タイプというか、あまり広くはなく、わたしたち5人と、W嬢、彼女の両親、お姉さん夫婦プラスその子供、なんだかわからない親戚などを入れるとかなり窮屈だった。
ようするにそのころの中国ではふつうの庶民の家なのだろう。
トイレはいちおう水洗で、水タンクの上にあるボタンを押して流すというもの。
はじめて見る方式なので、面食らったなあ、流し方がわからなかったよといったのは、わたしとほかのメンバー数人。

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2023年10月 8日 (日)

思想信条の自由

もはやロシアの勝利は100パーセント間違いがない。
そんなことはわたしにもわかる。
アメリカは議会が揉めて支援どころじゃないし、EUはアメリカの肩代わりはしないと断言している。
日本?
あいにくこの国は武器輸出のできない国で、現金だって、遠いヨーロッパの戦争に無制限に支援していいなんていう国民はいない。
NHKはまだ勝てるといってる?
あそこは西側先進国のひとつだと信じこんでいる日本政府の御用放送局だよ。
こんな状態なんだから、ウクライナが勝つ目は100パーセントない。

にもかかわらず、当然のことをいった鈴木宗男議員がよってたかって叩かれている。
この国は思想信条の自由が保障された国だと思っていたけど、違うのか。
ねえ、みなさん、あなたが宗男さんを叩くのはあなたのロシア嫌いという信条がそうさせるのだろう。
自分は自分の信条をふりまわしておいて、他人の信条は気にくわんのか。
異なる意見の持ち主を疎外するというのは、いじめにつながって、わたしのもっとも嫌悪するところだ。
SNSでもおもしろがってこの話題に飛びつく者のなかには、いっぱしの知識人、ジャーナリストを自称する人間までいる。
恥を知れ、ボケナスが。
戦争終了後に彼らがどんな顔をするか見たいから、早く戦争が終わらんものか。

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ロシアの現実

ロシア人ユーチューバーのマリアちゃんがモスクワから映像を上げている。
映像のタイトルが「ロシアの現実」となっているから、彼女なりに現在のロシアのようすを伝えたいと思って作ったものだろう。
わたしが行ったことのある芸術的な地下鉄の駅や、いつも歩行者天国になっているアルバート通りが出てきた。

見逃してはいけないのは、モスクワの日常はふだんとほとんど変わってないということだ。
若者も大勢いるし、歩きながらスマホを使っている男女も多く、経済制裁で困っている雰囲気はまったくない。
しいていえば観光客が目立たなかったけど、西側各国と戦争中のいまは当然かも知れないし、マリアちゃんの案内するのがクレムリンのような有名なところでないからかも。
日本にいるとロシア経済は崩壊寸前だとか、プーチンが動員令にサインしたとか、悲劇的な報道ばかり目立つけど、あれはいったいなんなのかね。

日本ではあいかわらずマスコミ報道を無条件に信じてしまうひとが多いけど、彼らはこういう映像を観てないのか。
視野を広く持ち、あらゆるところから情報を仕入れる心構えがあれば、ロシアの現実はいくらでもわかるのに。
いいや、カルト宗教に踊らされるような馬鹿者にいっても仕方がない。
わたしがいいたいのは識者やジャーナリストという人たちが、なんでデタラメを信じ、それを振りまいてるんだということ。

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2023年10月 7日 (土)

中国の旅/みたび中国へ

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1994年ごろ、わたしの周辺でにわかに中国ブームが起こった。
といってもわたしの周辺にそんなに国際関係に興味のある人間が多かったわけじゃないから、原因はきわめて単純なものである。
わたしの職場近くにカラオケスナックがあって、そこに数人の中国娘が働いていた。
いつの時代にも景気のよくない国からいい国へ民族の大移動が起きるように、当時はなんとか景気のいい日本に行ってお金を稼ぎたいと、斡旋業者に法外な金を払って来日する中国人がたくさんいたのである。
たまたま同僚のひとりがそんな関係から、中国人の娘と結婚し、それを聞いたほかの独身男たちが色めきたったというわけだ。

