中国の旅/蘇州着
列車は12時30分、ということは中国時間の11時30分(以降の時刻はすべて中国時間)に定刻どおり上海駅を発車した。
座席ももちろん指定席で、あまり混んではいなかった。
わたしの向かいの座席に中国人らしき男性が座っていたけど、わたしとにらめっこをするのがイヤだったのか、そのうち荷物を置いたままどこかへ行ってしまった。
おかげでわたしは窓ぎわに頬杖をついたまま、じっくり外の景色を追うことができた。
2月であるにもかかわらず、この日の天気は春霞がたちそうな好天だった。
窓の外の景色は2年まえに見たことのある景色である。
10分もすると上海市街をぬけて、列車は運河の多い田舎景色を走ることになり、わたしにとって郷愁をさそわれるような景色がつぎつぎと現れる。
上海近郊の畑はいまホウレンソウなどの冬野菜の最盛期だ。
線路ぎわにブタ小屋が並んでいて、暖房のためか、カマドから煙が立ちのぼっているのも見た。
野菜農家にしても養豚農家にしても、上海のような大消費地をひかえたこのあたりではいい収入になるにちがいなく、農家はコンクリートの2階建てで、屋根の両端に鴟尾をそなえたタイル張りのきれいな家もある。
そうした家がたくさんあるということは、このあたりでは万元戸と呼ばれる裕福な農家が多いのかもしれない。
先に豊かになれる者からなれという、鄧小平の改革解放政策はまずまず順調なようだ。
上海~蘇州の中間地点で、わたしは進行方向右側に小さな山のある街を見た。
山と丘の中間ていどの起伏だけど、ほかになにもないまっ平らな平野のなかではちょっと目立つ存在で、駅名によるとこれは「昆山」という街らしい。
何本もの煙突が黒い煙をはいており、蘇州までのあいだで街と呼べる集落はここだけだった。
12時20分、右手に「阳澄湖」という湖が見えた。
“阳”というのは中国語の簡体字で、太陽の“陽”だから、日本語表記では陽澄湖ということになる。
日の部分が月になると、これは“陰”という字になる。
簡体字でもそのまま表記できるのだから、現在のパソコンのグローバル化はありがたい。
このあたりで大きな湖というと、2年まえに船で遊覧した太湖が有名だけど、それは蘇州までの路線からは見えない。
たまに畑のあいだに花輪が放置されているのも見た。
これはそこに墓があって、まだ最近だれかが葬られたばかりらしかった。
日本と同じように畑のかたすみで、作物の肥やしになるように葬られた人々がいる。
この古い国で数千年間、畑を耕し続けてきた農民のものなら、作物の肥やしになるのはきっと本望だろうと思う。
そのうち検札がやってきた。
帰りに乗った硬座(2等)列車ではやってこなかったから、これは軟座(1等)だけの仕事らしい。
わたしの前のどこかへ行方不明の客は、テーブルの上に切符を放りっぱなしにしてあったけど、車掌は主のいない切符もきちんと検札した。
通路をはさんでとなりの席には2人の男性が座り、ひとりは熱心に書類を作成し、もうひとりは週刊文春を読んでいた。
これは日本人らしい。
13時10分ごろ蘇州の駅に下りたった。
駅の売店で街の地図を買ったけれど、これはたったの1角(13円)だった。
ホテル代を参考にしてみても、上海から1時間半の距離にすぎないのに、蘇州のほうがなにかにつけて物価が安いようだ。
このあたりからわたしの周辺はやたらにぎやかになり、改札を出たとたんに、わたしは殺到するタクシーの客引きにとりかこまれてしまった。
日本語で「コンニチワ」と話しかけてくる相手もいるし、タクシーの運転席から声をかけてくる女性運転手もいた。
いらん、いらん、歩くからいいとわたしは彼らをけちらして駅前広場に出た。
じっさいわたしは蘇州で、以前泊まったことのある「南林飯店」まで徹底的に歩くつもりでいた。
歩かなければ街を実感としてとらえることはできないというのが、西行や芭蕉的な旅を愛するわたしの不動の信念だ。
蘇州市街(旧市街)は駅の南側に長方形にひろがっていて、南林飯店は市中心部の少し南寄りにある。距離は駅からせいぜい3キロぐらいだろう。
わたしは念のため市内にあるはずの北寺の塔を目で探してみた。
この塔は高さが76メートルもあって、遠くからでもすぐ見つけることができるから、方向感覚を失ったときにいい目標になるし、地図と参照すれば、距離を見積もるのにもいい目安になる。
北寺の塔は駅からよく見えた。
歩いて歩けない距離ではないと思い、わたしは駅前をとりあえず左へ歩き出した。
