中国の旅/新しい旅立ち
唐の都「長安」を知ってマスカ。
知ってるよね、いまどきのボンクラ大学生でなければ。
それじゃ日中戦争のおりに、蒋介石が腹心の部下だった張学良の“兵諫(へいかん)”にあって、ピンチになった街は知ってマスカ。
こちらは中国の歴史に関心がないと、そう簡単にはわからない。
正解はどちらも「西安市(長安)」である。
という前置きから、わたしの5度目の中国の旅が始まるのだ。
1995年の1月に無錫からもどって、同じ年の11月に今度は西安に行くことにした。
おまえも中国が好きだなあという人がいるかも知れない。
その理由は、近くて費用が安いからということはこれまでも書いてきたけど、ほかにもみんなが納得するような理由が考えられないだろうか。
自分を国際通であると主張するためには、あちこちできるだけたくさんの国を見てまわらなければいけないという人がいる。
それもたしかにひとつの見識だ。
しかしわたしのように、ある特定の国を、深く徹底的に知ろうというのもまたひとつの見識じゃないか。
4度も訪問したおかげで、わたしはようやく、興奮にとりまぎれて見るべきものを見失ったり、忘れたりすることなしに、たとえば上海の街を、じっくりながめることができるようになった。
なぜわたしはこれほどまでに中国が好きなのだろう。
わたしはずぼらでだらしがない人間なので、ずぼらの極致のような中国の街に来ると、なんとなく古巣に帰ったような安堵感をおぼえるのだろうか。
ある知り合いは、優越感さとかんたんに切り捨てた。
それも当たっているかもしれない。
わたしは貧乏人だから日本にいては、たとえば帝国ホテルやホテル・オークラへどうどうと入っていくだけの勇気がない。またその資格もない。
しかし中国ではわたしは特権階級である。
ここではわたしはうす汚れた賤民の羨望のまなざしをあびながら、さりげなく高級ホテルに出入りすることができるのだ。
これを快感といわなければなんといおう。
しかしわたしはこういうものの考え方が愚劣なものであることもよく承知しているので、大慌てで弁解をする。
それだけじゃないんだ、それだけじゃないんだぜと。
ただ優越感を味わいたいだけなら、ほかにも日本人が特権階級になれる国はいくらでもある。
たとえば貧しいことでは中国より上といわれるインドあたりでもいいはずだし、フィリピンでもベトナムでも、東南アジアの大半の国、いや、アフリカでも中近東でもロシア、南米でも、世界中のほとんどあらゆるところで日本人は特権階級になれるはずだ。
好奇心旺盛なわたしはむろんインドにも行ってみたい。
しかしインドで、中国で感じたと同じ印象をうけるとは思わない。
いったいインドと中国ではどこが違うのか。
わたしが中国語の勉強をしていたころ読んだ中国語テキストの中で、著者の鐘ケ江信光という先生がこんなことをいっていた。
「つまり、すべての人に郷愁をいだかせるふしぎな魅力をもった国と国民なのでしょう」
わが意を得たりという感じがする。
わたしが中国で感じて、たぶんインドでは感じないものは、つまり“郷愁”というやつなのだ。
中国の街を歩いていると、わたしはなぜかとてもなつかしい気持ちになってしまうのである。
たぶんわたしの前世は上海のチンピラやくざで、敵対する組織につかまって簀巻きにされ、蘇州河にでもたたっこまれたことがあり、それがいまでも遺伝子のかたすみに染み込んでいるんじゃないか。
目的地が西安なのだから、列車に乗るところから始めてもいいんだけど、メモを読み返してみると、やはり上海行きの飛行機のことが、自分で書いたものだけど捨てがたい。
で、今回もまた成田空港から始めることにする。
これまでわたしが中国へ行くのに利用した飛行機は、ユナイトをのぞいてあとの3回はすべてNU(東方航空)だったけど、今回は初めてCA(中国国際航空)を使ってみた。
いつもと同じ手続きをへて、てきとうな時間に乗客待合室に入ると、上海行きの飛行機はおじいさん、おばあさんの団体といっしょだった。
やはり郷愁を誘われる国だとそうなるのかもしれない。
掲示パネルを見ると上海行きは15時55分に出発のはずが、遅延していて、じっさいに搭乗開始したのは16時半だった。
ゲートも変更になっていた。
それでも上海行きはまだいいほうで、14時55分のセブ島行きなんか21時15分に変更になっていた。
もし3泊4日くらいのツアーで6時間の遅延としたら、フイになった時間の割合はかなり大きいゾ。
飛行機はまあまあ混んでいるほうだった。
乗客が全員乗り込んでメインの扉が閉め切られたあと、わたしは首をのばして機内を観察し、気密ドアの横のシートが空いているのを発見した。
