中国の旅/兵馬俑考
というわけで、兵馬俑を見学したあと・・・・
おいおい、まだなにも書いてないじゃないかといわれてしまいそう。
じつは1995年の旅では、兵馬俑は写真撮影が禁止になっていたので、写真がないんだよね(現在はそんなことはない)。
そのままでは兵馬俑はネットで見つけた写真を使うしかないところだけど、さいわいわたしは95年以降3回も兵馬俑の見学に行ってるので、あとで撮った写真はたくさんある。
ここに載せたのはそういう写真。
あまり関心がないにしては、ずいぶん行ってるじゃないかといわれてしまいそうだけど、その後の3回というのはぜんぶパック旅行だったので、兵馬俑の見学は最初からコースに含まれていたのだ。
いったい兵馬俑というのはナニモノであるか。
これからそれについてヨタ話をでっちあげようと思うけど、わたしはロマンチストであると同時に、非情なリアリストでもあるので、世間の俗説を破壊する可能性がある。
兵馬俑に夢やロマンスを感じている人は、以降の文章は読まないほうがいいかも知れない。
簡単にいえば兵馬俑は、亡くなった人があの世に行っても権勢をふるえるようにと、人間の代わりにお墓に埋葬した人形の軍隊だ。
上海の博物館に行ってみれば、始皇帝以前にも兵馬俑は各地にあったことがわかる。
ただし、さすがに等身大以上というのは少なくて、たいていはテルテル坊主のように小ぶりなものが多い。
兵馬俑についてはいろいろな伝説や物語がある。
大半は科学的根拠にもとずかない、フィクション・ネタばかりだけどね。
始皇帝が亡くなったのは紀元前210年で、お墓は生前から準備されていたようだけど、建設が本格的になったのは息子の胡亥が後継者になってからだろう。
親父が偉大だったから墓も偉大でなければならないと、墓の建造に金をかけたもんだから、それだけで秦という国の土台は傾いてしまった。
極道息子が家を傾けるという、このへんの事情はとてもおもしろい。
始皇帝の墓は地下に造られ、豪華絢爛たる宮殿や、周囲に水銀の流れる川などがあって、それは壮麗なものであったらしい。
書物によっては墓のなかにたくさんの財宝が埋まっていると書いたものもある。
中国にも死者にお金(ニセ紙幣)を持たせて葬る風習があるから、始皇帝クラスになれば、そう考えるのも無理はない。
しかし秦が崩壊したのは紀元前206年、ということは始皇帝が死んで4年後にはもう国が滅亡したわけで、あとを襲った項羽の軍隊は、秦の痕跡を根絶やしにするような破壊と略奪をした。
始皇帝の陵も焼き討ちされ、その炎はえんえん3カ月も燃え続けたという。
かりに金銀財宝が副葬品として埋められていたとしても、これではとても無事だったとは思えない。
盗掘者から守るために、陵の構造を知っていた設計者、土工などはひとり残らず生き埋めにされたなんて話もある。
しかし後継者争いで殺された始皇帝の子供たちの骨らしきものは見つかっているものの、大量の人骨が発見されたというニュースは今のところないみたいである。
いずれにしても、始皇帝が死んで4年後では、まだ陵の秘密を知っている人間は多数生存していただろう。
項羽の軍隊はそのへんのチンピラ盗掘団ではなく、国家が盗掘を推進したようなものだから、始皇帝の陵の周辺に金目のものはひとつも残ってないと考えるほうが自然である。
ではなぜ兵馬俑だけは無事に残っていたのか。
じつは無事でもなかったのだ。
もともと兵馬俑は弓や槍のような武器も携えていたらしいけど、そういうものはほとんど残っていない。
おそらくまだ使用できる武器はすべて奪われて、兵馬俑本体は、こんな役立たずの陶器製人形をひとつひとつ壊していたらえらい手間だから、そのまま埋め戻してしまえというのが真実じゃないか。
わたしが項羽だったらそうするな。
兵馬俑にはいくつもの伝説があり、そのひとつとして兵馬俑の製造方法がわからないという説もある。
