中国の旅/網師園と盤門
南林飯店の防音設備は、上海の龍門賓館よりはるかによろしい。
14階まで車のホーンがうるさかった龍門賓館に比べると、蘇州ではわたしは朝の8時ごろまでゆっくり寝た。
目をさまして窓から眺めると、北寺の塔ははるかにかすんで見える。
せいぜい3キロぐらいのはずだけど、あらためて自分が歩いた距離の長さに感銘を受けた。
前夜買っておいた菓子パンを食っただけで、わたしは朝食をすませてしまった。
地図を見て、今日いちにちの計画を練る。
この日は午後4時に、あとから日帰りでやってくる仲間たちと、寒山寺の門前で落ち合うことになっていた。
さて、それまでどうやって時間をつぶすか。
わたしは中国の寺や庭園にまったく興味がないんだけど、それらを無視して歩くだけでは、16時までとても間がもちそうにない。
前日に標識だけを見た「網師園」という庭園が近いので、とりあえずそれを見に行くことにした。
興味がないから目も通してなかったけど、ガイドブックによるとこれは南宋時代に建てられた名庭園だそうである。
南宋でも北宋でも庭園なんぞに興味はないし、ウィキペディアの解説は英語だから翻訳するのがメンドくさい。
興味のある人は、いるわけないからリンクも張らないでおく。
ただ、地図で見ると網師園の庭園内にまで運河が引き込まれていたので、ひょっとするといい写真スポットになっているかもしれない。
南林飯店をあとにして、前日に歩いた道をふたたび歩いた。
民家の壁に描かれた網師園の標識はすぐなので、矢印にしたがって、また白壁にかこまれた露地に入ってみる。
露地をぐるっとたどって、網師園の入口はすぐにわかった。
名庭園といっても入口はさえず、白壁の建物にがっちりした木戸があるだけである。
むかしの中国には強盗が多かったから、それの予防のために入口を狭くしてあるという。
入場料ははした金でも、この当時の中国では外国人は一律に中国人の倍と決められていたので、わたしは倍額をとられた。
内部については、わたしには偏見があるかもしれない。
中国の庭園の趣味の悪さについては、その理由が司馬遼太郎の「街道をゆく・江南の道」で触れられており、わたしはその部分を熟読していた。
ようするに低俗な成金趣味なのである。
偏見にとらわれてはイカンぞと気をつかいながら、ひまつぶしだと思って、我慢して見学して歩き、あまり観光客が興味をもちそうにない建物の裏側などを重点的にのぞいてみた。
園内の塀で仕切られた庭では、ずらりと鉢をならべて植木の栽培をやっており、そんな中で子供を遊ばせている親がいた。
ぐるっまわって出口に近づくと、みやげ物をならべた1室を通らないわけにはいかないようになっている。
ここでは水墨画などを売っていた。
中国の絵にはいいものもあるんだけど、そんなものを飾れるような家にわたしは住んでいない。
観光地で売っている中国の絵は、どうも大量生産をしているようである。
絵は水彩が多く、近づいて子細に見るとたしかに肉筆なんだけど、複数の職人がいて、流れ作業で作品を完成させているようなのだ。
わたしがこんなことを思ったのは、肉筆であるにもかかわらず、印刷でもしたようにまったく同じような構図・色彩の絵を見たからである。
ひとつふたつならまだしも、そんな絵がどのみやげ物屋にもある。
おそらく基本になる絵を描く親方がいて、その下に木を描く者、水を描く者、建物の屋根だけを描く者というふうに、特定の部分を担当する職人がいるのではないか。
水彩のぼかしの部分にまで担当がいるとなると、こりゃたいした専門技術だ。
こういう絵に資産的価値があるかどうかは疑問だけど、制作方法を知らなければ、わたしでも欲しくなってしまう絵が多いことも事実である。
わたしの家にスペースに余裕のある壁があり、なおかつその絵が3千円ぐらいで買えるものなら、わたしはきっと2、3枚まるめて持って帰ったにちがいない。
こんなふうに自然な気持ちで相対して魅惑を感じる絵が、芸術ではないといいきれるだろうか。
絵画に対する評価はむずかしい。
ダ・ヴィンチやゴヤ、レンブラントだって、弟子たちを使う共同制作だったはず。
網師園を見物したあとは「盤門」という蘇州城の古い城門を見に行くことにした。
ここは司馬遼太郎の「街道をゆく」に記述があって、蘇州で古い城壁が残っているゆいいつの場所らしかった。
むろんあちこちで、蘇州名物の運河の写真を撮るつもりである。
網師園を見学したあと、どこかでお金(日本円)を両替しようと思い立った。
前日、Bさんに交換してもらった人民元(800元)は、半分以上をホテル代として支払ったから、もう300元くらいしか残ってない。
たまたま通りがかりに大きな銀行があった。
銀行名を見てもどういう種類の銀行なのかわからないけど、入ってすぐにカウンターがあり、その内側に行員が並んでいるのは日本のふつうの銀行と変わらない。