わたしが中国に興味を持ち、じっさいに2度も行ってきたことを知った同僚が、そのスナックにいっしょに呑みに行かないかと誘ってきた。
カラオケの大嫌いなわたしだけど、本場の中国人から中国の話が聞けるのではないかと、何度かその店に顔を出したことがある。
あまり外で呑むことのないわたしは、あらかじめ中国に関係のある話題を考えてから行った。
たまたま新聞で見つけた「陰局部有毛毛雨」という言葉をおぼえておいて、店で女の子にこれはどういう意味ですかと訊いてみたのだ。
イヤラシイわねえという反応だったけど、そんなことはない。
これは天気予報で使う「ところにより雨」というセリフだそうだから。
このころからわたしは独学でぼつぼつ中国語の勉強をしていたけど、机に向かうとすぐになにかしら妄想にとらわれてしまう性格なので、いっこうはかどらかった。

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そのうちスナックで働いていた上海娘のひとりが里帰りをすることになり、ついでに同僚たちの数人が、彼女といっしょの上海旅行を企てた。
誘われてわたしの気持ちも揺れ動いた。
だいたいわたしは変人で、趣味が他人と合わない。
年にいちどの職場旅行もめったに参加したことがないし、職場にあった山登りクラブも、創設者のひとりに名を連ねておきながら、複数よりは単独で行くことが多かった。
見たいものや食事の好みが異なること、すぐに宴会になるスタイルが苦手だったので、旅行もむしろひとりのほうが気楽でよかったのだ。

それでもいっしょに行こうかと考えたのは、また通訳つきの中国旅行ができるという期待があったことと、同行する上海娘が実家に招待してくれるというので、中国人の家庭を見られる絶好の機会だったからである。
仲間たちとのフリーツアーなら、向こうに行ってから単独で行動したってかまわないんだし。
そんな事情で今回の中国旅行は同僚たち数人との、グループ旅行ということになってしまった。

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とりあえず経験者のわたしが旅行計画を一任され、あちこちの旅行会社に当たってみて、「上海フリーツアー7日間」というツアーを見つけた。
料金は8万9千円(わたしの場合、ひとり参加=個室利用ということで、さらに3万3千円取られた)で、前回と同じように飛行機とホテルは向こうまかせ、ただし現地ではまったくの自由行動というやつである。
ホテルの選択肢はふたつあって、そのうちのひとつが「龍門賓館」になっていたから、このホテルが上海駅のすぐとなりだということを知っていたわたしは、迷わずにこれを選択した。
同行者は同僚のA、B、C、D(年令順)に、ワタシの5人で、案内してくれる上海娘のW嬢は先に行って向こうで待っているという。

おっ、いきなり7日間かい、豪勢なもんだねといわれても困る。
この紀行記事の始めのほうで書いたけど、このころのわたしは自分の無能ぶりをしみじみと自覚して、こんな人間が結婚してもうまくいくわけがないと悟り、まともな家庭を放棄する決意をしていたから、海外旅行をする金ぐらいはあったのだ。
しかも仕事は、わたしひとりがいなくてもだれにも迷惑はかからないという無責任なものだったから、いくらでも長期休暇が取れたのである。
世間並みにいろいろ悩みの多い人生だったんだよ、わたしって。

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旅行が本決まりになると、参加者たちは向こうで知り合った中国娘に、土産は何がいい、パンストなんかどうだと騒がしい。
共産主義の国ではまだパンティストッキングが強力なくどき道具になると信じられていたころである。
わたしもいろいろ調べて、向こうでひっかけた女の子を連れていくには、シェラトン・ホテル内のJJというディスコがいいらしいよと、まあ、ロクなもんではない。

