中国の旅/康師傳
見えてきたのは湖のほとりに建つ、せんべい瓦と漆喰壁の中国式建物だった。
奇妙だというのは、この建物がもともとは贅を尽くした金持ちの別荘のようであるのに、現在はみっともなく落ちぶれて、べつの目的のために使われているように見えたことである。
ここにようやく橋があったので、自転車に乗ったまま、道路と平行している運河を越えてみた。
越えたあたりになんとか飯店と書いた建物があった。
飯店といったらホテルのことだけど、しかしこれはホテルではなかった。
どうもこのへんの建物はみな病院、もしくは療養所として使われているらしく、わたしはそういう施設の敷地みたいなところに迷いこんでしまったらしい。
場違いを感じたわたしは早々にもとの通りにもどった。
運河にそってさらに行くと、この先にも橋があり、橋のたもとには守衛所があって、あまり真剣味の感じられない守衛たちが通行を監視していた。
わたしが写真を撮りたいので中へ入ってもいいかと訊くと、暴走族にでもいそうな若者の守衛が、ああ、いいよとえらく気安く通してくれた。
こちらの橋をわたった先は大きな島になっており、あたり一帯はずいぶん緑の多いところで、外から見ると島全体がなにかの工場のようにも見えたけど、ここには養魚場の研究室や、またしても病院、療養所などがあって、看護婦らしい女性が歩いているのにも出会った。
窓からたくさんの布団が干されて、あきらかに病院として使われている建物もあった。
湖にせり出した観望楼のような、凝った造りの建物がいくつも残っており、そのうちのひとつは気のドクに、いまでは30度くらい傾いてしまっていた。
この運河でへだてられた広大な敷地は、たぶん昔はそっくり中国の大官の壮大な別荘でもあったのだろう。
革命後に大官がみんな首をくくられるか、自己批判させられて、屋敷も手放さなければいけなくなり、空き家になった建物を新中国は病院・療養所として活用することにしたのではないか。
湖のほとりで空気もいいところだから、療養所も悪くはないけど、建物の外観があまりに異質である。
こんなところを自転車でうろうろしているわたしもそうとうに異質であるので、適当なところで引き上げることにした。
どうも、といって守衛室のまえを退散すると、気のいい守衛たちはにこやかに手をふってくれた。
午前中から自転車で走りまわったので空腹になってしまった。
中国ではどんな田舎へ行っても、レストランや露店の飲食店が必ずある。
だから食うには困らないと思っていたのに、さすがに無錫の片田舎では、そのあたりにレストランはおろか、露店らしきものも見えなかった。
地図をながめると、還湖路の先に2つのホテルがあることがわかった。
その方向へ自転車を走らせると、なるほど、右にちょっと入ったというころに2軒のホテルが向かいあって建っていた。
まず大きそうなホテルに顔を出し、横柄な守衛にメシ食えますかと訊くと、やってないと一蹴されてしまった。
仕方なしにもう1軒の「怡園飯店」というホテルへ行ってみた。
なにしろ湖畔の、畑の中の閑静な場所にあるホテルなので、庭はとなりの農家の畑と地続きであり、客なんかひとりもいそうにない。
フロントもえらく殺風景で、誰もいなかった。
ゴメン下サイと叫ぶと、奥から居合わせた家族がみんな出てきた。
ホテルの門のわきにある売店の老夫婦までやってきた。
メシを食えますかと訊くと、ホテルの主人らしいおばさんが、中途半端な時間なのでやっていませんという。
腹がへって死にそうなんですけどねえと訴えると、麺ならあるけどと、売店のおばあさんが横から口を出す。
結構、結構、このさい腹に入るものならなんでもOKとわたしはいう。
おばあさんに連れられて売店にいくと、麺というのはカップラーメンのことで、おばあさんが目の前でカップにお湯をそそいでくれた。
ラーメンがふやけるまで、わたしはヒマつぶしにカップの側面の文字を写してみた。
“康師傳・紅焼牛肉麺”というカップ麺であった。
麺はともかく、人々の素朴な親切が身にしみた。
現在ではもっと種類が増えているだろうけど、このころわたしが中国で食べたインスタントラーメンでは、この康師傳ブランドがいちばん美味しかったので、わたしは長距離列車に乗るときなどはいつもこればかり買っていた。
