中国の旅/出租自行車
朝、ホテルの窓から外を眺めたらいい天気になっていた。
今回の旅で中国へ来て最初の好天気である。
レストランでメシを食いながら、時刻表を見て、翌日上海に帰るための列車を探し、無錫を10時52分に出る「游1」という列車を見つけた。
ホテルで切符の手配もできるそうだから、それを依頼しておいて、好天気のこの日はまずホテル裏の「錫山」に登り、山頂の塔に登ってみることにした。
コーヒーを飲んだあと、わたしは背中にカメラザックを背負い、カメラを2台持ってのフル装備でホテルを出た。
「錫景公園」の門が開いていたので無断で入っていったら、黄色い声をあげておばさんが飛び出してきた。
入場料を払えという。
この公園の入場料は9元である。
入ると門の内側にすぐ池があって、池のまわりにヤナギなんぞが植えられていたけど、そんなに感心するほどきれいなところでもない。
公園内は広大な公園になっていて、「天下第二の泉」とか、博物館などもあるそうだ。
老人や観光客らしい男女が数人、山道を行き来していたので、わたしも登山道を登ってみた。
中国の山といってもなにか特徴があるわけではなく、あたりの植物は奥多摩あたりの低山で見るものと大差ない。
のんびり登って、ほんの15分か20分で山頂にある寺の山門のまえに着いた。
山門はがっちりと閉ざされていたので、なんだ、ここでお終いかと思う。
ふりかえると、雨上がりのせいか、無錫の街はもやにけぶり、京杭運河に日が差してきらきらと輝いていた。
錫景公園の近くのロータリーになっている立体交差点もよく見えた。
これ以上登れないのかと思っていたら、寺の塀にそって横のほうに細い道があり、それをたどると寺の裏門に出て、そこに料金徴収所があり、小さな売店などもあった。
売店の壁には「湖山迎爽」と書かれた額や、大きな水墨画がかけられていた。
山頂の塔は「龍光塔」といい、これに登るにはまた1元払う。
1元払って塔に登ってみたけど、階段は頭をぶつけないよう注意したくなるほど狭い。
さいわい観光客は、ほかに軍人の2人連れがいただけで渋滞することはなかった。
塔は階段だけで出来上がっているような造りで、各階に部屋のようなものがあるわけではなかったから、これでは寺というよりただの見張り台である。
内側のシックイ壁には、観光客が残した落書きのひっかきキズがいっぱいで、なにか芸術作品のようだった。
7階の最上階からは無錫の町が一望で、北側の山にはロープウェイがあるのも見えた。
「龍光塔」について知りたい人のためにリンクを張っておく。
ただし中国のサイトなので、そのままでは読めない人はグーグル翻訳を使ってネ。
下山するとちゅう、どこかで弦楽器にあわせてうたう声が聞こえてきた。
近づいてみると東屋になった休憩所で、老人たちが胡弓に合わせて歌をうたっていた。
写真を撮らせてほしいというと、老人たちは愛想よく、わざわざ胡弓をひくポーズ、歌をうたうポーズをとってくれる人もいた。
この世代は日中戦争も知っているだろうに、わたしはこの旅の途中で、カメラを向けて年寄りからいやな顔をされたことがいちどもない。
むしろわたしが出会った中国人のほとんどが、どちらかといえば日本人に好意を感じているようにみえた。
錫景公園の門前でタクシーかリキシャはいないかと探す。
たまたま駐車場に3台の三輪タクシーが停まっていた。
三輪タクシーというのは昔なつかしいダイハツ・ミゼットみたいな小型車で、ご多分にもれずえらいポンコツである。
そのうちの1台がどこか具合が悪いらしく、運転手たちが集まってエンジンを覗きこんでいた。
後ろからわたしも覗きこみ、ついでに無錫汽車駅(バス・ターミナル)まで行かないかと訊いてみた。
15元でこのポンコツに乗って(きちんとしたタクシーでもワンメーターの距離なのだが)、前日と同じように市の南西部にあるバス・ターミナルへ向かう。
その近くに出祖自行車(レンタル自転車)があることは前日に確認ずみである。
レンタル屋のおばさんは最初パスポートを見せろなんていっていたけど、外国人を相手にするのは初めてだったとみえて、そのうちいい加減になり、保証金も取らずに自転車を貸してくれた。
わたしは何台かあるうち、後部に子供用のバケットシートのついた自転車を借りることにした。
バケットシートがあるおかげで、カメラザックを背負ったまま走る必要がなく、じっさいに走り出してみるとすこぶる快適だった。
どちらへ行こうかと考え、まずバス・ターミナルから西方にある“蠡渓(れいけい)路”へ出て、あとは太湖方向へひたすら南下することにした。