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今回のわたしは上海から日帰りも可能な蘇州に足を伸ばすことにした。
蘇州は2年まえの初めての中国旅行で訪問しているけど、えらい暑い季節の強行軍で、帰国してから膀胱炎になってしまったくらいだ。
肝心の景色はほとんどエアコンの効いた車の中からしか見物できなかったので、東洋のベニスと呼ばれる運河の街を、今回は自分の足でじっくり歩いてみようと考えたのである。
というわけで、わたしの3度目の中国旅行のスタートだ。
これは1994年の2月の旅なので、前回の上海から帰ってから1年と2カ月後の旅ということになり、やはりほぼ30年まえということになる。

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2023年10月 6日 (金)

ゲイツの発言

ビル・ゲイツの気候変動対策での植林は「ナンセンス」という発言が物議を醸している。
しかしこれも発言の一部を切り取って大騒ぎをしているだけのように思える。
ゲイツが言っているのは、植林というのがアブラヤシやチークのような換金植物に置き換えられることの危険性であって、多様な植生を維持することまでダメといってるわけじゃないだろう。
ブラジルやアフリカにあるような熱帯性ジャングルは、人工的な植林で復活させるのがむずかしい。
もしもゲイツがその莫大な資産を活用して、植林に励めば、ヘタすると換金植物のプランテーション経営に乗り出すことにもなりかねない。
彼も植物が温暖化阻止に効果があることぐらい知っているはずだと思うんだけどね、ゲイツのファンでもあるわたしは。

こう書いておかないと、またココログのあのカルト・ブログが大喜びする可能性があるから一筆したためた。

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ノーベル賞の季節

ノーベル賞がイランの女性人権活動家、ナルゲス・モハンマディ氏に決まりだって。
そりゃこういう人に光を当てるのもいいですけどね。
ますますノーベル財団というのが西側の仲良しクラブのものであることを証明してしまい、ほかの分野でも権威が失われるのではないかと心配だ。
ロシアはノーベル賞に値する学者を多く出しているし、これからは中国もその可能性がある。
それがこれからはえこひいきがあるんじゃないかと疑われる。
日本が受賞しても西側だからだろうなんていわれかねない。
ハルキ君が受賞できないのは、ロシアや中国で人気があるからだろうといわれる。
ノーベル財団が権威を維持したければ、平和賞と文学賞はべつの組織に切り離すんだね。

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どうすんだよ

維新よ、おまえもか。
鈴木宗男さんが勝手にロシアを訪問し、あろうことかロシアの勝利を期待するなんていったのがケシカランと、除名処分にするつもりらしい。
ということは維新もロシアに勝ってほしくないわけね。
維新も戦争が終わったあと、関係修復の舞台にも上げてもらえない気のドクな政党になるわけか。
なにも議員全員がロシア擁護にまわれといってるわけじゃない。
わが政党は自民党とは一線を画し、ロシアの勝利を確信してしていたんですよと、宗男さんひとりがいたおかげで言い張ることも可能だったのに。
ネット上のどこかでだれかが書いていた。
ロシアと会話できるチャンネルも必要だから、宗男さんのような存在は、所属する政党にとってひじょうに貴重なものだと。
そういう意見もあるのに、なんで世間のアホに迎合する必要があるんだよ。
一億総火の玉かい。
異論というものがいまほど必要な時期はないのに、つぎの選挙が心配で世論に抗するわけにはいかんてことか。
おちぶれたね、日本の民主主義も、政党政治も。

そのプーチンは、対話を閉ざしたのは日本のほうだ、窓口はいつでも開いていると発言。
いったでしょ、プーチンは日本が好きなんだよ、少なくても中国やベラルーシよりは。
どうして日本の政治家はこんな馬鹿ばっかりなんだ。

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2023年10月 5日 (木)

カミカゼ

まえにプーチンが北朝鮮の正恩クンと会ったとき、ロシアはとうとう北朝鮮からも支援を仰ぐことになったと騒いだSNSがたくさんあったけど、あれはどうなった?
ロシアが1発でもよそから大砲の弾をもらったか。
それどころかアメリカはイランから没収した弾丸をウクライナに供与するって。
アメリカの弾丸のほうが先に枯渇しているようだぞ。

