中国の旅/東方明珠
最近ではまわりにできた高層ビルに埋もれてしまった感のある東方明珠テレビ塔は、一時期上海のランドマークタワーといっていい建造物だった。
わたしが初めて上海ひとり歩きをした92年の暮れには、この塔はまだ建設中で1/3ぐらいしか出来上がってなかった。
この塔の外観が完成してはじめてライトアップされたのは、建国45周年の国慶節にあたる94年の9月24日、事実上の完成は11月だったというから、今回(95年)の旅ではまだ完成して3カ月しか経ってなかったわけだ。
何度も上海に出かけたわたしは、はからずもこの塔の成長するさまを、順ぐりに目で追ってきたことになる。
この塔をバックに太陽がのぼる瞬間を撮れば、ステキな写真になりそうな気がしたので、ある朝早起きして出かけてみた。
まだ日の出まえだからまっ暗だけど、すでに通りにはロータリーバスが動き出し、仕事を始めている人たちもいて、危険はなにも感じなかったから、徒歩で蘇州河づたいに上海大厦に向かう。
ひとつ上流の橋の上で三脚をかまえて、外白渡橋に太陽がかかる瞬間を待ちかまえる。
いい写真かどうかは、見る人の主観によるといったのは、わたしの写真にケチをつけた先輩の意見。
もちろんわたしもいい写真だとは思ってイマセンけど。
写真を撮ったあと、そのまま黄浦江ぞいの外灘(わいたん)公園まで行ってみた。
早起きの老人たちが太極拳やラジオ体操をしていた。
剣舞をしている人たちがいたので、本物の剣なのか、持たせてもらうと、いわゆる竹光みたいな軽いオモチャの剣だった。
この人たちを見下ろす銅像が建っていたから、説明を読んでみると、革命後、最初の上海市長だった“陳毅”の像だった。
彼は抗日戦争や国共内戦で戦った共産党の軍人で、1972年に亡くなったけど、中国の、その変貌をもっともよく象徴する上海の外灘に置かれて、なにを思うやら。
いったん新亜大酒店にもどってまたひと眠りし、午後になってから今度は昼間の東方明珠に、日本語通訳を2人連れて上ってみることにした。
通訳2人というとずいぶん豪華な旅みたいだけど、早くいえば(遅くいっても)、つまり女の子をナンパしちゃったのである。
引っ込み思案のわたしにしてはめずらしいことだけど、このまえの日に上海駅の売店で印鑑を購入して、書体をなににするかといろいろ考えていたとき、売り子が日本語を話すということを発見した。
日本語のわかる相手がいるとなにかと便利である。
あれやこれやと日本の話などするうち、翌日デイトすることになってしまったのだ。
食事やホテルはケチるわたしも、女の子のまえではついカッコをつけてしまい、気前のいいところを見せたがるのである。
ところが相手の頭のなかには、残虐非道な日本軍の記憶が反日思想で叩き込まれていたのか、ひとりではなく2人で来るという。
ああ、いいよと、わたしの見栄の張りっぷりもスゴイ。
この2人の名前は、年長のほうが“剛”さん、若いほうが“初”さんである。
女性の登場する文章で肝心なことは、相手がどんな容姿かということだ。
剛さんはもっそりしたおばさんタイプ、初さんは鼻の下にうぶ毛をはやしたまだ大学生みたいな娘で、2人とも恋愛小説向きではなかった。
いくら中国でも、変なことを想像してはダメである。
「東方明珠」まではタクシーを使った。
このころは車で対岸へ渡るのに、南浦大橋か楊浦大橋しかなかったから、わたしにとって初めての楊浦大橋を使って、料金は70元近くとられた。
東方明珠については、出来たばかりの塔なので、2人もまだ上ったことはないという。
東方明珠は“東洋の真珠”という意味で、その当時世界で2位、アジアで最高の高さを誇るテレビ塔だった。
東京タワーやパリのフッフェル塔は鉄骨でできているけど、こちらはコンクリートで、全体にボリュームのある構造になっている。
ウルトラマン映画に出てくる未来の建物みたいという人がいたけど、わたしはウルトラマンを観たことがないのでわからない。
東方明珠のある浦東新区は、上海を象徴するめざましい開発地区だということだけど、少なくとも塔のまわりは殺風景で、建築現場がいくつかあったものの、みやげ物屋やきれいなレストランが乱立しているわけではなかった。