むろん途中におもしろそうな景色があれば片っぱしから覗いてやろうと考えつつ・・・・
バス・ターミナル近くに蠡渓路へ出るらしい路地があり、そこへ入ったほうが近道のように思えた。
そこでのんびりと自転車をこいで、とある団地の庭に入っていったんだけど、ここでわたしはひとつの教訓を得た。
“中国の路地は複雑な迷路であり、けっしてヘタに踏み込むべきではない”
団地を抜け、住宅のあいだをぬっていくと、大きな溜池のほとりに出た。
溜池は運河につながっていて、土手の上には緑色の草が萌え、遠方を運貨船がゆるゆると動いているのが見えて、なんとなく春を感じさせるのどかな景色である。
自転車を転がして溜池の土手をいくと、その先に小さな橋があった。
橋は両側が歩行者用の階段になっていた。
せいぜい7、8段の階段だったから、わたしはエイッと自転車をかかえて橋を越えてしまった。
越えるとその先が行き止まりになっていた。
舌打ちをしてまた自転車をかかえ、もと来た道を引き返す。
ここに限らないけど、どういうわけか中国人は先を考えずに道路をつくるらしく、中国の街や住宅には迷路のような通りがひじょうに多い。
これは中国人が住宅にまで城塞の要素を取り入れたせいかもしれない。
あるいは自己中心的で、勝手気ままに、建てたいところに家を建てたせいかもしれない。
わかりやすい道路で育った日本人は、とにかくめったなことでは近道をしようなどと考えないことだ。
ようやく蠡渓路に出ると、大きな橋があった。
橋を渡ったあたりは新興工業団地とでもいうべきか、畑の中に新しい近代的なビル、工場などが多かった。
そんなものを見たいわけじゃないけど、中国の橋はアーチ状にふくらんでいるものが多く、その上から遠方をながめるのに都合がいい。
橋の上から遠くを眺めると、右手にのびる道路の先に耕地がひろがっていて、農村らしい集落がいくつか点在するのが見えた。
あそこへ行ってやろうと思う。
橋を渡ってから適当なところで蠡渓路をはずれ、のんびりペダルをこいでいくと、やがてまわりの景色はしだいに閑静な町なみ、素朴な農村へと変わっていった。
この日はとても暖かく、自転車でのんびりサイクリングを楽しむには好適な日だった。
わたしはときどき自転車を止め、カメラのファインダーを覗きながら、こころゆくまで無錫の片田舎をさまよった。
イヌがいた、ネコがいた、アヒルやガチョウがいた、そしてどこへ行っても笑顔で迎えてくれる親しみやすい人たちがいた。
わたしがカメラをかまえると村中の人が飛び出してきて、異口同音に、おお、日本人か、よく来たという。
なんだか急に有名な映画スターになったような気分である。
人々の親切ばかりではない。
中国の農村にはわたしの撮影意欲を刺激する、それこそ異質のきわみと思えるような被写体があらゆるところにあふれていた。
きみょうな形の屋根、うすよごれた家の壁、積み重なった屋根瓦、どれもこれもわたしの好奇心の対象だった。
畑のあいだにぽつんと石碑の立つ墓があった。
わたしは列車に乗っているとき、畑のあいだに墓石が立っているのをいくつも目撃していて、なんとかもっと近くで見てみたいと思っていた。
こちらの墓は、たいてい薄べったいコンクリートの板か、不愛想な四角い柱に、「〇〇年冬・先母△△之墓」のような簡単な文字を刻んだだけで、墓石がなく泥まんじゅうの跡がくずれかかっている墓もあった。
日本のようにみかげ石の墓石を建立するわけではないけど、あたりのたたずまいは日本の墓とあまり変わらない。
ある村では果樹園の中に、りっぱな霊廟があった。
そばまで寄ってみると、門は施錠してあり、誰も住んでいるようすがなかった。
建物のかたちからして、もともとは住職のいる寺だったのかも知れないけど、革命後の中国では、葬式などの祭祀をつかさどるためにのみ存在しているのだろう。
門のまえに華かざりの残骸が捨てられていた。
村々を覗きながらあちこちまわり道はしたものの、蠡渓路からほぼ直角に西にむかうと、“環湖路”という湖のほとりの道になった。
交通量はあまり多くなく、のどかな感じのするところで、橋の下を運貨船がくぐりぬけていったりした。
運河の岸辺にいくつかの民家があった。
小さな子供が遊んでいたから写真を撮ろうとすると、こわがって泣き出してしまった。
喜ぶ子供もたまにはいたものの、中国の子供たちは写真というものにあまりなじみがないようで、カメラを向けて泣きベソをかかれることがしょっちゅうだった。
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