ウクライナの戦術はますます北朝鮮に似てきた。
クリミア半島に上陸して、どこでもいいから攻撃して写真を撮ってこい。その写真をクリミア半島で攻勢をかけている証拠にしよう。
しかし生きて帰って来れますか。
死んだら勲章をやるからとりあえず行ってこい。
これじゃ日本のカミカゼ特攻隊だけど、ゼレンスキーさんも無慈悲なことをする。

ウクライナ軍が、写真を撮るためだけに高速艇で往復するというのは、まえにドニプロ川を渡って、そのへんに置いてあったクレーンのてっぺんにウクライナ国旗をかけてきたという前歴がある。
まったく意味もなく、ただ自分たちが負けてないことを宣伝するためなのだ。
今回は広大な海で同じことをして、帰りにロシア軍に捕捉され、航空機で攻撃されて・・・・捕虜がひとり。
ということは高速艇の特殊部隊は全滅したんじゃないか。
いったいこの戦争を続ける理由があるのか。
やめるといったら、ゼレンスキーさんは味方から殺されるにしても。

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馴れ合い?

またひとつ西側の悪あがきの実例。
ロシアのテレビ局で反戦プラカードをかかげて有名になったマリーナ・オフシャンニコワさんという女性。
モスクワ地方裁判所の判決が禁錮8年6カ月だそうだ。
なんだ、またなにかやったのかいと見たら、彼女はいまロシア当局の手の及ばない安全な国外にいて、外野からいろいろ騒いでいるらしい。
これって馴れ合いじゃないのか。
彼女は1年まえまでロシアにいて、性懲りもなく反戦活動をした。
さすがはロシアはグローバル国家、国内に反戦活動家もいるんだねと感心していたけど、あまり活動に入れ込みすぎて当局に再拘束された。
とたんに彼女は国外逃亡だ。
ずいぶんロシアの官憲というのはアマイんだねえとまた感心した。

いま彼女は安全な外国で活動している。
西側にすれば、プロパガンダに絶好の材料だから、こういう人間を最大限に利用しようとするだろう。
彼女も自分が大スターになったような気分で舞い上がったりして。
ロシア当局も判決だけで実行力はないから、安心して禁錮8年を下したのかも知れないし、女性にはやさしいのだというプロパガンダかも知れない。
なんにしても血を見るような騒ぎじゃないので、わたしは傍観するしかないんだわさ。

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過去の欺瞞

昨日はジャニーズ事務所ばっかりで、ウクライナの報道がぜんぜんなし。
アメリカでは議会が大揉めで、ウクライナ支援どころじゃないっていうんで、わたしも安心して模様眺め。
もちろんこれはNHKのこと(民放は観ないからわからへん)で、たかがそのへんの一介の芸能事務所のゴタゴタが、そんなに大騒ぎすることかというのがわたしのスタンス。
でもマスコミにとっちゃこんな美味しい話題もないんだろうね。

昨日のニュースでは先日の記者会見で、質問を受けたくない記者をあらかじめ選別していたと騒いでいた。
なーるほど。
そんじゃそういう記者が質問したとしたらどんなことを訊いたのだろう。
たとえばイソ子さんあたりが事務所の後継者たちに、舌鋒するどく、あなたも喜多川さんのお稚児さんだったことがあるんですかと訊くんだろうか。
壇上にならんだ東山クンや井ノ原クンを見ると、若いころはさぞかしカワイイ男だったみたいだから、その可能性はあるけれど、彼らにしてみれば男の操を売ってまで、なんとか上りつめた現在の地位だ。
そもそも彼らに罪があるわけでもなし、こんなスキャンダルで廃業したくはないだろう。
スキャンダルのもととなった張本人はとっくに死んじゃっていて、再発のおそれもないし、新しい事務所をつくってやりなおそうというのを、そんなにいじめておもしろいんだろうか。

