中国の旅/亀頭渚
遮光効果満点のカーテンを少しあけておもてをうかがうと、庭の芝生がぬれているのがわかった。
この日も朝からいつ降り出してもおかしくない天気だった。
朝食は「景山楼飯店」内のレストランで食べた。
モーニング定食で、おかゆと小篭包に漬けもの、ケーキ、ミルクなどがつく。
中国のおかゆはわたしの想像よりうす味だったので、初めて食べたとき、わたしは塩をふって食べた。
そのうちおかゆについている刻んだ漬け物をいっしょに食べればいいということに気がついた。
大発見だと思ったわたしは、帰国したあと友人たちに自慢したら、そんなことはだれでも知っているといわれてしまった。
朝食代は宿泊料金とは別勘定で120元くらい。
ちょっと高いゾ。
ホテル内の喫茶室でまたコーヒーを飲みつつ、どこへ出かけようかと思案して、駅で買った地図でバス路線を調べてみた。
市内の南西部にバス・ターミナルがあり、その近くから太湖方面へ路線バスが出ていることがわかった。
ほかにあてはないから、まず太湖へでも行ってみるかと思う。
ホテルからタクシーをバス・ターミナルの近くまで走らせてみると、ターミナルのまわりは人間であふれていた。
ここは長距離バスの発着場で、太湖行きはたんなる近郊の路線バスだから、乗り場はどこにべつのところにあるらしい。
わたしはたむろしていたタクシー運転手らしき男をつかまえて、地図を示し、このバスに乗りたいのだと説明してみた。
男はそれよりタクシーを使ったらどうだといったけど、わたしはどうしてもバスに乗るんだと言い張った。
男はオレについてこいという。
親切な男だ。
案内されていくとかたわらに「出租自行車(レンタル自転車)」の看板があるのを見かけた。
自転車を借りることはこの旅のはじめから念頭にあったので、わたしは店の場所をしっかり記憶しておいた。
太湖方面行きバス(1番線)の乘り場は、無錫の最高級ホテルで、日本の東急の資本が入っているという「無錫大飯店」という大きなホテルのわきにあった。
親切な男はあまり親切でもなかった。
乗り場につくと案内料をくれという。
徒歩でせいぜい3、4分の距離だったから、わたしはポケットにたまっていた硬貨を出した。
男は指を1本立てて、にやにやしながら首をふる。
1元を出すと10本指を出す。
ふざけるなといってみたものの、けっきょく5元とられた。
バスはすぐにやってきた。
中国の路線バスは、ふたつの車体を蛇腹でつないだ長尺のもので、車体はとうぜん前世紀の遺物である。
この日に乗ったバスの運転手は若い女性で、彼女ががりがりとギアを鳴らしてポンコツ・バスを運転するのには感心した。
見ていると、路線バスの運転手は男より女のほうがずっと多い。
長尺のバスだけに、乗車口は前後に2つあり、車掌も前後に2人いる。
切符を買うのはかんたんで、わたしは紙片に「終点」と書いて車掌に見せた。
バスは終点まで乗ってたったの1元(12円)だった。
やがて郊外に出ると、バスの両側に並木のつづくのどかな農村風景がひろがった。
わたしはこの景色をどこかで見たことがあるなと思った。
それもそのはず、これは初めての中国旅行(江南の旅)のときに通ったことのある道で、そのときわたしたちの泊まった「湖浜賓館」もこの通りぞいにあったのだ。
やがて道路の片側に湖がひろがってきた。
地図をみるとこれは太湖の一部である「蠡(れい)湖」という湖だった。
“蠡”は画数の多いむずかしい字だけど、中国の故事「ときに范蠡なきにしもあらず」の蠡であるなんてことをブログに書いたことがある。
そんなことをいっても当世の若者にはわかりっこないので、もうちっと説明しておこう。
むかし、日本の南北朝のころだけど、後醍醐天皇という人がいて、敵方にとらわれて屋敷牢に閉じ込められていた。
深夜ひそかに忠臣が忍び込んで、天皇を励ますつもりで、サクラの木に「天勾践をむなしうするなかれ、ときに范蠡なきにしもあらず」と刻みこんで去った。
意味は、「天皇さま、がっかりなされるな。広い世間にはわたしみたいな忠臣もおりますぞ」ということだけど、これにはさらに中国の古典からのもとネタがあって、秦の始皇帝が中国を統一するよりさらに以前、越国に勾践という王さまがいて、彼にも范蠡という忠義の家来がいたという話が由来になっている。
太平記に出てくる有名なエピソードなので、戦前の教科書にはかならず載っていたという。
どうじゃ、この簡にして要を得た説明は。
わからん?