そこは出入りの通路に面したハンパな場所だから、いちばん最後に売られるシートなのだろう。
しかし通路に面しているということは、誰に遠慮することもなく、足を思いきりのばせる場所でもある。
わたしは勝手に席を移動してそちらに座ってしまった。
斜めまえには離着陸時に、空中小姐(スチュワーデス)が向かい合わせに座るし、窓からは半分翼に視界をさえぎられるものの、なんとか下界を眺めることもできた。
離陸したのは17時12分。
飛行機が高度を上げていくとき、西の茜空がとてもきれいだった。
離陸してすぐにうとうととしてしまった。
目をさますとひざの上に小さな箱が置かれていた。
なにかと思ったら、小さなジャンボのプラモデルで、中国国際航空(CA)の景品らしかったけど、そんなものを大のおとながもらっても仕方がないから、上海でホテルの服務員にあげてしまった。
食事のときにながめると、CAのスチュワーデスはスラックス姿で、ストライプのシャツにニットのベストである。
イロ気がねえなと、つまらないことを観察しながら機内食を食べた。
食事のあと、わたしのとなりにひとりの男性がやってきて、いきなりタバコをふかし始めた。
わたしは禁煙席を頼んだはずであり、勝手に席を移動したけれど、そこもやはり禁煙席のはずだった。
わたしが注意をすると、相手は、おかしいなあ、客室乗務員にこっちで吸えといわれたんだけどという。
わたしがチケットを確認しようとすると、すぐ後ろの席のアベックが、ここは禁煙席ですよと口を出したので、喫煙者はそそくさと姿を消した。
外は月夜らしかった。
わたしの席から月は見えないものの、空には星が光り、飛行機は月光に照らされた草原のような雲海の上をゆく。
いつもながらわたしを魅了する幻想的、詩的な光景だ。
イヤホーンで機内放送を聴いてみると、どこかで聴いたことのある印象的な旋律が流れていた。
なんだっけと考えて、しばらくしてようやく、それは“リリー・マルレーン”だったことを思い出した。
機内のアナウンスももちろん中国語だけど、それさえ耳に心地よい。
上海の上空に着いたのは20時ごろ(ここから中国時間)で、夜とはいえ、こちらは雲ひとつない天気で、上空からわたしはまだ10カ月まえにやってきたばかりの上海の街をながめた。
なつかしい街よと、もうこのへんでいいようのない郷愁で胸がいっぱいになる。
このときの空港はまだ虹橋空港で、タクシー乗り場にいくと、男がひとり、どこへ行くかと訊く。
タクシーの整理係かと思って「新亜大酒店」と答えると、わたしの荷物を持ってこっちこっちという。
ついていくと乗り場から離れた場所に停めてあったタクシーの前である。
いくらだと訊くと200元以上の値段をいう。
こんちくしょうめ、こちらも上海は初めてじゃない、60元がいいところだろといって、わたしは荷物をとりもどし、正規のタクシー乗り場に引き返した。
やれやれ。
ちゃんとメーターで走るタクシーで新亜大酒店へ。
前回の旅で泊まったこのホテルが気に入ったので、予約はしてなかったけど、わたしはまっすぐそこへ行くことに決めていた。
車内でさっそく上海のタクシー事情を考察する。
初乗りが14・4元で、新亜大酒店までは高速道路を使って65元くらいだった。
高速道路は市内循環線で、十六浦のほうから外灘を眺めつつ北上するので、だいぶ迂回することになるけど、日本でいえば新宿から上野に行くのに、首都高速を使って芝浦まわりで行くようなものなので、これはやむを得ない。
飛行機が遅れたので新亜大酒店到着は21時ごろになっていた。
赤い制服をきたドアガールもフロントの服務員も、両替所の高慢ちきな娘も見おぼえのある顔だけど、メガネをかけた日本語の話せる服務員はいなかった。
予約なしでも宿泊はOKで、ホテル代は1泊が560元(7千円)くらいだという。
もっと安い部屋もあるはずだけど、どうせ2泊だけだということであえて要求しなかった。
この日の円の相場は1万円が約785元で、1元が13円ぐらい。
ホテル代は前払いだそうだ。
両替してもらわないとホテル代が払えないんだけど、ホテルの両替は朝7時から夜9時までだという。
勤務終了まぎわで、帰宅の準備をしていた高慢ちきな娘が不承不承両替してくれた。
わたしは3万円をいちどに両替した。
両替した金のつりを数えてみるとだいぶ少ない。
どういうことかとすったもんだすると、デポジット・マネー(保証金)だという。
つまり“押金”かと紙に書いて、わたしもようやく納得した。
保証金は両替時に2日分まとめて取られた。
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