中国の旅/景山楼飯店
ホテルを替えてくださいと頼まれ、おとなしくそれに従ったわたし。
雨のなか、タクシーで走っていくと前方に山があらわれた。
山というほどの山でもないけど、このときまでわたしは、天候がわるいこともあって無錫市内に山があることにぜんぜん気がつかなかった。
山の上には7層になった寺院の塔が見える。
新しいホテルは「景山楼飯店」といい、最初のホテルから通景西路をまっすぐ走って、「錫山」という山にぶつかるあたりを左折したところにある。
青く塗られた3階建てのペンションふうの建物で、それほど大きい宿とはいえないけど、ガードマンのような制服の守衛もいるし、フロントには可愛い娘も働いていた。
またスケベ根性を発揮して、わたしは一も二もなくこの宿に泊まることにした。
簡単な中国語と英語でフロントと交渉する。
宿泊料は200元というわけにはいかなかったけれど、上海のホテルに比べればやはりだいぶ安い。
部屋を見せてもらうと、ベッドは2つ、冷蔵庫もついており、バス・トイレもきれいで、欠点があるとすれば(あとでわかったけど)湯の出が悪いことくらい。
わたしの部屋は1階のはずれで、窓の外は宿の裏庭である。
裏庭にはカラオケ・バーがあったけど、昼間は従業員の着替え所に使われているようで、早朝から従業員が出入りしているのを何度か見た。
カーテンをあけておくと、向こうからもわたしの部屋の中がまる見えだ。
ここでもわたしは荷物を置くとさっそく近所の探索に出た。
さいわいもう雨はほとんどやんでいた。
ホテルの裏は、あいだにせまい住宅街をはさんで、先ほど見た「錫山」という低い山になっていた。
錫山にそって歩いていくと、ものの5、6分で『錫景公園』という大きな公園に着く(この写真はべつの日に撮ったもの)。
公園の門前にはいくつかの露店や食堂が店を出していた。
ただし公園そのものは、この時間にもう閉まっていた。
公園のまえの広い通りを横切ったところに京杭運河という大きな川がある。
わたしはその河畔に立った。
この運河は基本的には無錫の町の西方を南北に流れていて、地図を見ると人間の血管のように複雑に分岐している。
中国の川は西から東に向かって流れるということわざがあり、黄河も長江もそのとおりである。
中国では古来より大河が、人員や物資を移動させる道路の役割を担ってきた。
しかし人間の往来は東西ばかりではなく、南北もある。
そのさい大河は交通や通商のさまたげになるから、これらを南北につらぬく運河を造れば便利というのは、凡人のわたしでも思いつくけど、あいにくわたしにはそれだけのパワーも財力もない。
隋の時代の皇帝・煬帝(ようだい)がそれを実現した。
京杭運河は黄河や長江を横切って、北京と杭州をむすぶ2500キロの大運河で、万里の長城に匹敵するような難工事だったけど、詳しい説明はまたウィキペディアにリンクを張っておいたから、それを見るヨロシ。
煬帝は、中国の皇帝としてはめずらしく芸術を愛好する皇帝だった。
しかしその最後は悲惨なもので、彼は部下の裏切りに遭い、虜囚となって移送中に殺された。
わたしはしばらくぼんやりと、たそがれのせまる運河を眺めていた。
まったくこの国の歴史は測りが知れない。
ホテルに帰ろうとぶらぶら歩いていると、とある交差点の分岐近くにCOFFEEという英文字が目に入った。
コーヒーショップとは珍しいので、ちょっと寄ってみることにした。
この店は「新薫珈琲屋」といい、素っ気ないくらい簡単な店で、ボックス席が4つほどあるだけ、客はアベックがひと組いただけだった。
すみのカウンターの中に、日本でも山手線に乗ればかならずひとりか2人は見かけるような、えらく親しみやすい顔をした娘が立っていた。
娘は“符”さんといい、まだ学生で、喫茶店とつながっているとなりの部屋でコンピューターの勉強をしているという。
彼女と言葉を交わし、コンピューター室ものぞかせてもらった。
NECならぬNCCというコンピューターが並んでいて、ほかにも数人の若い男女がいた。
みんな室内でもジャンパーやオーバーを着たままである。
それでもパソコン元年とされる1995年に、すでに中国にコンピュータを勉強する学生がいたことは特筆していい。
彼らから、日本ではでっかい地震があったみたいだけど、大丈夫なんですかと訊かれた。
そういわれても本人がのんきに無錫をうろうろしてるんだから。