わかるわけないよな、新田義貞も足利尊氏も知らないいまの若いもんには(サジを投げる)。
バスに乗ってからおよそ40分ほど、蠡湖のわきに出てまもなく、バスは「宝界橋」という橋を渡り、終点の「亀頭渚」に着いた。
このあたりの地形には起伏が多い。
わたしは中国をじっさいに見るまで、江南のこのあたりは一面の平野で、山はもっとずっと内陸部へ行かないと見られないものと思っていた。
しかし1回目の中国旅行のときにすでにわかったことだけど、無錫から南京あたりにかけて、けっこう山のような地形は多いのである。
ただしそのほとんどが、日本でいえば狭山丘陵、秋川丘陵ていどの低い山だ。
亀頭渚でバスをおりると、目の前に「大空界」という大げさな名前の遊園地があった。
遊園地の門の近くに煮込んだ玉子を売る老人がいただけで、彼もヒマで手持無沙汰という感じだった。
つまらないところへ来てしまったなと思ったけど、いちおう遊園地のゲートあたりまで行ってみたら、ゲートのあたりがやけににぎやかで、先方から大勢の子供たちがわっと飛び出してきた。
なんだ、ゴジラかアンギラスでも出たかと思ったら、これはなにかのコマーシャル撮影で、はなやかに着飾った子供たちが、監督の指示でいっせいに両手をかざしてゲートから走り出る場面を何度も繰り返していたのだった。
見ていてじつにアホらしく、撮影隊のほかに観光客なんかひとりもいなかった。
「大空界」を無視し、ふきんをしばらく歩いてみることにした。
雨はほんの少し降り続いていたが、ニットの帽子をかぶせるだけでカメラの保護には充分だった。
遊園地のわきから坂道を登っていくと、わたしはたちまち前世紀そのものの中国の農村にまぎれこんでしまった。
周囲を灌木のしげる小山にかこまれた、どちらかというと山村のおもむきのある村で、みすぼらしい農家が肩をよせあっていた。
うすよごれたシックイの壁、薄い瓦をかさねた屋根、ぼろぼろに破れた障子、コエ溜めのある畑、ニワトリ、アヒルの走る庭、枯れたツタのまきついた庭木など、そこで見た農家のたたずまいは、おそらく中国の農村が千年以上も保ち続けてきたものにちがいない・・・・とわたしには思えた。
好奇心とカメラマン本能につき動かされたわたしは、畑のあいだのあぜ道をたどって、農家の庭にまで入りこんでいった。
さすがに家の中まで覗きこむのははばかれたものの、アルミサッシなどひとかけらも見られない。
暗い屋内に、頑丈な板戸や粗末な家具、農具などが見え、玄関を入ったタタキ(土間)の上に年寄りがすわっているのが見えたりした。
わたしが子供のころ、親戚の農家で見た景色と共通するものばかりだ。
ここではまだ柳田国男の“遠野物語”の世界が生きている。
日本の農村ではとっくに失われてしまった、なつかしい生活が残っている・・・・わたしはタイムマシンに乗って、幼いころの故郷にまいもどったような気がした。
ということで、ここに6枚ばかりその村の写真を載せた。
亀頭渚で見た田舎景色は、無錫の田舎でも、とくに古い農村の建物や風景がたくさん残っているところだったらしい。
この翌日、わたしは自転車でかなり広範囲に田舎を見てまわることになるけど、ここほど、貧しい、陰鬱な田舎景色はほかでは見ることができなかった。
ひょっとすると、このあたりはその後観光地として大々的に再開発されたらしいから、土地や家を売り払ったあとで、住人はいまさらきれいにしようという意欲を失っていたのかも。
農家のあいだをぬけ、いったんバス道路にもどって、こんどは湖の堰堤をぶらぶらと歩いてみた。
堰堤の上に、ひどくやせたイヌを連れた2人の子供がいた。
女の子と男の子で、温かそうな厚手のジャンパーを着ており、たぶん姉弟だろう。
わたしは写真を撮ろうよと彼らに声をかけ、サブカメラの35Tiを見せると、2人はそれをわたしの手から奪い取ろうとした。
ダメだよと叱ると、あきらめた2人はイヌを連れてさっさと走っていき、ずっと見ていると、バス通りのわきにある1軒屋に姿を消した。
そこが彼らの家らしい。
小雨の降る冷えびえとした日だったけど、煙突からたちのぼる煙は、その1軒屋に暖かな家庭があることをうかがわせていて、そういうものに縁のないわたしを、ちょっぴり感傷的にさせた。
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