中国の旅/無錫へ
1995年というとなにを連想する?
ウィンドウズ95が発売された年を、かりにパソコン元年とすれば、いよいよパソコン時代の開幕だ。
パソコンはやがてインターネットを生み出し、世界をそれまでとは一変させるほど狭いものにしてしまう。
とはいうものの、インターネットが海外旅行のための強力なツールになるのはまだ先の話で、わたしは情報を得るために自分で研究しなければいけなかった。
わたしはまた中国へ行くつもりでひとりで計画を練っていた。
また中国かい、好きだねえといわれそうだけど、世界をくまなく見るのも見識なら、わたしみたいにひとつの目的地を徹底的に見ようというのも見識である。
どっちがいいかは人による。
だいたいわたしには、世界をくまなく見るほど金がない。
中国はすぐとなりにあって、諸物価も貧乏人のわたしにふさわしいくらい安かった。
安いだけではなく、アメリカやヨーロッパの先進国に比べても、そこははるかに好奇心を満足させてくれるところだったのだ。
わたしの中国への旅は、1992年夏の団体ツアーによる江南の旅から、同じ年の上海ひとり旅、そして1994年正月の蘇州ひとり旅と、少しづつ距離を伸ばしてきた。
するとつぎは「無錫」ということになる。
なんで無錫なのか。
無錫は江南の旅でいちど行ってるけど、上海や蘇州とちがって農村が多いところで、そういうところを歩いてみたくてたまらなかったわたしは、欲求不満が爆発寸前のマグマ溜まり状態だったのだ。
現在ならインターネットで飛行機からホテルの予約、それどころかどんなホテルなのか、どんな場所なのかということまで調べられるけど、当時はインターネットもまだ黎明期で、そんなわけにはいかなかった。
出発まえのわたしの調査は、「地球の歩き方」や「AB-ROAD」などのガイドブックの研究から始まる。
それまでの旅では飛行機とホテルは旅行会社まかせ、向こうへ行ってから勝手に歩きまわるのがせいぜいというツアーが多かったけど、今回はまた一段レベルアップして、飛行機とホテルもすべて自分で選んでみることにした。
漢字ばかりでわかりにくいけど、5つ星の“波特曼香格里拉酒店”はシャングリラ・ホテル、“上海静安希爾頓大酒店”はヒルトン、“太平洋威斯汀大酒店”はウェスティン・ホテル等の外資系ホテルだ。
1年まえにわたしがHゴルフの会長さんに連れられていった花園飯店は、租界時代のビルを活用したホテルで、日本のホテル・オークラが運営していた。
わたしの狙うのは3つ星クラスである。
あっちこっちの旅行会社を比較しているうち、わたしははじめてHISに出会った。
いまでは上場企業になっている(コロナ禍で減資になったみたいだ)けど、当時は格安旅行の専門で順風満帆といった会社だった。
このあとしばらくは、わたしは海外に行くたびにこの会社の世話になった。
HISで格安飛行機と、わたしの財布にふさわしいホテルをみつくろってみた。
蘇州に行ったとき、飛び込みでかんたんに南林飯店に泊まれたことが頭にあったから、最初の晩だけ上海駅の隣りにあって便利な龍門賓館に泊まることにし、その後は現地で勝手にホテルを探すことにした。
ところで無錫だけど、はじめて行ったとき、どうしてこの街がコースに含まれているのかわからないほど、わたしは無錫という街を知らなかった。
その後、日本で流行った「無錫旅情」という演歌があって、これで人気が出たことを知ったものの、わたしは演歌をあまり聴かないし、いま聞いてもカラオケ愛好者ご愛用の歌のようで、とくにいい曲だとは思わない。
歌の歌詞を引用して参考にしようかと思ったけど、著作権がうるさそうだし、固有名詞をちょいと変えれば、どこが舞台であってもかまわないつまらない詩だった。
わたしがまた中国旅行を企てていることを知ったBさん(前回の蘇州に行った仲間のひとり)が、だれそれがシンガポールへ行ってるんだってよという。
シンガポールも華僑の国で、中国と無縁じゃないけど、すっごくきれいな近代国家らしいので、わたしはぜんぜん興味がないところだ。
わたしはこの旅に2台のカメラをかついでいくことにした。
1台は以前からのニコンF3に、レンズが24ミリ広角、標準、そして135ミリの望遠を用意した。
もう1台のカメラは暮れに買ったばかりの高級コンパクト、ニコン35Tiである。
本格的な写真はF3にまかせ、35Tiにはスナップていどの役割を担わせるつもりだ。
フィルムは冷蔵庫に入れてあった以前のものを含めて、全部で17本を用意した。
どうでもよくないけど、わたしの旅では、じつは帰国してから現像代だけで馬鹿にならない費用がかかるのである。
まだデジタル・メラも黎明期だったのだ。
そのころ、たまたま八王子に行く用事があったわたしは、アフリカ探検にでも使えそうな頑丈そうな革靴を買ってきた。
まだトレッキングシューズなどが一般的になるまえで、スニーカーでは都合が悪い場所に招待された場合、フォーマルな靴としてごまかせそうな黒の靴である。
これはいいと思ったけど、帰宅してよく見たらメイドイン・チャイナだった。
靴にとっては里帰りになるわけだ。
ところで1995年というと、もうひとつ忘れられない事件があった。
『阪神大震災』がそれで、こともあろうに、わたしが中国に旅立つその日の朝に発生したのである。
テレビが震災の一報を伝えていたけど、地震があったのはこの日の午前5時46分で、わたしは5時にいちど目をさまし、時間が早いからと、また寝入った直後でぜんぜん気がつかなかった。
しかし気がついたとしても、飛行機のチケットは購入済みで、べつに関西に親戚もないわたしが旅を躊躇する理由にはならなかったはず。
家を出たのは朝8時半ごろだ。
成田エクスプレスのバスの中で今回の旅のスケジュールを予習してみた。
旅の日程は10日間だけど、航空券はオープン・チケットにしてあるから、その気になればビザの有効期限いっぱい(30日)までは日程を延長できるわけだ。
しかしそのまえに所持金が底をつき、会社をクビになるに決まっている。
上海に1泊したあとは、無錫に3泊して、早めに上海にもどり、またあちこちふらつく予定。
じつは蘇州の旅に同行した上海娘のW嬢や、その友人に頼まれた用事もあるので、ふらついてばかりもいられないのである。
なんのかんのといってるけど、ずいぶん贅沢してるじゃねえかという人がいるかも知れない。
しかしこれは家族や家庭を放棄し、まともな人生と絶縁したからこそできることであって、わたしの人生は悲しいものなのだよ。オワカリ?
成田空港には11時ちょうどに着いた。
わたしの4回目の中国旅行のスタートである。
ここではずらりと女の子の写真を並べたけど、けっしてイヤらしくそういう写真ばかりを撮っていたわけではアリマセン。
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