わたしはこの歳までいろんな人間を見てきた。
広い世間には女かと思ったら男だったとか、その逆だとか、まともな人間には想像もできない世界があることも知っている。
有名になりたくて本人が納得してやったことなら、処女を奪われた、オカマを掘られた、その他もろもろについて他人がゴタゴタ騒ぐことかい。
それよりNHKは人の振りみてわが振りなおせの格言に、感じるところはないのかね。
あそこも芸人の生殺与奪の権利をにぎった巨大組織で、過去の役員のなかに男色傾向のある人物はいなかっただろうか。

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2023年10月 4日 (水)

明日への欺瞞

もうあんまり書きたくないけど、SNSにはまだウクライナ戦争で、無理な願望記事があり続けているようなので、そういうものを一掃したいと、うんざりしながらタブレットのキーを叩く。
機を見て敏なる識者のなかには、早くもロシアの味方に乗り換えた人もいるようだ。

NHKがまたおかしなことを言ってたよ。
ウクライナの戦争を早く終わらせるためにはさらなる支援が必要だって。
どこがおかしいかわかるね? 
さらなる支援は戦争を長引かせるだけだ、ということは中学生にもわかる。
ひょっとすると日本全国が中学生以下のレベルか。

ロシアから脱出する人が増えてるともいっていたけど、へえ、ロシア人は簡単に国外脱出ができるのか、ウクライナの若者とは違うんだねと考えてしまう。
ロシアを貶めるつもりが、かえってよく戦況を伝えている好例だ。
ウクライナ優勢というプロパガンダはたくさん聞こえてくるのに、戦場のウクライナ兵の声はほとんど聞こえてこない。
もういいからゼレンスキーさんも前線に行け。

先日はキエフでEUの外相会議。
支援の継続を約束したっていうだけで、具体的な支援の方法も明確にされなかった。
ただもう話題だけを作って、世間の目をウクライナからそらせないようにしようという狙いがありあり。
世界はもうウクライナ以後のことを考えているのに、日本は台湾有事まで西側の結束が必要だからって、あいかわらずNHKの欺瞞は続くのだ。

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2023年10月 3日 (火)

欺瞞

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ひとりの議員がロシアを訪問しただけで、彼の所属する政党がケシカランと大騒ぎ、世間(とNHK)もよってたかって叩こうという算段。
これが民主主義を標榜する国と、民主主義を守るという大義の戦争の現実か。
おお、この欺瞞列島よ。
戦争が終わったらいったいだれがロシアとの関係を修復するのだ。
修復なんてする必要がないというのか。
わたしたちはあの素晴らしい自然と芸術の国を、永遠に訪問することもできないのか。
いいかげん気がつけ、この馬鹿ものたちは。

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今日のわたしは埼玉県日高市にある高麗(こま)の郷のヒガンバナを見に行ってきた。
必死で抵抗しているけど、足は順調に衰えておりますワ。

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中国の旅/市内点描

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あっちこっち歩きまわってだいぶ疲れた。
それでも上海をひとりで思う存分歩きたいという希望はかなったからよし。
まだまだ書きたいことはいくらでもあるけど、旅日記に記録してあるものを全部書いていたらきりがないし、わたしの上海訪問はこのときだけではないので、あとはおいおい報告していくことにしよう。
とりあえず1992年12月の旅はこれで終わりである。
おいおい、きれいな娘とはどうなったんだ、ホテルで寝たのかという人がいるかも知れないけど、このブログは恋愛小説じゃないから、あとは勝手に想像してほしい。
ここではこのときの旅で撮った写真をムダにしたくないので、上海点描ということで、街で見かけた気になるものの写真をどさどさ掲載して締めくくろう。

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上海のような都市でも道ばたに露天の食べもの屋や、靴直しや自転車の修理屋などの家内工業的職業は多い。
街をぶらついていて発見したのは北京ダックの製造工場で、まったくの家内工業。