両替できるかどうか、試しに聞いてやれとばかり飛びこんでみた。
事情を説明すると、銀行員たちは困惑したようすで、なかには顔を見合わせてニヤニヤする女性の行員もいた。
わたしとちょくせつ向かい合った行員は、ダメなんですよと申しわけなさそうにいう。
ふたつの銀行で断られてしまったから、一般の市中銀行では外国紙幣の両替をしていないらしかった。
ふたたび南林飯店のまえまでもどり、門前にたむろしているリキシャの運転手たちに、おい、南門まで行かないかと声をかけてみた。
駅から南林飯店まで50元くらいだと聞いていたから、地図上で目測をし、南門は10元くらいと見当をつけた。
博打をやっていたひとりがそれでOKだという。
がさつだが、なんだかわたしに親近感をもっているような態度である。
メインストリートである人民路を走って、「人民橋」という大きな橋のたもとでリキシャを下りた。
ここにはバスの発着駅があり、客待ちをするタクシーやリキシャがたむろしていて、かなりにぎやかである。
運転手は帰りも乗るのかと聞いてきたけど、わたしはあとは歩くといって彼を帰した。
人民橋のある場所に、かっては蘇州城の城門のひとつである南門があったはずである。
しかし人民橋は新しい大きな橋で、どこにも城門の痕跡はなかった。
わたしは運河のへりに立ってあたりをながめた。
このあたりで運河はかなり幅が広く、運貨船が何隻も行き来している。
地図をみると、ここから歩いていける距離に「盤門三景」という観光名所があるはずである。
わたしは橋の上に立って、運河の上流下流をながめてみた。
運河の水は流れているはずだけど、はっきりわかるほどの流れではないし、注意しなかったからじっさいにはどっちが上流なのかわからない。
すると1キロほど先に大きな眼鏡橋がかかっているのが見えた。
それが盤門三景らしい。
歩いて歩けない距離ではないので、そこまでのんびり歩くことにした。
小さな橋をいくつか渡ると、やがて右手の支流にも小さな橋がかかっているのが見えた。
これは人民橋の上から見た大きな眼鏡橋ではない。
若い奥さんが洗濯をしている民家の庭のような露地をたどって、その橋のそばまで行ってみたら、橋は通行止めになっていた。
渡ることはできるけど、渡った先の露地が抜けられないので、実質的に通行止めである。
この橋は全体がアーチ型をしていて、雑草だらけだったものの、いかにも古色蒼然とした橋なので、おそらく蘇州城と歴史を共有しているのではないか。
橋の上で写真を撮り、引き返そうとすると、そのへんで近所の子供たちが遊んでいるが目についた。
おい、写真を撮るぞというと、子供たちはみんな尻込みをした。
洗濯をしていた奥さんが声をかけてくれて、ようやくわたしは彼らの写真を撮ることができた。
写真を撮られることをイヤがる子供はめずらしい。
さらに歩くと、ようやく人民橋から彼方に見た大きな眼鏡橋にたどりついた。
橋のたもとにみやげ物屋が並んでいた。
この橋は蘇州城の盤門にかかる橋で、古い石橋でありながら、今もその下を船が行き来し、立派に活用されている。
渡ってみておもしろいと思ったのは、橋の上に石段とともに、自転車のタイヤを転がすのに都合のよい平滑な部分があることだった。
この橋ができたころ自転車はなかったはずだから、馬車のためのものだったのだろうか。
橋を渡ると「盤門」だ。
橋の上から盤門を見ると、3階建てのビルぐらいありそうな、黒い城壁がそびえているのが見える。
かっての蘇州城の城門城壁で、完全な姿で残っているのはここだけらしく、それだけに有名な観光名所になっているようで、あたりにはみやげ物屋が多かった。
わたしはアーチ型をした城門のトンネルをくぐって、盤門の上にあがることにした。
トンネルの途中にある二重の壁に囲まれた空間は、敵を導き入れて壊滅させるためのものだという。
盤門の歴史とそのあたりの光景については、司馬遼太郎の「街道をゆく」に詳しいから、読んでみたい人は図書館に行けばよい。
この本が置いてない図書館はまずないはず。
わたしは公園になっている盤門の上でしばらく休息をした。
ここからは二重になった運河や、近くの民家の屋根などを見下ろすことができる。
眼下に見えるセンベイを重ねたような民家の屋根が、粗末であってもなかなか美的でわたしの琴線を刺激した。
民家に通じる小さな橋があり、わたしがそこによい被写体があらわれるのを待っていると、土手のふちをネコがのそのそと歩いているのが見えた。
城門の上には楼閣があり、そこがみやげ物屋になっていて、若い女性が2人で手持ちぶさたそうに店番をしていた。
もう彼女たちもいいおばさんになっただろうし、盤門のあたりもいまではずいぶん変わっただろう。
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