あれは関西ね、わたしは関東だから問題なしと返事しておいたけど、彼らの頭のなかの、小さいと思っていた日本が意外と大きいという事実を気づかせる契機になったかも知れない。
ホテルにもどるとロビーのかたわらにある喫茶室の娘が目についた。
おかっぱで可愛らしい顔をした娘なので、ここでまたコーヒーを飲む。
彼女の名前は“許”さん。
顔はおさない少女のようだけど、歳は30で子供がひとりいるという。
18くらいに見えますねというと、満足そうな顔をしていたから、中国でも女性はやはり若く見られるほうが嬉しいらしい。
写真を撮りながらいろいろ話をする。
この喫茶室は何時から何時までやっているのと訊くと、7時半から23時までだという。
明日デイトしませんかというと、ダメといわれてしまった。
写真は来年もってきてあげますというと、そのころにはもうワタシはここにいないかもしれない、明日無錫で現像すればいいのにという。
ワタシが現像に出しておいてあげるというので、出来上がりを早く確認したいわたしは、試しにそうすることにした。
このときわたしは写真を撮るのにちょいと小細工をした。
レンズのまえに女性のストッキングの切れ端をかぶせて、ソフトフォーカス効果を出してみたのである。
おかげで許小姐(“小姐=シャオチエ”というのは中国語で若い娘のこと)のなかなかいい写真が撮れたんだけど、いちばんいいものはあとでネガごと彼女に取られてしまった。
ここに載せたのは、そのときあらためて撮らせてもらった写真だ。
こんなことがあったものだから、そのうちわたしを日本の有名なカメラマンと誤解した噂が飛び交って、ホテルの従業員の娘たちがみんな、わたしも撮ってと騒ぐ。
赤い服の女の子はそういう従業員のひとりだ。
相手が若い娘というので、ここぞとばかりに撮りまくったから、フィルムが足りるかどうか心配になってきた。
35Tiはパトローネのバーコードを読み取って、自動的に感度を設定する機能をそなえている。
はたして中国のフィルムにもバーコードがついているものか、わたしは試しにそのへんでフィルムを1本購入することにした。
フィルムはホテルの並びで売っており、ちゃんとバーコードもついていた。
また雨が降ってきたので、ホテル内のレストランで夕食にしようと考えたけど、結婚式のパーティをやっていて満員で入れない。
中国でも結婚式は年々ハデになる傾向があるという。
宗教儀式の排除されている国だから、結婚式イコール・パーティということになるらしい。
やむをえずホテルのすぐまえにあるレストランへ飛び込んだ。
このレストランの名は『◎瑰園西餐庁』といい、レジに、中国女性の好むもじゃもじゃヘアースタイルで、西洋人のような大きな口をした女性が座っていた。
店の名前の◎の部分はあまり見かけない字だったから、わたしはメモ帳にへんやつくりを記録しておき、帰国してからそれが漢語林の一連番号4658の文字であることを突き止めた。
当時は無理だったけど、いまはパソコンでも表示できるようになっていて、これは“琨”という字だったから、この店の名は「琨瑰園西餐庁」というのだった。
ついでにいうと、“琨瑰”の意味はハマナスのことらしいから、この店はハマナス園レストランということになる。
口の大きい女性は、お化粧が濃く、水商売っぽい女性である。
ほかにも質素な感じの娘が店と厨房を出入りしていたけど、こちらはひとことも口をきかなかった。
わたしは紹興酒とマーボ定食ほか3品ほどの惣菜を注文して、ちびりちびりやることにした。
食事をしながら給仕にきた水商売っぽい女性と筆談をする。
彼女の名前は“肖”さんで、なかなか愛想がいい。
わたしはさっそく彼女の写真を撮っていろいろ話をした。
彼女も歳は30だそうで、聞きもしないのに自宅の電話番号まで教えてくれた。
食事を終えて勘定を頼むと、120元だけど、ワタシたちは友達だから90元でいいわという。
ウソつけ。
なんだか今回は女の子漁りみたいな記事になっちゃったけど、残念ながらこのうちのただのひとりともデイトしたわけじゃないから、うらやましく思う必要はない。
わたしはまじめでカタブツで、娼婦や関係をもった女の子が出てくるのは、まだずっと先である。
この日はほとんど1日雨もようで、だんだんわかってきたけど、中国では雨の中を歩きまわるとズボンが泥だらけになる。
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