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民家の軒に下がっていたのは鳴き声を競わせるので有名な画眉鳥。
西安に行ったとき、じっさいに鳴き声を競う大会を見たことがあるけど、大谷崎の「春琴抄」に出てくるウグイスの鳴き声比べほど優雅じゃなかったね。

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道ばたで売っていたネジ菓子。
いっぱしの中国人になったつもりでひとつつまんでみた(中国では味見はふつうの行為である)。
固くて食えなかった。中国人の歯が丈夫になるわけだ。

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92年当時の上海としては、モダーンな床屋。
街かどで見かけた黒澤明の映画にでも出てきそうな野武士ふうの3輪タクシーの運転手。
工事現場で見かけた竹の防護壁。
日本のようなキャンパス布と鉄パイプではなく、使われているのはすべて竹で、まだ市内のあちこちで見た。

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民家の建て込んだ貧民窟のようなところで日向ぼっこをするおばあさん。
この一帯も都市改造の波に洗われていて、つぎに行ったときはもうあとかたもなかった。
おばあさんは住みなれた家をはなれてどうなっただろう。
野武士ふうの3輪タクシー運転手も失職しただろうし、進歩というのはときに残酷なものである。

そんなごみごみした町をぶらついていたら、まえを行く女の人がきれいな壷のようなものを、後生大事にささげもって歩いているのに気がついた。
おお、あれはひょっとするとアレではないかと、こっそりついていったら、彼女は中身を公衆便所に空けていた。
彼女が持っていたのは、夜中に用をたすための便器“おまる”だったのだ。
92年当時はまだこんなものがじっさいに使われていて、昼間になると、洗ったものがよく家のまえに干してあるのを見たものだ。

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中国は遅れているなと感心するのはだれにでもできる。
わたしたちがほんとうに感心しなければいけないのは、そういう中国の都市がわずか30年ほどで、東京に匹敵する近代都市に変貌したということなのだ。
以前テレビ番組で、上海の若い娘が日本までウォシュレットを買いに来て、自宅でひとりで取り付けているのを見たことがある。
いまでは朝になるたびに、おまるをかかえて公衆トイレに通う人もいなくなっただろう。

むかし読んだ中国語テキストの著者が、中国の街を歩いていると、どこに行っても郷愁のようなものを感じるといっていたけど、同じことを感じるわたしは幸せなのか、時代遅れのアナクロ人間なのか。

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2023年10月 2日 (月)

今日の戦況?

おいおいおい。
SNSにはまだウクライナ優勢という報道もあるけど、調べてみるとソースはどれもウクライナによる報道で、しかも事実を確認するための肝心の部分がない。
いちばんわかりやすいのがNHKで、わたしは戦況を気にしてるのに、夜の7時のニュースではジャニーズ事件がトップ、ウクライナのことはひとつもなし。
いまははニュース9待ちの状態だけど、おそらくたいした報道をはないんじゃないか。
そりゃわかる。
スロバキアではウクライナ支援をやめようという政党が躍進し、ポーランドはウクライナの穀物の経由地であることをやめろと農民のデモ、米国議会ではなんとか政府機関の閉鎖は免れたけど、ウクライナ支援の先行きはまっ暗だ。
いいことはぜんぜんないから、NHKも取り上げようがないんだろう。
戦争はまだまだ続くという人もいるけど、まったく意味のない戦争だ。
さっさと終わってほしいや。
ウクライナが負けるからいいというわけじゃない。
これで死ぬはずの兵士たちが死なずにすむと思うとホッとするんだよ。

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ご冗談を

ゼレンスキーさんがノーベル賞候補だって。
また、ご冗談を。
戦争が終わったら彼は、やめるべきなのにやめず、自国民を大量に殺したというので、人道に対する罪の候補なんだけどな。
でもノーベル財団がどういう組織なのかわかっていいね。

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2023年10月 1日 (日)