わたしは兵馬俑を見に行くとき、近くの村でまだ制作中の兵馬俑を見たから、これもあまり信じられない。
兵馬俑が作られたころ、日本ではまだずん胴の埴輪しか作れなかったからそう思うんだろうけど、ギリシアのほうではこれより古い時代に、あのリアルな女性の裸体像さえ作っていたんだから、そんなに大騒ぎするようなことかしら。
しかも中国にはヘレニズムやオリエント、北方の異民族、南方の少数民族など、さまざまな文明が流れ込みやすい条件がそなわっていた。
兵馬俑には同じ顔のものがないともいわれている。
始皇帝の軍隊は、さまさまな民族の寄せ集め軍隊だったらしいから、軍装や髪型を変えるのは簡単でも、8000個もあるとされる兵士の表情すべてに変化を与えるのは、才能のある漫画家にもむずかしい。
まだ3Dプリンタもないころだし、ひとつひとつが手作りだから、これは同じ顔を作るほうが難しかったということじゃないか。
かってに作らせたら同じものができなかったというのが真実だったりして。
わたしが旅をしたころの中国人は、職人の腕がなってなく、トイレや洗面所も設計図通りに作れなかったのだ。
そんなことより始皇帝陵のスケールを考えてみよう。
わたしは金品には興味がなくても、陵のスケールの実際ぐらいは知りたいのだ。
陵から兵馬俑まではおよそ1.5キロあるので、兵馬俑が陵の一部として造られたものなら、これは全長が、最低でもそれ以上ある広大な墓苑だったはず。
ここに載せた図は、始皇帝陵と兵馬俑の位置関係を(妄想たくましいわたしが)図にしてみたもので、兵馬俑はみんな東を向いているというから、もしも陵と兵馬俑が東西を結ぶライン上に一直線に並んでいるなら、こんなもんじゃなかったかという配置を描いてみた。
最前列に兵馬俑が並び、そのうしろに大臣や役人、女官などが並んでいるけど、大臣以下は人間のかたちをした俑ではなく、その地位を象徴する金目の品物だったとする。
惜しむらくはそうしたものは、残らず略奪されたはずだということである。
かりに兵馬俑が東西を結ぶライン上になく、アンバランスに置かれていれば、これは陵の前方だけではなく、前方の2カ所に、あるいは陵の4隅に配置しようとされていた可能性もある。
とすれば、陵の大きさは最初の図どころではなくなるだろう。
でっかいことの好きな皇帝の意に応えようとすれば、万里の長城並みのスケールがあった可能性もあるけど、残念ながら、たとえば長城は何百年もかけて少しづつ増築と延長を繰り返してきたのに比べ、始皇帝陵にはそんなに時間がなかった。
始皇帝陵の建設が始まったのは、彼が諸国を統合して、国をひとつにまとめてからだとすれば、そこから秦が崩壊するまで15年ぐらいしかないのである。
始皇帝の子孫が5代も10代も続けば、陵の建設もずっと続いたかも知れないけど、息子の胡亥はあとを継いでほどなく国を食いつぶした。
当初の構想ではもっと大きかったかも知れない始皇帝陵は、途中で建設がストップしてしまったと考えるのが妥当なのだ。
こういう状態だから、始皇帝陵と兵馬俑のふきんをいくら発掘しても、エジプトのツタンカーメンみたいな価値のあるものは出てこないだろう。
そう考えた中国政府は、この中国の歴史を象徴する皇帝の墓を、神聖な伝説にするつもりで、いまそこは日本の明治神宮のような樹木の多い公園に変身させられてしまった。
これがいちばんいい方法かも知れない。
文革のたんびに、独裁の象徴だ、反社会主義的だと目のかたきにされるより、子孫のために、観光客を呼び寄せる役目を担うほうが平和でいい。
わたしの結論としては、ミステリーファンには申し訳ないけど、始皇帝陵の近くに、もうめぼしいものはなにも埋まってないだろうということである。
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