中国の旅/永寧門のあたり
西安賓館に落ち着いてすぐに、ホテルからいちばん近い城門の、明徳門(南門)あたりまで散歩に出ることにした。
ここで気になったのは、わたしのメモには「明徳門」と書いてあったのに、グーグルマップでは南門は「永寧門」となっていたことである。
グーグルマップをよく見ると、明徳門のあったあたりは現在の西安市のずっと南の郊外になっているから、これは明の時代に縮小されるまえの、オリジナル(唐の時代の長安)の南門を、なにかのまちがいでメモに書いてしまったのではないか。
唐の時代の南門が明徳門だとしたら、長安が現在の西安の6倍もあったことは不思議ではない。
ということで、わたしが散歩で向かったのは永寧門に訂正しておくけど、あらためて戦慄すべき長安の広大さを思った。
用意周到なわたしは、帰りの列車を確保してからのんびり街を見て歩こうと考えていたので、西安賓館を出るまえにフロントで、ここで列車の切符がとれますかと訊いてみた。
いいえ、とれませんとのこと。
あまりあっさり言われたので、怒る気にもがっかりする気にもなれず、そのままホテルを出た。
永寧門は西安賓館から城壁に向かって、まっすぐ2キロもないところだから、のんびり歩いたって30分ほどで着く(地図を参照のこと)。
この門のまえは広いロータリーになっていて、信号はなく、あたりの車の往来はかなりのものだから、年寄りは道路を横断するのが大変だろう。
ロータリーのかどにANAの出資による「長安城堡大酒店」という大きなホテルがあった。
西安では掛け値なしの5つ星ホテルで、ひらけた場所にあるからその威容は城壁にひけをとらない。
しかしこのホテルは2006年にANAが経営権を手放したそうだ。
栄枯盛衰は世の習いで、本国が落ち目になると、出先機関も落ち目になるという典型的なパターンなのだろう。
最近の写真で見ると、長安城堡大酒店のまわりにも高層ビルが増えていて、わたしが見たころほど偉容は自慢できなくなっている。
永寧門のすぐ下に行って、あらためてすぐ近くで城壁を観察すると、幅、高さとも3、4階建ての建物くらいあるというのは誇張ではない。
門の下を車が通行し、両側に歩道まであるのである。
もっともすぐ近くで見たのでは、有楽町のガード下みたいで、あまりおもしろいものでもないけど。
門をくぐって通りを直進すれば、これは鐘楼のある西安のメインストリートで、古風な言い方をすると朱雀大路ということになるらしい。
城内を本格的に見物し始めると時間がかかりそうだから、この日はホテルの近くだけを探索するつもりで、永寧門から引き返した。
帰りのついでに「長安城堡大酒店」のフロントで、列車の切符が手配できるものかどうか訊いていくことにした。
フロントでは、商務中心(ビジネス・センター)で訊いてくれという。
これはひとつの例だけど、中国語では欧米由来の施設や品物を、そのものズバリの直訳ということが多い。
商務中心がビジネスセンターであることは、日本人なら容易に判断できるだろう。
外資系のホテルにはかならず商務中心があって、わたしにはあまり縁のないところだけど、たいてい容姿端麗な娘が働いているものだ。
ホテルへ向かって歩いていると右側の路地の奥にごたごたした露店が見えたので、ふらりとそちらへ迷いこんでしまった。
それは中国のどこにでもある小さな裏町の市場で、食料品や日常雑貨などが売られていた。
ここには2つの球体がゆっくり回転するゴマ油攪拌器があり、中国ではめずらしい電動のオートメーション機器がいい香りをただよわせていた。
自転車につるされたウサギの死骸もあった。
最近の日本ではクマが人間をかじっても、カワイソウといって助命嘆願をする人がいるそうだけど、まだまだ中国ではそんなやわな精神は皆無だったころである。
肉や脂に混じって、中国の市場でよく見かける大きなレバーみたいなものがあった(冒頭の写真)。
なんですか、これはと聞いてみればよかったけど、どうせ返事を聞き取れないに決まっているし、いちいち紙に書いてやりとりをするのもメンドくさいから、あとで調べることにした。
あとで調べてみたらこれは「血豆腐」というものだそうだ。
動物の血を固めたものだというけど、どうやって食べるのか、じっさいに食べたことや、調理をしているところを見たことがないのでわからない。
麻婆豆腐ばかり食べているわたしだけど、字づらからしてあまり食べてみたいと思わない。
先にわたしの旅はモーム流と書いたけど、こんなふうに行った先で、食べたり遊んだりするより、生きものや人の生活に興味をもつわたしの旅は、「ダーウィン流」ともいえるかも知れない。
西安賓館は夕食がついてなかったので、この晩はホテルのすぐ前にある「福慶酒楼」という店で夕食にした。