蘇州駅のまん前に運河が流れているから、右か左へ迂回して、どこかで橋を渡らなければ市内へ入ることはできない。
蘇州は運河にかこまれた街で、地図をみると、この街をとりかこむ運河の形状がよくわかる。
左へ迂回すると大きな橋があった。
これを渡ると、蘇州市内を縦につらぬくメインストリートの人民路へ出る。
この大きな橋は、かっての蘇州城の平門にあたるんだけど、今は幅のひろい近代的な橋に架けかえられていた。
橋を渡るまえに、わたしは手前の公衆便所で小用をすませることにした。
公衆便所は有料で、入口に控えるおじいさんがわたしになにかいう。
大か小かと訊いたのかもしれないけど、手のひらにコインをのせて出すと、おじいさんが勝手に1角だけ取った。
小用を足しながらふりかえると、すぐ後ろに、高さ1メートルほどの壁にかこまれた大用の個室が見える。
扉はないし、高さが高さだから、中で用を足している人の頭がよく見えてしまう。
中国人は便所で個室を使うとき、扉があってもわざわざ開けっぱなしで用を足す人種だから驚くにあたらない。
平門の橋の両端には唐獅子の石像が鎮座していた。
わたしはこの写真を撮った。
このあたりの運河はかなり幅ひろく、けっこう大きな運貨船も往来していた。
橋を渡れば、いよいよ蘇州の街、かっての蘇州城の域内である。
橋をわたったところに商店がならんでいて、その中の1軒の海産物屋で、えらくはなやかな服装の女性が魚を売っていた。
「小姐」と呼びかけるとニッコリしたので、彼女も写真に撮った。
はなやかな女性が、バケツに入れた魚を売っているというアンバランスがおもしろい。
また路上で衣服を売っている露店もあちこちで見かけた。
並べてある品物の中には色とりどりの女性用パンティがある。
しかしいくら中国でも、今どきの若い娘がこんなブルマーみたいなものをはくかしらと思う。
北寺の塔のすぐわきを通ったけど、もともと中国のお寺に興味がないし、入場料をとる観光名所になっていたので、通りから写真を撮っただけで通過。
翌日、日帰りで蘇州にやってきた仲間たちは、この塔に登ったという。
中国の人と話をしてみたいものだから、あちこちでわざと南林飯店までの道を尋ねた。
みな親切に教えてくれて、なかにはわざわざ待機所に招き入れて、紙に書いて説明してくれた守衛さんもいた。
人民路は途中で大々的な補修工事をやっていた。
日本ならこうした現場には、たいてい歩行者のための臨時の側道が用意されているのが普通だ。
工事現場のわきの細い通路へ入ってみると、それは50メートル先で通行止めになっていて、それより先はイヌやネコでも進めそうになかった。
わたしはこんちくしょうと毒づいて通路をもどった。
行程の半分あたりまでは、見るもの聞くもの、みんな珍しいものばかりだから、疲れもあまり気にならなかったものの、もう1時間以上休憩もとらずに歩き続けて、いいかげん疲れた。
山登りなら2時間でも3時間でも歩くけど、カメラ機材をかついで、街のなかの舗装道路というのはけっこうくたびれるものだ。
あとで地図を見ると、この日のわたしは、運河に囲まれた縦に長い蘇州市の、4分の3くらいを踏破してしまったことになる。
ところでここでショッキングな話。
わたしが蘇州での宿になんで南林飯店を選んだかというと、2年まえの団体ツアーで泊まったことがあるからだ。
あのときは他のツアー客らと夜の街へ繰り出し、さんざん土産物店をひやかしたあと、小さなレストランに入ってザーサイを食べようとしたものの、その場のだれも“搾菜”という漢字が書けず、断念したという思い出がある。
なつかしいからついまた泊まってみようと思ったのだ。
しかしわたしは今回も、飛行機と宿がセットになったパックツアーで、上海の龍門賓館は6泊分をすでに払ってある。
にもかかわらず、この日の蘇州でまたべつのホテルに泊まることにしたのだから、無駄といえばこんなに無駄もない。
しかもわたしは個人参加(=ひとりで部屋を独占)ということにしてもらって、3万円以上余分に払っているのだ。
世間には円高の時期を見計らって海外旅行をするくらい、経済観念の発達した人がいるようだけど、そういう人から見たら狂気の沙汰だろう。
わたしは貧乏人のくせに、経費よりも、いかにして旅の目的を有意義なものにするかのほうに、つねに関心があるのである。
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