中国の旅/泥人形工場
バス道路にそって歩き続け、ふたたび「宝界橋」を渡る。
橋の上から眺めると、そのあたりの岸壁にはいく叟かの船がつながれ、どの船の中にもそれぞれ家庭があるらしかった。
船上生活者らしい女性が船べりで食器を洗っており、エンジンをばらして整備している男たちもいた。
その向こうの湖のほとりはなにかの養殖場になっているらしく、養殖場を管理する家だろうか、湖畔にぽつんと1軒の家が建っていた。
シックイ壁の家だから欧風のおもむきがあり、ヨーロッパの絵画にでも出てきそうな景色である。
「宝界橋」を渡った先は十字路になっていて、そのあたりにもメリーゴーランドのある大きな遊園地がある。
これは「太湖楽園」というらしいけど、閑散としていて客の姿はほとんどなかった。
太湖のあたりが風光明媚な観光地であることはわかるが、なんでわざわざ風光をこわすようなものをつくるのかと思う。
ほかにもこの近くには、瓦屋根をもつ3階建てくらいの「◯◯休暇村」とかいう大きな建物があった。
これもホテルだそうで、この近くの「湖浜賓館」よりいくらか安いというけど、高層ビルでないだけ、雰囲気はこちらのほうがいい。
さらに少しバス路線を行くと、無錫の観光名所「蠡園(れいえん)」になる。
中国の庭園に興味のないわたしは無視と書こうとしたけど、いつも無視ばかりでは読者に気のドクだから、イヤイヤながら写真を載せる。
ただしこれはわたしが撮ったものではない。
あとで書くように、わたしはミスをして、このあたりの写真はないのである。
空腹になっていたわたしは蠡園まえのレストランで食事をしていくことにした。
ここには道路をはさんで、2軒の大きなレストランがあり、べつに理由もないけど、「蠡園菜館」という店のほうを選んだ。
蠡園菜館は1階が土産もの売場になっていて、わたしが入っていくとさっそく背の高い中年男性が話しかけてきた。
彼は日本語を知っていて、わたしが食事をしたいというと、2階に案内してくれた。
2階はレストランであるものの、えらく殺風景な店で、客がひとりもおらず、従業員たちがひとつテーブルに集まっていた。
わたしがみなさんの写真を撮りたいというとたちまち熱烈歓迎である。
歓迎はいいけど、暖房があまり効いておらず寒い。
ここでビールと料理を3品くらい頼んだ。
エビはいいとして、ドジョウを説明するのに絵を描いて説明しなければならなかった。
まさか柳川鍋はないだろうけど、わたしは以前から中国のドジョウ料理を、日本のそれと比較してみたかったのだ。
ドジョウの絵を見た従業員の女の子は、部屋のすみの水槽を指してアレかという。
水槽に入っていたのはウナギだったから、わたしはもっと小さいやつと指でサイズを示してみた。
女の子はうなづいた。
出てきた中国のドジョウは、骨ごとぶった切りにしてあるので、ひじょうにガンコで食べにくかった。
白飯も頼んだけど、上記の料理だけで腹いっぱいになってしまったのでキャンセルしてもらった。
だいたいにおいて中国の料理は量が多すぎるので、小食のわたしはどこでも、注文をしすぎないよう注意しなければならない。
食事を終えて1階に下り、みやげ物売場で先ほどの日本語のわかる男性と話す。
ノートが混乱してはっきりしないけど、男性の名前は“邵”さんだったと思う。
なかなか親切な人だった。
日本では大地震がありましたが、知っていますかという。
まだインターネットはない時代だったけど、日本の情報はすぐに中国に伝わっていたのだ。
あれは関西で、わたしは関東に住んでいますから“没関係”ですと、わたしはまた同じことを繰り返した。
土産もの売場には、日本語を勉強していて、やがて訪日する予定だという娘さんが2人いた。
2人ともまだ18歳ぐらいのかわいい娘である。
歩き続けてだいぶくたびれたので、「蠡園」からまたバスに乗った。
バス・ターミナルへもどるつもりが、やけに時間がかかるなと思っていたら、無錫駅まで行ってしまった。
このころから次第に雨が強くなり、駅前でタクシーは簡単につかまらない。
業をにやしたわたしはリキシャでホテルにもどることにした。
リキシャはふだんはオープンカーなんだけど、雨が降るといつのまにかビニールシートなどで幌をかけている。
リキシャはちゃんとホテルの玄関に横づけしてくれた。
タクシーで出かけた日本人観光客が、帰りは粗末なリキシャで帰ってきたので、ホテルの女の子もおどろいたかもしれない。
ホテルでわたしは自称“日本の有名カメラマン”らしからぬミスを犯した。
35Tiのバッテリー警告サインが点滅を始めたので、フィルムを電池を使わずにに緊急巻き戻しをしようとしたんだけど、そのためには下面にある小さなボッチをボールペンの先で押せばいいはずだと思った。
ところがどこを間違えたのか、フィルムは巻き戻らない。
わたしはバッテリーをはずし、また取りつけてみた。