カップラーメンで腹のふくれたわたしはそろそろ帰路につくことにした。
ホテルの前の道を北に行こうとすると、売店のおじいさんが、おーい、そっちは行き止まりだと教えてくれた。
還湖路にもどってわたしのサイクリングは続く。
いろんなものを見た。
またしても大きな遊園地のような施設があった。
広い駐車場に数えるほどの車しか停まっていなかったから、客はほとんどいないようである。
これでこのあたりには、自転車で1時間でまわれる範囲に、遊園地が3つもあることになるけど、こういうのは前後を考慮せず、儲かりそうなものならなんでも飛びつく中国人の悪習によるものか。
この遊園地をすぎてから適当なところで右折し、そのまま東に走ればまた無錫バス・ターミナルにもどれるはずである。
そのつもりでいたら、すぐ「梅園」という、味も素っ気もない名前の観光名所があった。
青梅や尾越の梅林のように、低い小山の全体が梅園になっているようで、見てまわるにはかなり時間がかかりそうだし、花の咲いている時期ではないだろうと無視して通りすぎた。
この通りには江南大学があり、大小の会社や商店、民家もならんでいる。
ま、なんてことのない大通りなんだけど、のんびり自転車でながめながら行くにはけっこう興味はつきない。
高層ビルがあまりないから、空がひろく、わたしは晴々とした気持ちで自転車をこいだ。
レンタル自転車を返したのは午後4時ごろ、料金は45元くらいだったと思う。
これでいちにち、徒歩ではとうてい不可能な範囲を見てまわったのだから、無錫の3日目は大成功といえる。
ちなみにこの日わたしが走った距離がどのくらいのものか、地図を見てふりかえってみた。
初めての土地は、馴れた土地より広く感じるものだけど、おおよそ15キロぐらいで、ただしそうとうにふらふらとまわり道をしたから、じっさいにはこの倍くらい走ったのではないか。
場所は無錫市の中心から、南西の郊外にあたる地域である。
自転車を返したあと、バス・ターミナルからすこし歩いて、友宜商店をのぞき、また歩いて、三叉路のロータリーからリキシャで錫景公園までもどった。
ホテルに帰るまえに「新薫珈琲屋」に寄ってみると、たまたま店にいた小姐が、わたしの顔を見るとあわてて最初の日に知り合った符小姐を呼んでくれた。
まるでわたしが符小姐の恋人でもあるかのようである。
彼女はあっけらかんとして出てきた。
腹がへっている、なにかないかいと訊くと、彼女はすぐまえの店で食べものを売っていますという。
わたしは符小姐と連れだってまえの店に行き、袋詰めのスナックを買った。
この日も奥のコンピューター学習室には彼女の仲間たちがいて、わたしが首をつっこむと、片言の日本語を話す若者がいろいろ説明してくれた。
日本語ワープロとしても使えますといい、じっさいにパソコンで日本語の表示ができるのを観せてもらった。
景山楼飯店にもどるとフロントの服務員がわたしを呼び止め、翌日上海へ帰るために依頼してあった列車のチケットを渡してくれた。
料金は25元で、来るときに比べると半値だけど、そのかわり硬座(2等車)である。
上海までの所要時間は2時間半ぐらいだから、席なんかなんでもいいんだけど、あとで考えたら、列車のチケットは中国人料金で買い、わたしには外国人料金で売りつけたのではないかという疑惑が生じた。
わたしはいいカモだったのかも知れない。
これで無錫の旅というか、あてもない無錫放浪は終わりである。
その名前の出てくる演歌がありますよと教わるまで、無錫の名前も知らなかったわたしだけど、この旅ではたまたま転換期にある中国の農村事情を垣間見ることになった。
あちこちで見たように、ここには新しい外資系の工場が増えており、わたしが郷愁を誘われたようなものの大部分は、押し寄せる近代化の大波に飲み込まれる寸前のように思えた。
わたしはこのとき以来、いちども無錫に行ってないけど、2023年の無錫について調べると、その恐れは現実になったようである。
しかし文句をいうわけにもいかない。
中国の一般大衆は日本と同じような繁栄の道をつっ走っていて、生活は間違いなく向上しており、不潔で不便な公衆トイレも、いまではウォシュレットが普通になりつつあるようだから。
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