ここではカレー味の麻婆豆腐、そしてキノコの絵を描いたら持ってきた、茹でたブロッコリーみたいな野菜、そしてビールを頼んだ。
生野菜に飢えていたわたしは、街で新鮮なモヤシかカイワレダイコンのようなものを見たから、それはないかと訊くと、出てきたのは「清炒豆苗」というモヤシ炒めだった。
生で食べる野菜はなかなか出てこないものだ。
美人とはいえないものの、目つきのとろんとした女性がやってきて、なにか手助けできることがありますかと紙に書いた。
彼女と筆談をまじえて他愛ない世間話などをする。
彼女の名前は“益”さんで、トマトは中国語でなんというのと聞くと、「西紅柿」だという。
トマトは柿じゃないんだけど、こちらでは果物とみなされているらしく、とくにことわらずに注文すると、まずまちがいなしに砂糖をかけられてしまうので、日本人はこれに塩をかけて食べるんだよと説明する。
わたしはこのあと中国へ行くたびにアジシオの小瓶を持参して、市場のトマトを盛大に食ったから、名前を知っておくことはぜったいに必要だったのだ。
なぜトマトなのか。
まだ糞尿を肥料として利用している中国で、キャベツやレタスのようなややこしいかたちの野菜を生で食べるのは危険だけど、トマトならかんたんに水洗いして、表面をハンカチかティッシュでぬぐうだけでいいからである。
ここで注意をひとつ。
西安に4泊もしたので、わたしは同じ場所に何度も出かけたことがある。
そんなものを別々に書いていたら、書くのもわずらわしいし、読むほうも混乱すると思うので、そういう記事はひとつにまとめてしまうという作為をした。
だから以降の記事はかならずしも時系列通りに並んでないこともアリマス。
明るいうちに往復したときはまだやってなかったけど、西安賓館から永寧門までの通りには、夜になると「南稍門飲食街」といってたくさんの屋台が出る。
わたしは市場と同じくらい、こういう屋台街を見て歩くのが好きだ(わたしのブログを読むような人ならやっぱり好きだろう)。
ただし現在の中国ならいざ知らず、このころの中国の屋台は、先進国の女の子が興味本位に行ける場所ではなかったことも事実。
食事をすませたあと、寝るには早かったから、またぶらぶらとその屋台街を見物に出かけた。
なかなか盛大なもので、西安の人っていうのは夜は自宅でメシを食わないのかと思うほど、どの屋台もにぎわっていた。
烤肉という串焼きの羊肉や、カエル、ザリガニ、野菜でも香菜(パクチー)など、いろんな食材があって、ダーウィン流を愛する旅人には飽きないところである。
ただ見ていてもつまらない。
食事はすんでいたけど、まだ胃袋にいくらかすき間が残っていたから、ここで餃子を食べてみることにした。
ワンタンのようにスープの中に浮いた餃子はなかなか美味しいし、量的にもわたしの胃袋にちょうどいい。
ただし最初に値段を交渉しておかなかったら餃子だけで20元とられた。
餃子を食べていると、誰かがわたしの背中をつっつく。
ふりかえるとすぐ後ろに、汚れた服装の2人の物乞いが立っていた。
2人ともまだ少年で、しかもひとりは盲目で、右腕がなかった。
びっくり仰天したわたしがあたふたと紙幣を出すまえに、少年たちは屋台の人間に追い払われてしまった。
また目の前の道路っぱたで、幼児がこちらにお尻をむけてもりもりと大便をしていた。
これではとてもおちついて食事なんかしていられない。
わたしはほうほうの体で食事を終えた。
西安賓館のすぐ前には「唐楽宮」という大きな劇場があり、連夜のように外人観光客のバスが並んでいる。
劇のひけ時にいくと、派手な天女スタイルの女の子たちにかこまれて、米国人らしい観光客がやにさがったまま記念写真におさまっていた。
この劇場と物乞いの少年とは、中国の光と影というところか。
中国の福祉政策はどうなっているのかと、帰国してから調べてみたら、中国の福祉政策、とくに幼児に対するそれは悲惨なものらしい。
ひとりっ子政策のおかげで、生まれるとすぐに間引きされたり捨てられたりする女の子があとを絶たないのだそうだ。
また孤児や薄弱児を収容する施設では、およそ人間らしからぬ扱いがまかりとおっているという。
これは中国から亡命した人間の証言だからあまり信用するわけにいかないけど、日本でもつい最近まで、寝たきり老人を虐待する養護施設や、れっきとした病院が問題になっていたのだから、行政の目のとどかない中国の、そうした場所でそうしたことが繰り返されていてもおかしくない。
ただ、これはあくまで95年当時のことなので、その後のこの国の福祉政策にも、繁栄のおすそわけがまわっていると信じたい。
ホテルのラウンジで寝るまえにコーヒーを飲む。
ラウンジの娘が愛想がよかったので、わたしもついやにさがってしまった。
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