これでカウンター表示がゼロにもどってしまい、なにがなんだかわからなくなってしまった。
最初から新しいバッテリーに交換するだけでよかったものを、オール自動のカメラが電池切れにおちいった場合を想定してなかったわたしは、パニックになって、フィルムをなんとか取り出すことだけを考えた。
マニュアルはどこだ。
いまならどんなマニュアルでもインターネットのなかにある時代だけど、当時はそんなわけにはいかなかったから、わたしは冊子になっているそれを中国に持参していた。
ところが上海でまだヤボ用が残っていたので、不用な荷物は龍門賓館のフロントに預けてきて、マニュアルもそのなかに入れっぱなしだったのである。
しまいにヤケになったわたしは、裏ブタを開けて(フィルム一本を無駄にするつもりで)、強引にフィルムを取り出そうとした。
しかし強引も通用しないのである。
最新式のカメラのバッテリー切れは恐ろしい。
わたしはついに無錫での35Tiの使用はあきらめるしかないと考えたくらいだ。
それでもどこをどうしたのか、じたばた悪戦苦闘したわたしは、なんとかフィルムを引っぱり出したけど、フィルムはパトローネの寸前で、見るも無残に切断されていた。
せっかく蠡園菜館で撮った、日本語を勉強しているという2人の娘の写真は永遠に失われてしまったわけだ。
この日のホテルの喫茶室には、例のおかっぱの許小姐とはちがう娘が働いていた。
彼女の名前は“麗艶”さんで、名前のとおり、口もとにホクロのある艶なタイプの娘である。
あなたは結婚しているのと訊くとイイエという。
それじゃ恋人はいるのと訊くと、にっこり笑って、このホテル内にいますという。
許小姐の写真が出来ていませんかと訊くと、ハイといって机の引き出しから出してくれた。
中国の現像所は日本のそのへんのDPより仕事が丁寧だ(日本では最近どこのDPでも自分のところで現像と焼きつけをするようになったものの、そのかわり仕事がじつにお粗末になった)。
ただしこちらではフィルムをきちんと裁断する習慣がないのか、ネガは36枚が長いままとぐろをまいていた(その写真は、翌日許小姐に見せたらネガごと取られてしまった)。
夕方、雨が小降りになったのをみこして、ホテルのまえにある「景山泥人形工場」を見学に行く。
門前の守衛に、ひとりなんですけどいいですかとことわって、べつに問題なく入ることができた。
ちょうど男ばかり数人の日本人観光客がガイドに案内されてやってきたので、わたしは彼らにくっついて、見学コースをガイドつきで見てまわった。
泥人形は無錫の名産でなかなかきれいなものである。
粘土を自然乾燥させて彩色しただけで、焼いたものではありませんから濡れると溶けますとガイドはいう。
粘土は無錫だけに産する特殊なものだそうだ。
粘土でかたちを作るところから彩色まで、すべてかなり熟練が必要と思われる繊細な作業で、日本のこけし作りに似ている。
ただしこけしは濡れても溶けない。
女性、男性、まだ中学生ぐらいの男の子までが、細い筆で人形の顔の造作を仕上げていた。
見学する日本人に対して、作業中のひとりの少年が不機嫌そうな顔をしていた。
だれだって動物園のパンダみたいに見物されていい気分のはずがない。
この少年の作業台の上に英語の教科書があったので、キミのものかと訊いてみた。
うなづいたから、わたしは紙に「要努力」と書いてみせた。
彼はようやくニッコリした。
工場を抜けるとみやげ物売場である。
展示されている絵画をじろじろ眺めていたら、男性の店員が日本語で話しかけてきて、墨一色で描いたササの葉について説明してくれた。
同じように見えるササの葉でも、これは風に吹かれているところ、これは雨に打たれているところと、みな微妙に異なっているのだそうだ。
そういわれてみると、たしかにナルホドと思う。
そのうち商品のひとつを持ってきて、こういうものは日本でも売れませんかと訊く。
その商品というのは、2枚のガラスにネコを描いた刺繍がサンドイッチされており、その図案が表と裏では形がちがって見えるという、不思議さをウリモノにした飾り物である。
うーんと考えたけど、日本人ならこういうものは機械プリントで作ってしまうだろう。
いくら手間ひまかけた手作りの刺繍でも、たんなるインテリアでは価格が見合うとは思えない。
中国人はいまだに家内工業にこだわっている。
手間と時間をかけた民芸品は、日本でも衰退する運命なのだし、特殊な工芸品ならともかく、工業製品として世界をマーケットにするのはぜったいに不可能ではないか。
話しているうち、べつの売場の女性がやってきて、アレッとすっとんきょうな声を出した。
たまたまいっしょになった日本人観光客がみな帰ってしまったので、わたしひとりが取り残されたと思ったのである。
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