中国語会話

いまブログで中国の旅を不定期に連載しているワタシ。
わたしが中国語の勉強をしようかと思い立ったのは、初めて団体旅行で中国に出かけたころだった。
アナタを愛シテイマスは余計でも、たとえばコレ何デスカぐらいはいえないと、向こうでわけわからないものを見たときに困るのである。

そういうわけで、当時放送されていたNHKの「中国語会話」に目をつけた。
好奇心というのはおそろしいもので、普段はあまり語学の勉強に熱心になれないわたしが、めずらしくテキストまで買ってきて、熱心に打ち込んだものだ。

勉強を始めたばかりのころ、「中国語会話」には、なかに寸劇のようなものがはさまれており、これに親しみやすい顔をしたおじいさんが出演していた。
あとでこの人が中国では国宝とされる名優の朱旭さんであることがわかった。
のちにNHKの大河ドラマ「大地の子」で主人公の育ての親を演じたり、映画「變臉(へんめん)」で不遇な少女を育てて、わたしを感涙にむせばせた人である。

残念ながらわたしが中国語会話を見始めてすぐにシリーズが切り替わってしまったので、朱旭さんを観たのは1、2回だけだった。
その後にアシスタントを勤めたのは上海生まれの才媛である王京蒂さん。
女優でも勤まりそうな知的な美人なので、彼女のアシスタントぶりを観るのは楽しかった。

彼女についての思い出がひとつ。
中国語にはイントネーションの違いで文字を判断する、四声というむずかしい規則がある。
音痴のわたしはこれがニガ手で、中国を旅するときはほとんど無視していたけど、それでもなんとか通じたから不思議。

ある日、この四声をわかりやすく解説するために、王さんの口もとのアップが出てきた。
これがなんともイヤらし・・・・いや、官能的で、毎週の視聴にも熱が入ったものだ。
しかし官能的と思ったのはわたしだけではなかったようで、これはマズイと考えたのか、NHKは口もとのアップを3回か4回で廃止してしまった。
おかげでわたしの中国語もカタコトで終わった。
というのは、これはまあ、NHKのせいじゃないけど。

王京蒂さんの写真を載せようと思ったけど、中国の著名人サイトまで探してもどうしても見つけることができなかった。
中国語会話のアシスタントは2年か3年で変わるし、もう20年以上まえの話だものね。

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つまらないネタ

NHKのウクライナ報道がめっきり減って、これはウクライナに勝利の目がなくなったということだから、わたしみたいなロシア擁護派には悪いことじゃないんだけど、おかげでブログのネタがなくなってしまった。
YouTubeのようなSNSも同じで、まだウクライナが優勢だというものもあるけど、そのほとんどがすぐにデタラメだとわかるようなものばかりだ。

そんな中、ロシア軍の戦死者が戦争開始以来、28万近くになっているという報道があった。
最近のわたしにはソースはどこだと確認するクセがついているので、見たら読売新聞で、しかもウクライナ軍参謀本部の発表ではないか。
ここんところウクライナはヤケになって、断末魔というべきデタラメ発表ばかりしてるんだけどね。

戦争初期の死者がそのまま推移しているならわからんでもないけど、最近ではウクライナ側の死者のほうが圧倒的に多いというのが常識だ。
反転攻勢など夢のまた夢で、ドローンやミサイルを使って、遠方からクリミア半島をゲリラ攻撃するのがせいぜい、だからこそNHKもこりゃダメだということで報道しなくなったのだろう。

読売の報道では
露軍は4687台の戦車を失い、536基の防空システムが損害を受けた。
などとロシア軍の損害だけはやけに詳しい。
わたしが何度も指摘してきたように、ウクライナ軍の死者数や損害にはまったく触れてないのである。
そうか、ウクライナでは死者数は国家機密だったよね。
どうして天下の読売新聞は、これが大本営発表だということに気がつかないのだろう。

ネタがないから他人のアラ探しになってしまう。
わたしもこんなつまらないことを書きたいわけじゃないんだけど。

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