東方明珠のまえで女の子たちにお金を渡し、入場券を買ってきてくれと頼んだ。
2人は出かけていって、やがてテレビ塔の写真が印刷された、日本の観光地でもよく見るようなきちんとした入場券を買ってきた。
料金はひとり50元(600円)である。
入場券にそう印刷してある。
正式の切符売場がどこにもないんですよと彼女らはいい、やむを得ずダフ屋から購入したという。
塔の入口には赤い制服を着た女の子たちが、なにかのセレモニーのように整列して客を迎えていた。
まだオープンして間がないので、中国人もたくさん見物に来ており、エレベーターのまえは見学者たちが行列している。
わたしはこういうところに並ぶのが大嫌いなんだけど、2人の娘と話をしたり、塔の内側を観察したりして、まあ退屈はしないで済んだ。
日曜日だったらもっと混んだだろう。
わたしはこれまで、このテレビ塔を日本の東京タワーのようなものだろうと思っていた。
その中にはレストランやみやげ物屋、遊戯場がそろっていて、半日くらいは遊べる場所だろうと思っていた。
ところが東方明珠の中には何もなかった。
客を展望台に運ぶエレベーターは、20人乗りくらいの小さいのがひとつ稼働しているだけで、ほかにレストランや土産もの屋、遊戯場などもない。
1階のホールは全体にがらーんとした雰囲気で、それどころか、まだあちこち工事をしている箇所も見受けられた。
壁に諸外国の大きな観光写真が飾られていたけど、ありきたりの写真でおもしろくもなんともない。
見てくれはいいが、中身がぜんぜん伴っていない・・・・まるで現在の中国経済を象徴しているみたいだなと、そのときのわたしは思った。
さすがに展望台からの眺めはよかった。
見学者が上れるのはふたつある球形の下の展望台までだけど、それでもここから見る上海の景色はさすがのものだった。
黄浦江をはさんで、外灘の租界時代のビル群や、蘇州河の河口あたりが一望である。
その後メチャクチャといっていいほど、高層ビルが乱立した現在の上海ほどではないけど、戦前に租界時代の上海を初めて見た欧米人が、ウォールフロント(偽りの正面)と呼んだ、その心境をほうふつとさせる景色だった。
わたしはうなった。
うなったけど、同時にこの繁栄はホンモノだろうかと、中身のない東方明珠のていたらくを思い出してつぶやいてしまう。
帰りに剛さんが入場券の裏に押してあるスタンプを見つめて首をかしげた。
スタンプには20元の料金が読み取れる。
おかしいわねえ、おもてには50元と印刷されているのに、裏はそうではない、ダマされたのかしらと彼女はいう。
最初は意味がわからなかったけど、そのうち思いついた。
ようするにダフ屋は外国人向けのチケットを中国人料金で購入し、わたしには外国人の料金で売りつけたのだろう。
似たようなことは列車の切符で経験したことがあって、当時の中国ではダフ屋の常識だった。
帰りは黄浦江の連絡船に乗った。
平らな船台に屋根をつけたような船で、桟橋からひとまたぎで船内である。
広さはテニスコートの一面にも足りない程度だけど、船内にはしきりもなにもないから、詰めこめばそれでも2百人くらいは乗れそうだ。
乗客は平らな船室に立ちっぱなしで、自転車、オートバイもごちゃまぜである。
フェリーではないから自動車は乗れない。
黄浦江の河幅は6百から7百メートルくらいだろうか。
乗船している時間はせいぜい15分から20分。
わたしたちが乗ったのは、外灘のはずれに発着場のある公共の連絡船で、浦東地区へは3隻でピストン往復をしているようだった。
地図を見るとこれ以外にも黄浦江を往復するフェリー路線はたくさんある。
料金は、と書こうとしたけど、タダだった。
ここでも2人はおかしいわねえといっていたけど、これもあとになってから原因がわかった。
黄浦江を渡るための料金は往復5角(6円)で、往路で支払い、到着すると切符は改札の箱に放り込んでしまうので、帰路の改札はないのだった。
こういうのは鷹揚というのか、デタラメというのか。
まだ中国の一般人民が黄浦江を渡るには、連絡船しかなかったころで、連絡船のなかに物乞いがまわってきたのにはおどろいた。
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